第6話

息子の健康すら利用する。

手段を選ばない女。

それが、悠太が彼女に下した最終的な判決なのだろう。

絵里は病室の中央に立ち尽くしたまま、ふと吐き気に似た感覚を覚えた。

胸の奥で、最後まで残っていた何かが、音もなく折れた。

怒りでも、悲しみでもない。

ただ、もう本当に終わったのだと分かった。

彼女は小さく頷いた。ようやく、長い悪夢から目が覚めたように。

「あなたの言う通りね」

その声は、自分でも驚くほど静かだった。

「あなたたちの言う通りよ」

一歩、後ろへ下がる。

ベッドの上の直人。彼を守るように寄り添う雪枝。怒りを滲ませてこちらを見ている悠太。

その三人との間に、目には見えない線が引かれた気がした。

「離婚協議書は、弁護士に急いで作らせるわ」

絵里は淡々と告げた。

「さっき言った通り、私はもう何も求めない。あなたたちが望む形で、この関係を終わらせましょう」

悠太の眉がぴくりと動いた。

「絵里、お前――」

だが、絵里は彼の言葉を待たなかった。

「これからは、直人のことも、あなたたちで決めて」

短く言い残し、彼女はもう誰の顔も見ずに踵を返した。

病室のドアを開ける。

白い廊下の冷たい光が、彼女の足元に落ちた。

背後から雪枝のすすり泣く声が聞こえたが、絵里は振り返らなかった。

一度でも振り返れば、まだ痛むかもしれない。

まだ、母親としての情が彼女を縛るかもしれない。

だから振り返らない。

もう二度と。

病室のドアが静かに閉まった。

その音は小さかったのに、悠太の耳には妙に重く響いた。

彼は閉ざされた扉を睨みつけたまま、しばらく動けなかった。

絵里の最後の眼差し。

あまりにも冷静で、あまりにも決然としていて、いつもの当てつけには見えなかった。

むしろ――完全な決別。

悠太の胸の奥に、説明のつかない違和感が生まれる。

まさか。

本気なのか。

そんなはずがない。

絵里が藤原家を捨てられるはずがない。直人を手放せるはずがない。あれほど自分に縋ってまで結婚した女が、今さら本当に離婚できるはずがない。

悠太はそう思い込もうとした。

だが、胸の中の空虚さは消えなかった。

「悠太さん……」

雪枝が絶妙なタイミングで小さく声を震わせた。

「私のせいで、絵里さんを怒らせてしまったのかしら……」

悠太は我に返り、苛立たしげにネクタイを緩めた。

「お前のせいじゃない」

そう言いながらも、彼の視線はまだドアに向けられたままだった。

ベッドの上の直人は、泣き疲れた顔で布団を握りしめている。

「パパ……ママ、帰っちゃったの?」

悠太はすぐには答えられなかった。

やがて、低く言う。

「少し頭を冷やしに行っただけだ」

自分自身に言い聞かせるような声だった。

「すぐ戻る」

直人はその言葉を聞いて、少しだけ安心したように雪枝の腕に顔を埋めた。

雪枝は彼を抱きしめながら、悠太に見えない角度で、薄く唇を歪めた。

一方、病院を出た絵里は、そのまま研究室へ戻った。

夜のラボは静まり返っていた。

昼間は機器音と人の声で満ちている空間も、今は低い駆動音だけが淡々と響いている。

絵里は明かりもつけず、自分のデスクの前に座った。

スマホを取り出し、弁護士の坂田へ電話をかける。

数コールの後、落ち着いた男性の声が応じた。

『雪見さん? こんな時間にどうされました』

「坂田さん」

絵里は窓の外を見つめた。

暗いガラスに映る自分の顔は、ひどく青白い。

けれど、その目だけは不思議なほど冷えていた。

「離婚協議書の件、進めてください。前に相談した内容で構いません」

電話の向こうで、坂田が一瞬だけ沈黙した。

『……本当に、よろしいんですね』

「はい」

迷いはなかった。

「できるだけ早く、正式な書面にしてください」

『承知しました。明後日までには用意します』

「お願いします」

通話を切ると、絵里はスマホをデスクに置いた。

椅子にもたれ、ゆっくりと目を閉じる。

体は鉛のように重かった。

だが、心は奇妙なほど静かだった。

泣き叫ぶことも、怒鳴ることも、何かを壊すこともなかった。

ただ、長く絡みついていた鎖が、ようやく一本ずつ外れていくような感覚だけがあった。

二日後。

絵里は藤原グループ本社一階のカフェに、悠太を呼び出した。

昼過ぎの店内は、スーツ姿の客でほどよく賑わっている。

絵里は早めに到着し、窓際の席に座っていた。

ベージュのニットにデニムパンツ。

髪は無造作にまとめられ、化粧っ気のない顔には疲労の色が滲んでいる。

それでも、その眼差しは澄み切っていた。

十分ほど遅れて、悠太が現れた。

仕立てのいいダークスーツを着た彼は、いつも通り隙のない姿だった。だが、眉間には深い皺が刻まれている。

