第3話

絵里が研究室の仕事を片付け、悟に今後の段取りを頼んで家に着いたのは、深夜十一時を回っていた。

雨はとうに上がり、高級住宅街は虫の音が聞こえるほど静まり返っている。

自宅の前に立ち、二階の息子の部屋にまだ明かりがついているのを見て、絵里は思わず眉をひそめた。

いつもなら、直人はとっくに寝ている時間だ。

嫌な予感を覚えながら、絵里は鍵を取り出してドアを開けた。

玄関に入った瞬間、視界に飛び込んできたのは、鮮やかな赤いハイヒールだった。尖ったつま先と細いヒールが、廊下の真ん中に堂々と転がっている。

リビングからは、女と子どもの笑い声が聞こえた。

絵里は泥に濡れた靴を脱ぎ、裸足のまま奥へ進む。

暖かな照明の下、悠太はソファに腰を下ろしていた。その隣には、シルクのガウンを羽織った雪枝がいる。

そして直人は雪枝の膝の上に座り、小さな頭を彼女の胸に預けながら、テレビのアニメを見て笑っていた。

まるで、そこが彼ら三人の家であるかのように。

足音に気づき、三人が振り返る。

真っ先に直人が顔を向けた。絵里を見た瞬間、その笑顔がすっと消える。

「なんで帰ってきたの」

露骨にうんざりした声だった。

悠太も眉をひそめる。

「こんな時間まで何をしてたんだ」

絵里は二人を無視し、階段へ向かった。

「荷物をまとめに来ただけ。数日、出張だから」

「出張?」悠太の声に疑念が混じる。

「研究室を立ち上げたばかりで出張だと?」

「私は研究室の責任者よ。事細かに藤原社長へ報告する義務はないわ」

振り返りもせずに答えると、悠太が立ち上がった。

「待て。直人のアレルギーの件、まだ話は終わっていない」

「子どもが入院したのに顔も出さない。お前、それでも母親か?」

絵里は足を止め、ゆっくり振り返った。

「私が行って何が変わるの? あなたが雪枝を帰らせるとでも? それとも、あなたと雪枝の判断ミスで直人がアレルギーを起こしたって認めるわけ?」

空気が一気に張り詰める。

雪枝が慌てたように立ち上がった。

「絵里さん、悠太さんを責めないで。全部、私のせいですから」

その瞳には、すでに涙が浮かんでいる。

「あのケーキにグルテンが入ってるなんて、本当に知らなくて……お店の人は完全オーガニックだって言っていたから……」

「知らなかった?」

絵里は冷たく笑った。

「直人のグルテンアレルギーがどれほど酷いか、幼稚園の先生だって知ってるわ。父親の専属秘書として、あの子のそばにいたあなたが知らなかったとでも?」

「俺から雪枝には注意しておいた」

悠太が庇うように言った。

「だが、あの日は忙しかったんだろう。直人も無事だった。次に気をつければ済む話だ」

次に。

その言葉が、絵里の胸を静かに冷やしていく。

「あなたたちの不注意で息子が入院したのに、私が責められるのね」

「絵里」

悠太の口調に苛立ちが滲む。

「雪枝は謝った。直人も無事だ。それでもいつまで引きずるつもりだ?」

絵里は目の前の男を見つめた。

結婚して五年。

この人は、最初から何も見ていなかったのかもしれない。

「彼女をこの家から出して」

絵里は一語一語、はっきり告げた。

「今すぐよ」

短い静寂が落ちた。

次の瞬間、直人が雪枝の膝から飛び降り、裸足のまま絵里の前へ駆け寄ってきた。

「お前が出てけ!」

小さな両手で、力いっぱい絵里を突き飛ばす。

「ここは僕の家だ! 雪枝をいじめるな!」

不意を突かれた絵里はよろけ、腰を階段の手すりに打ちつけた。鈍い痛みが走る。

「直人」

絵里の声が、初めて強くなった。

「私はあなたの母親よ。それが母親に対する態度なの?」

だが直人は、ますます顔を真っ赤にした。

「ちがう! お前なんかママじゃない! 雪枝がママだ!」

そう叫ぶなり、ローテーブルの上にあったガラスのフルーツトレイを掴んだ。

絵里の瞳がわずかに見開かれる。

「直人、やめなさい」

遅かった。

直人は躊躇なく、それを絵里に向かって投げつけた。

「出てけ! この悪者!」

絵里が身をかわすと、トレイは背後の壁に激突し、甲高い音を立てて砕け散った。

ガラス片が四方へ飛び、鋭い破片の一つが彼女の腕を掠める。

白い肌に、細い赤い線が走った。

「直人!」

雪枝が悲鳴を上げて駆け寄り、子どもを抱きしめた。

だがその体は、絵里から直人を守るように向けられていた。

「大丈夫、大丈夫よ。雪枝がいるから怖くないわ」

そして咎めるような目で絵里を見る。

「絵里さん、どうしてそんなふうに子どもを追い詰めるんですか? まだ小さいんですよ」

悠太も近づいてきた。

彼はまず直人の無事を確かめ、それから絵里の腕の傷に目を留めた。

ほんの一瞬、眉が動く。

しかし口から出たのは、別の言葉だった。

「子ども相手に何をやっている。直人が分別ないからといって、お前まで同じレベルになるな」

絵里は自分の腕を見下ろした。

血がゆっくりと滲んでいる。

かつて、膝を擦りむいただけの直人を抱えて、泣きながら病院へ走ったことがあった。

その子が今、自分にガラスを投げた。

そして夫は、彼女を責めている。

「そうね」

絵里は低く呟いた。

「私が、大人げなかったわ」

それ以上、何かを言う気力はなかった。

床に散った大きな破片だけを避けて、絵里は階段へ向かう。

「どこへ行く」

悠太が低く問う。

「荷物をまとめるの。出張だから」

主寝室の前に着き、ドアノブを握る。

だが、開かない。

鍵がかかっていた。

絵里は振り返り、悠太を見た。

「鍵は?」

悠太の顔に、一瞬だけばつの悪そうな色がよぎる。

「雪枝が最近よく眠れないらしくてな。上の客間は道路沿いでうるさいから、当面は主寝室を使わせることにした」

絵里の呼吸が、ほんの一瞬止まった。

正妻である自分がまだ出て行ってもいないのに。

この家の主寝室には、もう別の女が入っている。

「開けて。私の物を取りたいから」

声は驚くほど静かだった。

悠太は少し眉をひそめる。

「雪枝が、主寝室は物が多くて落ち着かないと言うから……田中さんに頼んで、お前の荷物は一階の物置に仮置きしてもらった」

その瞬間、絵里は彼を見た。

怒りでも、悲しみでもない。

ひどく冷たい、凪いだ眼差しだった。

悠太は無意識に半歩後ずさる。

「悠太」

絵里はふっと微笑んだ。

「……あなたって、本当に大したものね」

悠太は唇を引き結んだまま黙り込む。

もう、この家に一秒たりともいたくなかった。

絵里は踵を返し、一階へ向かう。

背後から、悠太の声が追ってきた。

「雪枝は今、直人の世話をしている。いい加減、騒ぎ立てるのはやめろ、絵里」

絵里は答えなかった。

ただ、物置の扉へ向かって歩き続けた。

前のチャプター
次のチャプター