第7話
藤原家の別荘。
遊園地から帰ってきた直人は、シャワーを浴びて清潔なパジャマに着替え、リビングのラグに座り込んでいた。買ってもらったばかりのロボットのプラモデルを夢中で組み立てている。
しばらく手を動かしていたが、ふと顔を上げ、階段とキッチンのほうを交互に見やり、次第に唇を尖らせた。
「パパ」
ブロックを放り出し、書類に目を通している悠太のそばへと駆け寄る。
「ママ、いつ帰ってくるの? もうずっとお家にいないよ」
悠太は書類から視線を外した。
手を伸ばし、直人の頭を無造作に撫でる。
「用事があるんだ。外で仕事をしてる」
淡々とした声だった。
「……ママ、まだ僕のこと怒ってるのかな?」
直人はうつむき、もじもじと自分の指先をいじる。
「僕がひどいこと言って、追い出しちゃったから……だから、僕のこといらなくなったの?」
悠太の眉間が、ほんのわずかに寄った。
「それはない」
考える間も与えず、即座に否定する。
「ママがお前を捨てるはずがない。ただ、少し時間が必要なだけだ」
「仕事が片付けば、帰ってくる」
それは息子をなだめる言葉でありながら、自分自身へ言い聞かせているようでもあった。
絵里が本気で子どもを手放すはずがない。
ただ少し意地を張りすぎて、引っ込みがつかなくなっているだけだ。
頭が冷えて冷静になれば、自然と戻ってくる。
「ほんと?」直人が顔を仰ぎ見る。
「ああ」悠太は視線を逸らし、再び書類に目を落とした。「遊んでおいで」
直人は少しだけ安心したように、またブロックのところへ駆けていった。
絵里がA市に戻ったのは、それから一週間後のことだった。
到着するなり休む間もなくラボへ直行し、新たな業務に没頭する。
研究開発は無事に次のフェーズへと移行しており、今はまさに正念場だ。一切のミスも許されないため、極限まで神経を研ぎ澄ませていた。
数名の研究員とパラメータの調整について議論していた矢先、受付から内線が鳴った。
助手である趙が受話器を取り、二、三言葉を交わすと、困惑した面持ちで絵里のそばへやって来る。
「雪見さん、来客です。小川と名乗る女性で、藤原グループの代表として来たと……」
雪枝?
データを記録していた絵里の手がピタリと止まり、その瞳の奥に冷たい光がよぎった。
ペンを置き、傍らの同僚たちに頷きかける。
「続けてて。ちょっと行ってくるから」
応接室では、すでに雪枝がソファに腰を下ろしていた。
オフホワイトのツイードのセットアップに身を包み、メイクも完璧。緩やかに巻かれた髪が肩に落ち、相変わらず隙のない姿だった。
絵里が入ってくるのを見るなり、雪枝は立ち上がり、いかにも仕事用の笑みを浮かべた。
「絵里さん、お邪魔してるわ」
絵里はその挨拶には応じず、向かいのソファに腰を下ろした。
「小川さんが藤原グループの代表として来るなんて、ずいぶん大きな用件みたいね」
雪枝は一瞬だけ目を細めたが、すぐにバッグから一冊のファイルを取り出し、テーブルの上へ滑らせた。
「単刀直入に言うわ。藤原グループは、貴ラボへの投資を正式に打ち切ることにしたの」
声は柔らかい。けれど、その目には隠しきれない勝ち誇った色が浮かんでいた。
「この通知をもって、ラボは藤原グループの資金で購入した機材や消耗品の使用を停止してもらうことになるわ。研究も、当然いったん止める必要があるでしょうね」
絵里はファイルに触れようともしなかった。
ただ、雪枝を静かに見つめていた。
「悠太の指示?」
「会社としての正式な判断よ」雪枝は微笑んだ。「私は藤原社長から任されて来ただけ」
そして、わざとらしく声を柔らかくする。
「もちろん、急に資金が止まれば困るでしょうし、ラボの維持も大変だと思うわ。もし本当にどうにもならなくなったら、相談には乗ってあげてもいいのよ」
「私と藤原社長で、温情措置を考えてあげられないこともないから」
その言い方に、絵里は思わず小さく笑った。
「温情措置?」
雪枝の笑みがわずかに強張る。
絵里はゆっくりと背もたれに寄りかかり、淡々と言った。
「小川さん。ここへ来る前に、ちゃんと会社の帳簿は確認した?」
「え?」
「その機材代なら、二週間前に全額返金済みよ」
雪枝の顔から、すっと血の気が引いた。
「……返金?」
「ええ。藤原グループから受けた出資のうち、機材に使った分は、私の弁護士を通じて法人口座へ戻してあるわ。受領記録も残っている」
絵里はテーブルの上のファイルを一瞥し、皮肉げに続けた。
「つまり、その機材はもう藤原グループのものじゃない。研究を止めろと言われる筋合いもない」