席に着くなり、彼は低く言った。

「電話で済まない用件か」

「ええ」

絵里はバッグから封筒を取り出し、テーブルの中央へ滑らせた。

「正式な書類よ」

悠太の視線が封筒に落ちた。

一瞬、空気が止まる。

彼はすぐには手を伸ばさなかった。

まるで、その白い封筒に触れた瞬間、何かが本当に終わってしまうとでもいうように。

「……絵里」

悠太はようやく口を開いた。

声には、苛立ちと、微かな警戒が混じっている。

「一体どういうつもりだ」

「見れば分かるわ」

絵里は淡々と答えた。

「離婚協議書よ。病院で伝えたことを、正式な形にしただけ」

悠太の顔色がわずかに変わった。

彼はようやく封筒を手に取り、中の書類を引き出す。

紙をめくる音だけが、二人の間に落ちた。

読み進めるにつれ、彼の表情から余裕が消えていく。

眉間の皺がさらに深くなり、唇が固く結ばれる。

書面に並ぶ条項は、驚くほど簡潔だった。

絵里が藤原家に何かを求める文言はない。

責め立てるような言葉もない。

駆け引きも、未練も、泣き言もなかった。

ただ、婚姻関係を終わらせるために必要な事項だけが、冷静に整理されていた。

そのあまりの淡白さが、逆に悠太の神経を逆撫でした。

彼は書類をテーブルに置き、絵里を見据えた。

「また何か企んでるのか」

絵里は目を上げる。

「企む?」

「俺に罪悪感を抱かせたいのか。それとも、ここまでやれば俺が折れるとでも思ってるのか」

悠太の声は徐々に冷たくなる。

「駆け引きのつもりなら、いい加減にしろ。離婚だの何だの、何度も持ち出されるとさすがにうんざりする」

絵里はしばらく彼を見つめていた。

やがて、ほんの少しだけ口元を緩める。

それは笑みというより、諦めに近かった。

「悠太」

彼女は静かに言った。

「あなたは本当に、何も分かっていないのね」

その声に責める響きはなかった。

怒りも、悲しみも、もうない。

ただ、目の前の男と自分との間に、決して埋まらない距離があることを確認しているだけだった。

「私には、あなたと心理戦をする気なんてないわ」

絵里はカップを手に取り、一口だけコーヒーを飲んだ。

苦味が舌に残る。

「あなたの機嫌を取るつもりも、あなたに反省してもらおうと期待するつもりもない」

カップを置く。

小さな音が、やけにはっきり響いた。

「ただ、もう関わりたくないだけ」

悠太の瞳が一瞬、揺れた。

だがすぐに、怒りがそれを覆い隠す。

「関わりたくない?」

彼は低く笑った。

「よく言えるな。五年前、何が何でも俺と結婚すると言って譲らなかったのは誰だ。藤原家に入りたいと望んだのはお前だろう」

絵里の指先が、カップの縁に触れたまま止まる。

五年前。

その言葉は、今でも胸の奥に古い痛みを呼び起こす。

けれど、もうそこに引きずり戻されるつもりはなかった。

「そうね」

絵里はあっさり認めた。

「昔の私は、あなたを選んだ」

悠太は一瞬、言葉を失った。

絵里は続ける。

「だから、その選択の責任も私が取るわ。間違いだったと認めて、終わらせる。それだけよ」

あまりにも静かな断言だった。

悠太の胸の奥で、何かがざわついた。

彼が知っている絵里なら、ここで泣くはずだった。

責めるはずだった。

「どうして分かってくれないの」と言って、結局は自分の言葉に傷つきながらも、なお許しを求めるはずだった。

なのに今、目の前の女は、まるで他人の結婚について語っているかのように冷静だった。

その冷静さが、悠太には耐え難かった。

「絵里」

彼は声を低くした。

「直人のことを考えろ」

その名を聞いた瞬間、絵里の睫毛がわずかに震えた。

だが、それだけだった。

「考えたわ」

「だったら――」

「考えた結果よ」

絵里は遮った。

「私がそばにいることで、あの子が幸せになるとは限らない。少なくとも今の直人は、私を母親として必要としていない」

悠太の顔が険しくなる。

「子どもの一時の言葉を真に受けるのか」

「一時?」

絵里は小さく首を傾げた。

「何度も言われたわ。人前で物を投げられた。突き飛ばされた。ガラスまで投げられた。それでもあなたは、私に我慢しろと言った」

悠太は口を閉ざした。

「だから、もう十分でしょう」

絵里は立ち上がった。

「書類は持ち帰って、弁護士に見せて。あなたが納得できない部分があるなら、私の弁護士へ連絡して」

彼女はバッグを手に取る。

「私からあなたに直接話すことは、もうほとんどないわ」

「絵里!」

悠太も立ち上がり、反射的に彼女の手首を掴んだ。

力が強すぎて、絵里の細い手首に痛みが走る。

「一体いつまでふざけるつもりだ」

悠太の声は低く、押し殺した怒りに震えていた。

「家庭をめちゃくちゃにして、満足か」

