第5話

雪見グループが動いたことで、ネット上の誹謗中傷は瞬く間にすべて削除された。

絵里への嫌がらせの電話やメッセージも一つ残らず記録され、警察へ提出されて一斉調査に回された。

調査結果は絵里の予想通り、すべて同じ業者に雇われたネット工作員の仕業だった。

その業者の責任者によれば、何者かが大金を支払い、絵里を社会的に抹殺するためのネットリンチを依頼したという。

裏で糸を引いているのが誰なのか、絵里には見当がついていた。

だが、今の彼女に復讐の算段を立てている暇はない。新しい職場はペースが速く、陽から任されたプロジェクトは最先端の学際的領域に関わるもので、非常にやりがいがあり、全神経を集中させる必要があった。

仕事への没入は、彼女に束の間の息継ぎを与えてくれた。

その日の夕方。会議を終えてマンションに戻った直後、スマホの画面が光った。直人からだった。

少し躊躇ったが、通話ボタンをタップした。

「もしもし」

電話の向こうから、直人の横柄な声が響く。

「ママ、どこにいるの? 今すぐ帰ってきてよ。僕、ママのご飯が食べたい」

「あと、クマさんのクッキーも。家のお手伝いさんのご飯は美味しくないし、雪枝は作れないんだ。早く帰ってきて作ってよ」

母親に会いたいわけではない。

母親の作った料理と、母親が当然のように差し出してきた世話が欲しいだけなのだ。

絵里は冷たい壁に背を預けた。N市の夕陽が床から天井まである窓から差し込み、部屋を暖かなオレンジ色に染めているのに、彼女は少しの温もりも感じられなかった。

「直人」

彼女は口を開いた。自分でも驚くほど、その声は凪いでいた。

「ママは今、家にいないの。遠いところで仕事をしてるわ。食べたいなら、お手伝いさんに作り方を覚えてもらうか、雪枝に買ってもらいなさい」

「やだ。ママが作ったやつがいい」

直人は当然のように言った。

「雪枝が言ってたもん。ママは僕を困らせたいだけだって。僕が謝ったら、すぐ帰ってくるって」

絵里の指先が、ぴたりと止まった。

また、雪枝。

息子の言葉なのに、その奥から別の女の声が透けて聞こえるようだった。

「直人」絵里はゆっくりと問い返す。「雪枝が、そう言ったの?」

「うん。ママは怒ってるだけだから、僕が泣けば帰ってくるって。だってママは、僕のこと放っておけないんでしょ?」

その瞬間、絵里の胸の奥で何かが静かに冷えた。

悲しみではなかった。

怒りでもなかった。

ただ、これ以上言葉だけで訴えても、誰にも届かないのだと悟った。

彼女はスマホを耳から少し離し、画面を見た。

そして、通話録音のボタンを押した。

小さな電子音が鳴る。

直人は気づかない。

「直人、よく聞きなさい」

絵里の声は、かつてないほどよそよそしく、事務的だった。

「ママはもう、いつでもあなたの言う通りにするわけじゃないの。何か食べたいときや必要なものがあるときは、今あなたの世話をしてくれている人に頼みなさい」

「ママにはママの仕事があって、自分の生活がある。昔みたいに、あなたから電話が来たからって、すべてを放り出してすぐに駆けつけることは、もうできないの」

電話の向こうが、一瞬静まり返った。

直後、直人の声が震えた。

「……じゃあ、僕より仕事のほうが大事なの?」

絵里は目を閉じた。

胸が痛まないわけではない。

それでも、もう同じ場所には戻れなかった。

「そういう話じゃないわ」

「嘘だ!」直人が叫んだ。「雪枝が言ってた通りだ。ママは僕のこと、もういらないんだ!」

その言葉だけは、はっきりと録音に残った。

続いて、直人は泣きじゃくりながら言葉を重ねた。

「僕が悪い子だから? ママの言うこと聞かなかったから? じゃあ、怪我したら来てくれる? 病気になったら帰ってくる?」

絵里の背筋に、ぞっと冷たいものが走った。

「直人。そんなことを言ってはいけない」

「だって、そうしたらママは来るでしょ!」

その幼い声には、本人の悪意よりも、誰かに教え込まれた歪んだ確信が滲んでいた。

絵里は録音中の画面を見つめたまま、唇を噛んだ。

「直人、最後にもう一度だけ言うわ。自分を傷つけるようなことをしてはいけない。誰かにそう言われたとしても、絶対にしてはいけない」

「知らない! ママなんて、もう知らない!」

そこで通話は乱暴に切れた。

マンションの部屋はすっかり静まり返り、窓の外から微かに街の喧騒が聞こえるだけになった。

絵里は床に座り込んだまま、しばらく動かなかった。

録音データの再生ボタンを押す。

直人の声。

雪枝の名。

「泣けば帰ってくる」

「怪我したら来てくれる?」

一つ一つの言葉が、冷たい釘のように耳へ打ち込まれていく。

絵里は録音を停止し、LINEを開いた。

悠太のトーク画面を見つけると、余計な言葉は添えず、ただその録音データだけを送信した。

続けて、短いメッセージを打つ。

『藤原社長、息子さんの教育問題については、そちらでご対応ください。私にはどうすることもできません』

送信ボタンをタップする。

数分後、悠太からボイスメッセージが返ってきた。

また詰問や非難だろうと思っていたが、予想に反して、今回の悠太の口調は珍しく焦燥に駆られていた。

『直人が大変だ。今すぐ病院に来い』

大変?

