第4話

絵里は相手にする気もなく、物置の扉を開けた。

彼女の荷物は驚くほど少ない。まばらに積まれ、服の一部は床に放り出されている。

絵里は必要な着替えだけを拾い、畳んでスーツケースに詰めた。

「どこへ行く」悠太が前に立ちはだかる。

「あなたに関係ない」

絵里は彼を押しのけ、スーツケースを引いて玄関へ向かう。

「絵里さん、こんな夜にどこへ……」背後から雪枝の声がした。「悠太さん、止めてあげてください。こんな時間に……」

だが悠太は見向きもしない。冷たい嘲りが混じる。

「行きたいなら行け。出て行くなら、二度と戻ってくるな」

絵里は何も答えない。

夜の闇の中、冷えた眼差しのまま、迷いなく屋敷を出た。

研究室に着いたのは深夜。急ごしらえの宿舎は狭く簡素だったが、絵里はかつてないほど息がしやすいと感じた。

あの息苦しい家から、ようやく出られたのだ。

ポケットのスマホが震える。陽からのメッセージだ。

『N市行きの航空券、明後日の朝に変更した。1日だけ研究室の処理に使え。必要ならいつでも言え』

絵里は『ありがとう、お兄ちゃん』と返し、スマホを置いて深く息を吸い込んだ。

窓辺に立つ。下の園区では研究員たちが足早に行き来している。胸の重さが少しだけ薄れる。

仕事は、最高の麻酔だ。

翌朝早く、絵里は白衣に袖を通し、髪をまとめて無菌室へ入った。

培養皿の神経ネットワークは安定して成長している。顕微鏡下で、微細なシナプス結合が驚くほど複雑に広がっていた。

絵里は没頭し、データを記録し、パラメータを調整する。気づけば午後になっていた。

スマホが震えた。

画面には、悠太の名前。

絵里は数秒迷い、それでも電話に出た。

「どこだ」受話器越しの声。

「研究室」絵里は短く答える。

「いつまで駄々こねるつもりだ」いつもの不機嫌な口調。

絵里はスマホを強く握った。

「悠太」声が震えないように努める。「離婚のこと、考えて」

「絵里!」

悠太の声が跳ね上がり、露骨な怒りが混じる。

「いい加減にしろ。離婚だの何だの、俺の気を引きたいだけだろ。1回2回ならまだしも、しつこいと嫌になる」

また、これだ。

彼にとって絵里の決断は、駄々で、拗ねで、脅しでしかない。

絵里の世界には彼と直人しかないと、心底思っているのだ。

絵里は乾いた笑いを漏らした。

骨の髄まで、疲れている。

「忙しいから」絵里は氷のように言う。「切るね」

通話を切った。無機質な電子音が耳に残る。

――その頃、悠太はオフィスで机を拳で叩き、行き場のない怒りを吐き出していた。

そこへ雪枝が淹れたてのコーヒーを置く。

「悠太さん、コーヒーを」柔らかく、心配そうな声。「絵里さん、まだ怒ってるんですか」

悠太は苛立たしげに眉間を揉む。

「放っておけ」

雪枝は伏せたまつげの影を落とし、弱々しくも理解ある顔を作る。

「一時的に感情的になってるだけかもしれません。社長、迎えに行ったほうが……。やっぱり直人の母親ですし、少しなだめればすぐに機嫌も直りますよ」

口ではそう勧めながらも、彼女の指先は無意識にきつく握り込まれていた。

「迎えに?」悠太は鼻で笑った。

絵里が藤原家を本当に出て行くはずがない。

あれほど必死に嫁いだのに、自ら手放すわけがない。

「ただ……」雪枝は言い淀み、困惑した表情を浮かべる。「絵里さんが家を出たって外に知られたら、噂になります。社長や、藤原グループの評判にも……」

「それに、直人が今朝、聞いてきたんです。『ママ、僕のこと捨てたの?』って。子どもって、小さくても敏感で……」

直人の名で、悠太の顔が険しくなる。

「直人のこと、しばらく頼む」悠太は雪枝を見て、口調が少し柔らかくなった。「苦労かける」

雪枝は慌てて首を振る。

「いえ。私、直人が本当に好きで……自分の子みたいに思ってます。だけど……」

瞳が赤くなる。

「私は実の母親じゃないから、言えないこともあって。でも、直人が『ママに会いたい』って言えずにいるのを見ると……つらくて」

「……彼女の話はやめろ」

悠太は手を振り、さらに苛立った。

「外で勝手にしてればいい。どれだけ持つか見てやる」

雪枝の目に、ごく薄く笑みがよぎる。

だが口ではため息を落とした。

「早く絵里さんが分かってくれるといいですね。家は、やっぱり揃ってこそですから」

二日後、絵里はN市へ向かった。

仕事は目が回るほど忙しい。データ解析、進捗会議、共同先との電話……休む間もない。

そんな中、悟からの電話で我に返る。

「……え? 何て?」

悟はひどく焦っていた。

「A市の学術グループ、見ました? 絵里さんのこと、変な噂になってます」

学術グループ?