家庭。

その言葉に、絵里は心の中で笑った。

浮気相手のような女が主寝室を使い、息子が実の母親を罵り、夫はそれを見てもなお彼女を責めた。

それを、彼は家庭と呼ぶのか。

「離して」

絵里の声は氷のように冷たかった。

悠太は手を緩めない。

絵里は自分の手首を握る彼の指を見下ろし、ゆっくり顔を上げた。

「藤原社長」

その呼び方に、悠太の表情がわずかに強張る。

「ここはあなたの会社の一階よ。社員も、取引先も出入りしている」

絵里は淡々と続けた。

「人前で妻の手を掴んで怒鳴る姿を見られても、あなたは平気かもしれない。でも、藤原グループの評判はどうかしら」

悠太の指が、火傷でもしたかのように離れた。

顔面は蒼白になり、怒りと屈辱で胸が上下している。

絵里は赤くなった手首を軽くさすった。

それ以上、彼を見ることはなかった。

「連絡は弁護士を通して」

そう言い残し、彼女はカフェを出て行った。

悠太はその場に立ち尽くした。

ガラス扉の向こう、絵里の後ろ姿が人混みに紛れて遠ざかっていく。

追いかけることはできた。

名前を呼ぶこともできた。

だが、なぜか足が動かなかった。

テーブルの上には、離婚協議書が残されている。

悠太はそれを睨みつけた。

こんな紙切れ一枚で、五年間の結婚を終わらせるつもりか。

本気で。

彼は苛立たしげに書類を掴み、くしゃくしゃに丸めようとした。

だが、指に力を込めたまま、ふと動きが止まる。

結局、彼はそれを破ることも、捨てることもできなかった。

しわの寄った紙を乱暴に封筒へ戻し、スーツの内ポケットに押し込む。

まるで、そこにしまえば何も起きていないことにできるとでもいうように。

カフェを出た絵里は、その足で空港へ向かった。

飛行機が滑走路を走り、やがて機体がふわりと浮き上がる。

窓の外で、A市の街並みが遠ざかっていく。

忌まわしい記憶に満ちたあの街が、雲の下へ沈んでいく。

絵里は窓に映る自分の顔を見つめた。

疲れている。

傷ついている。

それでも、もう以前の自分ではなかった。

一方、病院では、直人が目を覚ましていた。

頭の傷がまだ痛むのか、彼は泣き出しそうに口を歪めながら辺りを見回した。

けれど、探している姿はどこにもない。

「パパ……ママは?」

ベッドのそばでノートパソコンを開いていた悠太は、その声に指を止めた。

顔は上げない。

「用事があるから、帰った」

「帰っちゃったの?」

直人の目に涙が浮かぶ。

「ママ、ほんとに僕のこといらなくなっちゃったの?」

悠太は言葉に詰まった。

以前なら、即座に否定できた。

絵里がお前を捨てるはずがない、と。

だが、カフェで見た彼女の目が脳裏をよぎる。

あの冷たさ。

あの静けさ。

あれは、本当に戻ってくる人間の目だっただろうか。

悠太が答えられずにいると、雪枝がすかさず歩み寄った。

「ママはお仕事が忙しいのよ」

彼女はとろけるような笑顔を浮かべ、直人の髪を優しく撫でる。

「直人くんはいい子だから、分かるわよね」

「でも……」

「直人くんの病気が治ったら、雪枝が遊園地に連れて行ってあげる」

雪枝は明るい声で続けた。

「大きな観覧車に乗って、綿菓子を食べて、新しいおもちゃも買いましょう。ママとお家にいるより、ずっと楽しいわよ」

直人の涙は、ぴたりと止まった。

「ほんと?」

「もちろん」

「パパも行く?」

直人が期待に満ちた目で悠太を見る。

悠太は一瞬だけ迷ったが、結局頷いた。

「ああ。行こう」

直人の顔がぱっと明るくなる。

「やった! 僕、雪枝とパパと行く!」

雪枝は満足そうに微笑み、直人の手を握った。

その数日後。

絵里のもとに、一通の匿名メールが届いた。

件名はない。

添付されていた写真を開いた瞬間、画面いっぱいに鮮やかな色が広がった。

遊園地。

晴れ渡る空。

右手で悠太と、左手で雪枝と手を繋ぎ、満面の笑みを浮かべる直人。

悠太は普段のスーツ姿ではなく、ライトグレーのポロシャツを着ていた。表情は硬いが、いつもよりいくらか穏やかに見える。

雪枝は直人のおもちゃを持ち、しとやかな笑みを浮かべている。

そして直人は、両目を三日月のように細めて笑っていた。

なんて幸せそうな、家族三人。

絵里は長い間、その写真を見つめていた。

胸の奥が痛まないわけではない。

けれど、不思議と涙は出なかった。

やがて彼女は画面を消し、スマホを裏返してテーブルに置いた。

ふっと、皮肉めいた笑みが漏れる。

これでいい。

誰もが、自分の望んだ場所へ行けばいい。

きっとその先に、素晴らしい未来が待っているのだから。

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