絵里の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。

数秒迷った末、悠太に電話をかけた。

コール音が一度鳴っただけで、すぐにつながった。

悠太の声には、押し殺した怒りが滲んでいた。

「どこにいる? 今すぐ市立こども病院に来い。直人が階段から落ちて、頭を打ったんだ!」

絵里は息を呑んだ。

「どうして落ちたの? ひどいの?」

「どう思う?」悠太は皮肉を隠そうともしない。「額を切って、経過観察が必要だ。医者は軽い脳震盪の可能性もあると言っている。全部お前のせいだ!」

「私のせい?」絵里は荒唐無稽だと感じた。「悠太、私はここ数日N市にいるのよ。羽が生えていたって、飛んで帰って息子を転ばせるなんて無理でしょ」

「雪枝が言ってたぞ。直人はお前と電話したあとずっと泣き喚いて、彼女が目を離した隙に下へ走っていって、足を踏み外したんだと!」悠太の怒りがついに爆発した。

「絵里、お前の心は一体何でできてるんだ? 息子の健康まで、復讐の道具にする気か?」

その一言一言が、心を抉る。

電話を握る絵里の指先は、氷のように冷え切っていた。

「悠太」彼女の声はとても小さかったが、異常なほどはっきりと響いた。「あなたの中で、私はそこまで卑劣な人間になっているのね?」

電話の向こうで、沈黙が落ちた。

やがて、悠太は息を吐き出した。

「お前と口論する気はない。今すぐ、直ちに病院に来い。お前はあいつの母親だ。世話をする責任がある」

「分かったわ」絵里は深く息を吸い込んだ。「行く」

電話を切り、すぐにフライトを調べた。

一番早く戻れる便は、二時間後だった。

上着とバッグを掴み、マンションを飛び出した。

移動に次ぐ移動で、A市立こども病院に駆けつけたときには、すでに翌朝になっていた。

病棟の廊下は静まり返り、照明が冷ややかに照らしている。

絵里は悠太から送られてきたメッセージを頼りに、病室を見つけた。

直人はベッドに横たわり、青白い小さな顔をして、頭には包帯が巻かれていた。すでに眠っていたが、その眉間には微かに皺が寄っている。

雪枝はベッド脇の椅子に座り、布団から出ている直人の手を握りしめ、目を赤く腫らしていた。

入ってきた絵里を見て、彼女はビクッと肩を揺らしたが、すぐに笑顔を作った。

「絵里さん、やっと来てくれたのね」

悠太は窓辺に立ち、ドアに背を向けていたが、開く音を聞いて振り返った。

「よく来れたな」

子供を起こさないように声を潜めていたが、その口調の冷たさは少しも和らいでいない。

絵里は彼を無視し、まっすぐベッドに近づくと、息子の蒼白な顔に視線を落とした。

それでも心臓の鼓動が抑えきれずに早くなるのは、やはり自分のお腹を痛めて産んだ子だからだろう。

手を伸ばし、その額に触れようとしたが、指先は宙で止まった。

「お医者様はなんて?」彼女は尋ねた。声が掠れている。

「軽い脳震盪だって。二次的な衝撃を避けるために、数日は入院して様子を見ないといけないみたい」

答えたのは雪枝だった。涙で潤んだ顔を上げ、声を詰まらせる。

「全部私のせいよ。私がちゃんと直人を見ていなかったから」