絵里は訝しみながらチャットを開いた。

画面には匿名の書き込みがいくつも並んでいる。

『最近でかい投資引っ張って神経培養やってる雪見絵里、結婚ヤバいらしい』

『藤原グループの社長夫人だろ? 家庭放り出して研究室に入り浸ってるって聞いた』

『子どもが小さいのに、母親が家を出たって本当なら引くわ』

名指しに近い書き込み。

けれど、まだ噂話の範囲だ。

絵里は画面を見つめ、指先が冷えた。

彼女と悠太が別居したことは、家族とごく一部の友人しか知らない。

研究室の人間には「忙しくて宿舎にいる」としか伝えていない。悟だって口が軽い人間ではない。

どこから漏れた?

絵里はチャットを閉じ、仕事に戻ろうとした。

だが心の糸は張りつめたまま。

本当の嵐は、翌朝やってきた。

――まだ薄暗い早朝。

休憩室の枕元でスマホが震え続け、通知音が途切れない。

浅い眠りから起き上がり、画面を見た絵里は凍りついた。

通知欄――メッセージ99+。

知らない番号からの着信履歴、見覚えのないアカウントからの友達申請、SNSの通知。

その量だけで、何かが起きたのだと分かった。

一番上のSMSを開く。

『母親失格』

たったそれだけの短い文面だった。

だが、続けて届いているメッセージは、どれも似たような言葉で埋め尽くされている。

絵里は息を詰め、SNSを開いた。

最新の研究進捗投稿のコメント欄は、すでに荒らされていた。

ただの罵倒なら、まだよかった。

画面をスクロールした瞬間、絵里の指が止まる。

そこには、研究室の住所が貼られていた。

建物名、最寄り駅、裏口の位置まで、誰かが悪意を持ってまとめている。

『ここにいるらしい』

『近くの人、見に行って』

『子どもを捨てた女が偉そうに研究者気取り』

背筋に、氷を押し当てられたような寒気が走った。

研究室には若い研究員もいる。夜遅くまで残る学生もいる。

これは、もう単なる悪口ではない。

明確な危険だった。

さらに別の投稿が目に入る。

『関係者から聞いたけど、この人、子どもを虐待してたらしい』

『アレルギーで倒れた子を放置したって』

『階段から落ちたのも、母親に拒絶されたショックが原因とか』

作り話が、事実であるかのように拡散されている。

絵里はスマホを握りしめた。

爪が食い込み、指先が白くなる。

子どもを虐待した?

放置した?

まるで、自分だけが悪魔であるかのように。

何も知らない人間たちが、切り取られた言葉だけを信じ、勝手に裁き、勝手に石を投げている。

口元が引きつり、泣くより酷い笑みになる。

悠太。

雪枝。

……よくもまあ、ここまで。

絵里は深呼吸し、まず画面をスクリーンショットで保存した。

研究室の住所が晒された投稿。

虐待を捏造した投稿。

発信元のアカウント名、投稿時間、拡散数。

一つずつ、証拠として残していく。

震えていた指先は、いつの間にか止まっていた。

彼女の目に、冷たい光が戻る。

感情に飲まれている場合ではない。

守らなければならないものがある。

自分の名誉だけではない。

研究室も、ここで働く人たちも。

絵里はスマホを持ち直し、電話をかけた。

ほとんど即座に繋がった。

「絵里?」陽の声は朝の掠れを帯びていた。「どうした、こんな時間に」

「お兄ちゃん」

絵里は口を開いた瞬間、自分の声がかすれきっているのに気づいた。

「頼みがあるの」

電話の向こうで、空気が変わる。

陽の眠気が、一瞬で消えた。

「言ってみろ」

「研究室の住所が晒された。私が子どもを虐待したっていうデマも流されてる」

言葉にした途端、胸の奥が鈍く痛んだ。

だが、絵里は目を伏せなかった。

「証拠は保存してる。発信元を調べたい。それから、研究室の安全確保も」

一拍の沈黙。

次に聞こえた陽の声は、冷え切っていた。

「分かった。すぐ動く」

「絵里」

「うん」

「お前は悪くない。だから、絶対に一人で抱えるな」

その一言で、絵里の喉の奥がきゅっと締まった。

けれど、涙は出なかった。

泣くのは、全部終わってからでいい。

「ありがとう、お兄ちゃん」

通話を切ったあと、絵里はゆっくりと立ち上がった。

窓の外では、朝の光が白く差し始めている。

世界は何事もなかったように明るくなっていく。

だが、絵里の胸の中では、静かな怒りが燃え始めていた。

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