第8話

その言葉を聞いた瞬間、陽の導火線に火がついた。

「誰が恥知らずだって? もう一回言ってみろ」

低く吐き捨て、悠太に向かって一歩踏み出す。

「お兄ちゃん」

絵里は慌てて陽の腕を掴んだ。

「やめて。ここで手を出したら、こっちが損をする」

――お兄ちゃん?

悠太と雪枝の表情が、同時に固まった。

絵里は陽を自分の後ろへ引き留めるようにして、冷ややかに言った。

「私の兄よ。雪見陽。誰も彼もが、あなたたちみたいに薄汚い目で物を見ると思わないで」

悠太の顔色が、わずかに変わった。

雪見陽。

その名を、彼が知らないはずがなかった。

かつて絵里が雪見家の反対を押し切って藤原家へ嫁いだとき、陽は最後まで結婚に反対し、藤原家にまで人を差し向けてきた男だ。

だが結婚式の日、雪見家の人間は誰一人として姿を見せなかった。

だから悠太は、絵里はもう二度と雪見家には戻れないのだと思っていた。

少なくとも、そう信じていた。

雪枝も言葉を失い、顔から血の気を失っている。

絵里が短期間で用意した大金の出どころ。

その答えが、今ようやく目の前に現れたのだ。

「絵里」

悠太は低い声で呼んだ。

その声には、先ほどまでの怒りとは違う、わずかな動揺が混じっていた。

だが絵里は、もう彼の反応に興味がなかった。

「お兄ちゃん、行こう。ここは空気が悪いわ」

「ああ」

陽は悠太と雪枝を一瞥し、嘲るように口角を上げた。

「藤原社長。妹のラボのことを心配していただく必要はない。金も、人脈も、後ろ盾も、雪見家が用意する」

彼は一歩前に出る。

「それより、あなたがやるべきことは一つだ。さっさと離婚届にサインしろ。これ以上、妹の時間を無駄にするな」

雪枝が反射的に口を開きかける。

「あなた――」

「雪枝」

悠太が鋭く制した。

その目つきに、雪枝は悔しげに唇を噛み、黙り込む。

陽は鼻で笑い、絵里の肩に軽く手を添えた。

「行くぞ」

二人が応接室を出ていく。

扉が閉まる直前、悠太は絵里の背中を見つめた。

そこには怒りも、未練も、期待もなかった。

ただ、完全に自分から離れていく人間の背中だけがあった。

まさか。

本当に、戻るつもりがないのか。

胸の奥に、説明のつかないざらつきが残った。

雪枝はその横顔を盗み見て、指先をきつく握り込む。

絵里が雪見家に戻った。

しかも、あの雪見陽が堂々と彼女を庇った。

それは、雪枝にとって最悪の展開だった。

「悠太さん……私、あの方がお兄様だなんて知らなくて」

彼女は震える声で言った。

「ただ、絵里さんが変な人に騙されているんじゃないかって心配で……」

「黙れ」

悠太の声は低かった。

雪枝はびくりと肩を震わせる。

「誰が勝手にラボへ行けと言った。出資引き揚げの件は保留にすると言ったはずだ。藤原グループを代表して通達する権限を、誰がお前に与えた?」

「私は……あなたの力になりたくて……」

雪枝の目に涙が浮かぶ。

悠太は眉間を押さえた。

怒りはある。だが、直人の面倒を見ているのは確かに雪枝だ。

その事実が、彼の言葉を鈍らせた。

「もういい。今後、俺の許可なく絵里に近づくな」

「……はい」

雪枝は従順に頷いた。

しかし伏せた瞳の奥には、濁った憎しみが沈んでいた。

絶対に、このままでは終わらせない。

一方、絵里は陽の車の助手席に座っていた。

車が研究施設を離れ、夕方の道路へ滑り出す。

張り詰めていた糸が切れたように、絵里は深く息を吐いた。

「助かったわ。ありがとう」

「実の兄に礼なんか言うな」

陽は前を見たまま答える。

「それより、お前は相変わらず無茶をする。あんな連中の前で一人で踏ん張る必要なんてない」

絵里は窓の外へ視線を向けた。

「五年も、一人で何とかしようとしてきたから」

声は静かだった。

「でも、もうやめる。あの家にも、あの人にも、期待しない」

陽は一瞬だけ彼女を見る。

「それでいい」

短い言葉だったが、そこには確かな安堵があった。

「父さんと母さんも待ってる。お前が帰るって聞いて、朝から落ち着かなかったぞ」

両親の話題が出た途端、絵里の指先がわずかに強張った。

五年。

まともに連絡も取らず、最後に話した時は大喧嘩だった。

今さらどんな顔をして帰ればいいのか、分からなかった。

車は静かな高級住宅街へ入り、見覚えのある邸宅の前で停まる。

門をくぐると、玄関の扉がすぐに開いた。

母・桃華が立っていた。

エプロン姿のまま、絵里を上から下まで見つめる。

その顔は険しい。

けれど目元は、少し赤かった。

「帰ってくる場所なんて、とっくに忘れたのかと思ってたわ」

絵里の喉が詰まる。

「……お母さん」

その一言だけで、桃華の表情が揺れた。

彼女はすぐに顔を背け、ぶっきらぼうに言う。

