第9章 彼ら二人は部屋を取っている
中浦優斗からのメッセージだった。
【里緒、今日会ったとき渡しそびれた。最近動いてる案件のデザインラフ、何本か送る。時間あるときに目を通して、感覚戻しておいて。焦らなくていい。ゆっくりで】
ファイルが添付されている。
いつの間にか風が出ていて、池川里緒はぶるっと身震いした。
――なのに。
胸の奥が、その数行でそっと灯る。
里緒は深く息を吸い、短く返した。
【うん、ありがとう先輩。ちゃんと見るね】
送信すると、彼女は踵を返して駐車場へ向かった。
矢川七海の家へ戻った頃には、もう夕方が近い。
七海は不在で、リビングはしんと静まり返っていた。ローテーブルの上に、メモが一枚。
【出張行ってくる。ひとりで気をつけて。冷蔵庫にごはんあるから、ちゃんと食べてね】
その文字を見ただけで、心がじんわり温かくなる。
――まだ、自分を気にかけてくれる人がいる。
里緒はバッグをソファに放り、シャワーを浴びて部屋着に着替えた。机に向かい、ノートパソコンを開く。
中浦優斗のラフを一枚一枚、何度も見返す。細部を噛みしめるように眺め、ふと思いついたことはノートに書き留めた。
気づけば、外はすっかり暗い。
目を揉み、夕飯にしようとパソコンを閉じかけたとき、スマホが鳴った。
表示された名前に、心臓がすとんと沈む。
重久瑛介。
里緒はその文字をしばらく見つめた。呼び出し音が切れそうになって、ようやく通話に出る。
「……もしもし」
「綾斗がレストランにいる。迎えに行け」
短く、命令だけ。
里緒は一瞬言葉を失い、すぐ眉を寄せた。
「日料に連れて行くって言ってたじゃない。あなたが迎えに行けば――」
「急用だ」
瑛介は淡々と遮る。
「お前が行かないなら、子どもを一人で待たせるのか? 綾斗はもともとお前に不満がある。母親なら挽回しろ」
池川里緒はスマホを強く握りしめた。
この男はいつも、痛いところだけを正確に突く。
――でも、綾斗はあなたの子でもあるのに。
「場所を送る」
それだけ言い捨てて、通話は切れた。
次の瞬間、メッセージで店の住所が届く。
もう遅い。里緒は着替える余裕すらなく、鍵を掴んで外へ飛び出した。
深夜の道路はがらんとして、街灯が一つ、また一つ、車窓の外を流れていく。
人影の少ない景色が、逆に不安を煽った。
――遅れたら、綾斗に何かあったら。
二十分後、ようやくレストランに辿り着く。
店は閉店間際で、店員が一人、テーブルに突っ伏して眠っている小さな子の傍についていた。
胸がひゅっと縮む。
まだ五歳だ。瑛介は……こんな時間まで、この子を。
確認を済ませると、店員が静かに道を開けてくれた。
薄暗い照明の下。小さな背中が丸まっている。寒いのか、かすかに震えていた。
鼻の奥がつんと痛み、視界が滲んだ。
里緒は駆け寄ってしゃがみ、そっと呼ぶ。
「綾斗」
何度か呼んで、ようやく綾斗が眠たそうに瞼を持ち上げる。
――なのに、里緒を見るなり、第一声はそれだった。
「なんでママなの?」
伸ばしかけた手が宙で止まる。胸の奥に鈍い痛みが走ったが、里緒は無理に声をやわらげた。
「パパから連絡があって、ママが迎えに来たの」
「いらない」
綾斗はぷいっと顔を背ける。
「おばさん、心臓が苦しいって病院行ったの! 迎えに来るって言ったもん! おばさんが戻ってきて、ぼくがいなかったら困る!」
里緒は、止まったままの手をゆっくり下ろした。
――自分は信じないのに。
置き去りにした相手の言葉は信じるのか。
沈黙を飲み込み、里緒はもう一度だけ言った。
「綾斗、もう夜中だよ。おばさんは今日は来ない。ママと帰ろう?」
「やだ!」
綾斗が勢いよく顔を上げる。
「帰らない! 待つ! おばさん、約束した! おばさんは一回も嘘ついたことない!」
その言葉で、里緒の喉がきゅっと塞がった。
前谷明梨は、綾斗にとって「綺麗で優しくて、甘やかしてくれるおばさん」。
自分は「野菜を食べさせる、ダサい、友だちの前で恥をかかせる悪いママ」。
――だから、帰ってこない人を待ってでも、母親を拒む。
里緒は、もう争う気力を手放した。
「……分かった」
声が掠れる。
「じゃあ、ママも一緒に待つ」
綾斗は一瞬だけ驚いた顔をして、すぐ膝に顔を埋めた。もう里緒を見ない。
里緒は隣に腰を下ろした。
二人の間に言葉はなく、時間だけが進む。
午前一時。午前二時……。
綾斗の瞼が重くなり、小さな頭がこくり、こくりと揺れる。それでも必死に耐えていた。
里緒は痛いほど心配だったが、もう何も言わなかった。
どれくらい経ったのか。
綾斗はついに力尽き、身体が傾いて里緒にもたれかかった。
里緒はびくりと硬直してから、そっと肩を抱く。
綾斗は半分夢の中で、懐かしい温もりを感じたのか、無意識に腕の中へすり寄った。
そして、かすれた声で。
「……ママ……」
その一言で、堪えていたものが決壊した。
大粒の涙が、ぽたぽたと綾斗の髪を濡らす。
里緒は静かに背中を撫で続け、起きないのを確かめてから、慎重に抱き上げた。
五歳の身体はもう軽くない。息が上がる。ゆっくり、ゆっくり歩く。
車の後部座席に寝かせ、シートベルトを締める。
綾斗は寝言のように呟いた。
「おばさん……いかないで……」
里緒の足が止まり、心臓がきしんだ。
それでも運転席に座り、エンジンをかける。重久家の別荘へ向けて車を走らせた。
深夜の街はからっぽで、赤信号の交差点で車を止める。
ぼんやりと前方を眺めていた視界の端に、道路の向こう側を横切る人影が映った。
背の高い男が、女を抱きかかえている。街角のホテルへ急ぎ足で入っていく。
――週末の恋人同士?
そう思って目を流した瞬間、里緒の視線が凍りついた。
重久瑛介。
そして、前谷明梨。
瑛介は明梨を大事そうに抱いていた。強すぎず、弱すぎず。落とさないように、痛がらせないように。
そんな優しさを、里緒は一度も向けられたことがない。
胃がぐるりと捩れ、里緒は口元を押さえてえづいた。喉の奥に、鉄の味が広がる。
震える手を開く。
掌に、血が滲んでいた。
