第8章 嫌いなママがついにいなくなった
秘書が会議だと告げると、重久瑛介は前谷明梨を伴って、迷いもなくすたすたと出ていった。池川里緒の存在など、最初からそこになかったかのように。
二人の背中を見送った瞬間、里緒の身体からふっと力が抜ける。
男が本気で冷たくなったとき、泣こうが縋ろうが、弱さを見せようが――何ひとつ届かない。
それでも、里緒は席を立たなかった。
瑛介の意識は完全に前谷明梨へ傾いている。明梨がひと言煽れば、瑛介の約束なんて簡単に曖昧になるだろう。
だから、口で確約を取らない限り、安心できない。
里緒はオフィスのソファに腰を下ろし、ただ戻りを待った。
すると、半開きのドアの外から、子どものはしゃいだ声が転がり込んできた。
顔を上げると、見慣れた小さな影がぴょんぴょん跳ねながらこちらへ駆けてくる。
重久綾斗だ。
「綾斗様、走っちゃだめです!」
ベビーシッターが息を切らして追いすがる。
綾斗はお構いなしにオフィスへ飛び込み、そして、ぴたりと止まった。
十数歩。母子は距離を隔てて見つめ合う。空気が、妙に張り詰める。
綾斗がぱちぱちと瞬きをした。ここで母親に会うとは思っていなかったのだろう。
里緒はその幼い顔を見つめ、心臓がちくりと痛んだ。
自分が産んだ子。自分の手で育てた子。なのに、今は――どこか遠い。
「綾斗」
里緒が先に呼ぶ。
「どうして会社に?」
綾斗は唇をきゅっと結び、すぐには答えない。
追いついたベビーシッターが、里緒にぺこりと頭を下げた。
「奥様。社長が今夜、綾斗様をお食事に連れて行くとおっしゃって。先にこちらへお連れするようにと」
里緒は小さく頷いた。
綾斗はつるつるの床をつま先でこすり、ぽつりと聞く。
「ママ、なんでここにいるの」
一瞬、言葉に詰まり、それから里緒はぎこちなく笑った。
「パパと話があってね」
「ふーん……」
沈黙が落ちる。
里緒はためらってから、そっと聞いた。
「最近……元気?」
綾斗はちらりと里緒を見て、すぐ目を伏せる。
「まあまあ。おばさんが毎日お迎えに来てくれて、おいしいの持ってきてくれる」
胸が、ぎゅっと掴まれる。
「……ママのこと、少しは恋しかった?」
里緒は恐る恐る言った。
綾斗は困ったように黙り込む。――少しだけ、確かに。
でも「恋しかった」と言ったら、なんだか負けみたいで恥ずかしい。
結局、綾斗は意地を張って顔を背けた。
「ぜんぜん!」
里緒の笑みが、そこで固まった。
そのとき、ドアが開き、重久瑛介と前谷明梨が戻ってきた。
「綾斗!」
明梨が花が咲くように笑い、しゃがんで両腕を広げる。
「いい子。おばさんのこと、会いたかった?」
綾斗の表情がぱっと明るくなり、駆け寄って勢いよく抱きついた。
「おばさん! ぼく、すっごく会いたかった!」
明梨は綾斗を抱きしめ、頬にちゅっとキスを落として柔らかく笑う。
「私も。今夜、おいしいの食べに行こっか」
「うん!」
瑛介はオフィスに残っていた里緒へ目をやり、眉をひそめた。
「……まだいたのか」
里緒は綾斗から目を引きはがし、喉の奥の痛みを飲み込んで言う。
「……待ってたの」
綾斗は里緒を見て、何かを思い出したみたいに顔を曇らせる。
明梨の服の裾をつまみ、小さな声で聞いた。
「おばさん、ママもいる。ママもいっしょにごはん行くの?」
明梨の笑みが一瞬だけ止まり、瑛介を見る。
瑛介は淡々と言い切った。
「違う。ママは話があるだけだ。終わったら帰る」
綾斗はほっとした。けれど次の瞬間、焦りで顔がこわばる。
綾斗は知っている。ママは「来ない」と言っても、結局ふらっと現れる。
友だちと遊ぶ約束の日も、水だの上着だのと持ってきて、みんなの前で恥をかかせた。運動会だってそうだ。来ないって約束したのに来て、しかもあんな格好で笑われた。
今夜は、やっとおばさんが和食に連れて行ってくれる。邪魔されたくない。
綾斗は明梨の腕からするりと抜け、里緒の前へ行って見上げた。
「ママ、帰って。今日はおばさんが連れてってくれるんだ。ついてこないで」
里緒は、その言葉に胸を抉られる。
「綾斗、ママは一緒に行くつもりじゃ――」
「じゃあ、早く帰って!」
綾斗が遮った。焦りで声が尖る。
「ママ、いつもそうだ! 来ないって言って、結局来る! ぼく、嫌なんだ。そんな格好でいたら笑われる!」
背筋が、すうっと冷えた。
明梨に大勢の前で辱められるより、ずっと痛い。――自分の子に言われるのだから。
通りがかった社員たちが足を止め、ちらりとこちらを見る。同情か、野次馬か。どちらにせよ、里緒の心は裂けそうだった。
尊厳を床に叩きつけられて、踏みつけられる。踏んだのが、実の息子。
耐えられるはずがない。
「綾斗、ママにそんな言い方――」
瑛介が珍しく咎めた。
「ママは話に来ただけだ。食事には行かない」
綾斗は瑛介を一度見てから、また里緒を睨みつける。目の縁が赤いのに、意地だけは崩さない。
「それでも嫌! ママ、帰って! ここにいないで!」
そう言いながら、里緒をぐいっと押した。
不意を突かれ、里緒はよろけて一歩下がる。
――何をしているんだろう。
ここで待っているのは、案件のため。池川グループのため。父のため。
なのに彼女は今、道化みたいに立っている。夫に無視され、息子に追い払われる。
「……分かった。帰る」
里緒は涙を飲み込み、頷いた。
瑛介を見上げる。
「私の件は……」
「分かった」
瑛介は面倒そうに顔を逸らす。
「三日だ。三日で片をつける」
「……ありがとう」
里緒は小さく頷き、踵を返した。ゆっくり、ゆっくりとドアへ向かう。
背後で綾斗の弾んだ声が跳ねる。
「やった! おばさん、嫌なママやっと帰った! アニメ見たい!」
明梨の笑い声は水みたいにやわらかい。
「いいよ。綾斗の言う通り」
里緒は無理やり、振り返らなかった。
ビルを出た瞬間、堪えていたものが決壊する。涙が頬を伝って落ちた。
入口で立ち尽くし、どこへ行けばいいのか分からない。
呆然としていると、ポケットのスマホがぶるりと震えた。