「あの子、午後から電話を切ったあともずっと泣いてたの。ママに捨てられた、悪い子だって怒られたって。私がいくら宥めてもダメで。急に『ママを探す』って飛び出していって、私が追いかけたときには、もう階段から……」

悠太の顔色がさらに沈み、絵里を睨みつけた。

「聞いたか? これで満足か?」

絵里はゆっくりと身を起こし、悠太に向き直ると、次いで雪枝を見た。

「小川さん」

声は高くなかったが、その一言で雪枝のしゃくりあげる音がピタリと止まった。

「あなたが直人に教えたの? 私が彼を悪い子だと罵り、もういらないと言ったって」

雪枝の視線が泳ぎ、すぐさまさらに悲しそうな顔を作った。

「絵里さん、そんなことないわ。私はただ慰めただけよ。ママは直人を捨てたわけじゃない、お仕事が忙しいだけだって……」

「午後の直人との通話録音は、悠太もすでに聞いたはずよ」

絵里の視線が悠太に移る。

「私、あの子を一言でも罵ったかしら?」

悠太は眉を深く寄せた。

録音は彼も聞いた。絵里の言葉は冷たくよそよそしかったが、確かに罵倒などしていなかった。

それどころか、直人自身が口にしていた。

泣けば帰ってくる。

怪我したら来てくれる。

誰かがそんな考えを植えつけたとしか思えない言葉を。

「なら、直人が目を覚ましてから話そう」

直人が目を覚ましたのは、もう昼近くになってからだった。

目を開けた瞬間、傍らに座っている絵里の姿が視界に入る。

途端に顔をしかめた。

「……ママ」

その声には、喜びよりも怯えと気まずさが混じっていた。

絵里は動かず、無表情のまま悠太を見た。

悠太が低い声で問う。

「直人、正直に言いなさい。頭の怪我は、一体どうやって転んだんだ」

その質問を聞いて、直人は無意識に絵里の後ろに立っている雪枝を見た。

雪枝が慌てて前に出て、その場を取り繕う。

「直人はまだ起きたばかりなのよ。子供にそんな厳しい顔しないで。直人が怖がっちゃうわ」

そう言って直人のそばに寄り添い、優しくなだめた。

「直人、怖がらなくていいのよ。パパもあなたのことを心配してるだけだから。本当のことを言えばいいの。何も気に病むことはないわ」

直人は悠太を見て、次に絵里を見てから、唇を震わせた。

「僕……僕、ただママに来てほしかっただけなんだ」

病室の空気が、ぴたりと凍りついた。

「ママ、よっぽどのことがないと連絡してくるなって言ったから。でも、僕が怪我したら、絶対帰ってきてくれると思って……」

そこまで言って、直人は布団を握りしめ、泣きじゃくった。

「パパ、僕を怒らないで……僕、ママに会いたかっただけなんだ……」

雪枝がその横で心底痛ましそうな顔をして慰める。

「かわいそうに。まだ小さいのに、そんなふうに追い詰められて……」

だが、絵里の心は完全に冷え切っていた。

五歳の子供に、こんな悪知恵があるはずがない。

彼女の息子は、とうの昔に雪枝の言葉を、自分の考えのように信じ込むようになっていたのだ。

「絵里」

悠太の額に青筋が浮かんだ。

「息子の健康すら利用するとは。そこまで手段を選ばないお前は、それでも母親のつもりか?」

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