雪枝は言葉を失った。
そんなはずがない。そんな大きな資金の動きがあれば、専属秘書である自分が知らないはずがない。
いや――知らなかった。
確認などしていなかった。
絵里が慌てふためき、惨めに頭を下げる姿を一刻も早く見たくて、ろくに中身も確かめずにここまで来たのだ。
絵里はその沈黙を見逃さなかった。
「帳簿も見ずに来たの?」
静かな一言だった。
だが、雪枝の頬を打つには十分だった。
彼女はバッグの持ち手をぎゅっと握りしめた。
「で、でも、藤原グループの後ろ盾がなくなれば、こんな小さなラボがいつまで持つか……」
「ご心配なく」
絵里は即座に遮った。
「当ラボの運営は順調よ。資金も、人材も、研究も。少なくとも、小川さんに心配していただく必要はないわ」
彼女はそこで初めて、テーブルの上のファイルを指先で軽く押し返した。
「これ、持って帰って。正式な通知なら、正式な手順で私の弁護士宛に送ってちょうだい」
「それと、次からは藤原グループを代表するなら、最低限、帳簿くらい確認してから来たほうがいいわ」
雪枝の顔が青ざめ、次いで赤く染まった。
「絵里さん、いい気にならないで。藤原グループを敵に回して、あなたが無事でいられると思ってるの?」
絵里は微笑んだ。
その笑みには、少しの怯えもなかった。
「敵?」
「小川さん。あなた、自分を藤原グループそのものだとでも思っているの?」
雪枝の唇が震えた。
言い返せない。
絵里は立ち上がり、応接室のドアへ視線を向けた。
「もう用件は済んだでしょう。ここは研究施設なの。部外者に長居されると困るわ」
「あなたっ……!」
雪枝は怒りで肩を震わせたが、それ以上何も言えなかった。
結局、ファイルをひったくるように掴み、悔しさを隠せない足取りで応接室を出ていった。
ドアが閉まる。
絵里はようやく息を吐き、冷めた目でその扉を見つめた。
これで終わるとは思っていない。
雪枝は必ず、悠太に都合よく話を作って泣きつくだろう。
案の定、その日の終業間際、悟が血相を変えて駆け込んできた。
「絵里さん、藤原グループの社長が来てる。君を指名してるんだ、早く行ってやってくれ」
悠太が?
絵里の瞳に明らかな苛立ちが走ったが、ひとまず白衣を脱ぎ、応接室へと向かった。
足を踏み入れると、険しい顔つきでソファに腰掛ける悠太と、その傍らに立つ雪枝の姿があった。
考えるまでもない。また雪枝が何か吹き込んだのだろう。
絵里の姿を認めるなり、悠太はさらに顔を曇らせ、開口一番に詰問した。
「絵里、あの金はどこから出た?」
結婚してからの五年間、絵里はずっと子育てに専念してきたのだ。短期間でそれほどの大金を用意できるはずがない。
絵里は無駄な問答をする気になれなかった。
「あなたに関係ある?」
「関係あるかって?」悠太は拳を握り込み、指の関節を白くさせた。「法的には、お前はまだ俺の妻だ。お前の一挙手一投足が、藤原グループの顔に泥を塗ることになりかねないんだぞ」
絵里は合点がいった。
彼がここまで血相を変えて乗り込んできたのは、名ばかりの妻が自分を裏切るような真似をしていないか、正当な手段で得た金なのかを確認したかっただけなのだ。
「絵里、電話に出ないから死んだのかと思ったぞ」
突然、ドアの外から朗らかな男の声が響いた。
悠太が振り返る。
応接室の入り口には、長身でカジュアルな服装の男が立っていた。
年齢は三十二、三歳といったところか。端正な顔立ちに大ぶりなサングラスをかけ、圧倒的なオーラを放っている。一目で富裕層だと分かる出で立ちだ。
両手をポケットに突っ込み、どこか飄々とした態度だが、室内のただならぬ空気を察知するやいなや、口角に嘲りの笑みを浮かべた。
「絵里、大丈夫か?」
男は歩み寄ると、ごく自然な動作で絵里の隣に立ち、その肩にポンと手を置いた。
悠太の瞳孔がわずかに収縮し、表情が一瞬にして険しく凍りつく。
「そいつは誰だ」
絵里を睨みつける。
絵里が答えようとしたその時、雪枝が突然、信じられないものを見るような目で小さく悲鳴を上げた。
「絵里さん、いくら藤原社長に腹を立てているからって、そんな……社長が目の前にいるのに」
言葉を濁してはいるが、その含みは誰の目にも明らかだった。
悠太の顔色が、一気にどす黒く沈む。
氷のように冷たい声で、一言一言を歯の隙間から絞り出すように言い放った。
「どうりで急に強気になったと思えば、とっくに次のパトロンを見つけていたというわけか」
「昔は、ここまで恥知らずな女だとは気づかなかったよ」