「そんな顔して立ってないで、早く入りなさい。風邪をひくでしょ」

奥から父・雅直が姿を見せた。

老眼鏡を外し、穏やかに微笑む。

「おかえり、絵里」

その言葉を聞いた瞬間、絵里の胸の奥で何かが崩れた。

ずっと張りつめていたもの。

泣いてはいけないと押し殺してきたもの。

それが一気に込み上げる。

「……ただいま」

声が震えた。

桃華は何も言わず、絵里の手を取って家の中へ引き入れた。

リビングには、温かな明かりが灯っていた。

食卓には、絵里が昔から好きだった料理が並んでいる。

桃華は椅子に座った絵里の皿へ、黙々と料理を取り分けた。

「食べなさい。そんなに痩せて」

「大丈夫よ」

「大丈夫な人間の顔じゃないわ」

桃華の声は少し震えていた。

「陽から聞いたわ。あの家で、どんな扱いを受けていたのか」

絵里は箸を握ったまま、何も言えなかった。

桃華は唇を強く結び、怒りを押し殺すように続ける。

「馬鹿ね。どうしてもっと早く帰ってこなかったの」

責める言葉のはずなのに、その奥には痛いほどの心配があった。

雅直が静かに口を開く。

「父さんたちは、お前が間違えたから怒っていたんじゃない」

絵里は顔を上げる。

「自分を大切にしないまま、苦しい場所に戻り続けるお前を見ていられなかったんだ」

雅直の声は穏やかだった。

「だが、帰ってきたならそれでいい。ここはいつでもお前の家だ」

桃華もそっぽを向いたまま、低く言った。

「離婚でも裁判でも、必要なら全部やりなさい。相手が藤原家だろうと関係ないわ。あなたには、私たちがいる」

絵里の視界が滲んだ。

茶碗の白いご飯の上に、ぽたりと涙が落ちる。

「ごめんなさい……」

やっと、それだけを絞り出した。

桃華はすぐにティッシュを差し出す。

「謝るくらいなら、ちゃんと食べなさい。泣くのはそのあと」

その言い方が昔と変わらなくて、絵里は涙の中で少しだけ笑った。

陽が横から軽く肩をすくめる。

「母さん、絵里は帰ってきたばかりなんだから、少し優しくしてやれよ」

「十分優しいでしょ」

桃華は即座に言い返す。

「本当に怒ってたら、玄関に入れてないわ」

その言葉に、雅直が小さく笑い、陽も苦笑した。

張り詰めていた空気が、少しだけ和らぐ。

桃華は改めて絵里を見た。

「これからは、まず自分の人生を立て直しなさい。ラボのことも、離婚のことも、直人のことも、一人で抱え込まないこと」

「うん」

絵里は頷いた。

「離婚は、必ず成立させる。ラボも守る。もう、誰かに人生を握らせたりしない」

その言葉に、陽の目がわずかに細められた。

「その意気だ。必要な弁護士も資金も、こっちで用意する」

「ありがとう」

「だから礼は要らないって言ってるだろ」

桃華がふと思い出したように口を挟む。

「それから、次の男はちゃんと選びなさいよ。顔や家柄じゃなくて、あなたを大事にする人にしなさい」

「お母さん、まだ離婚も成立してないから」

絵里が困ったように言うと、桃華は当然のように返した。

「だから今から言ってるのよ。二度と同じ失敗をしないために」

陽がため息をつく。

「母さん、それはさすがに早い」

「早くないわ。心構えの問題よ」

短いやり取りに、絵里は思わず小さく笑った。

久しぶりに、胸の奥が少しだけ温かくなる。

この家には、自分を責める声だけではなく、守ろうとしてくれる声がある。

それを思い出すまでに、五年もかかってしまった。

食事のあと、絵里は二階の昔の部屋へ案内された。

部屋はほとんど当時のままだった。

本棚、机、窓辺の小さな観葉植物。

まるで彼女がいつ帰ってきてもいいように、丁寧に整えられている。

桃華は扉の前で立ち止まり、少しだけ照れくさそうに言った。

「勝手に片付けたら怒ると思って、そのままにしておいたの」

絵里は部屋の中を見回し、胸が締めつけられた。

「ありがとう、お母さん」

桃華は一瞬黙り、それから絵里の肩をそっと抱いた。

「もう、あんな家に戻らなくていい」

その一言で、絵里の目にまた涙が浮かぶ。

けれど今度の涙は、絶望のものではなかった。

その夜、絵里は久しぶりに深く眠った。

翌朝、目を覚ますと、スマホには弁護士からのメッセージが届いていた。

離婚協議書の修正版。

財産分与、親権、面会交流、藤原家側の不当干渉への対応案。

絵里はベッドの上でしばらく画面を見つめた。

もう逃げない。

家族の温もりに甘えるだけでは終わらない。

あの家で奪われた時間も、尊厳も、仕事も。

すべて、自分の手で取り戻す。

絵里は静かに返信を打った。

『この内容で進めてください。できるだけ早く、藤原悠太に正式通知をお願いします』

送信ボタンを押す。

窓の外には、朝の光が差し込んでいた。

その光は、久しぶりに絵里の未来を照らしているように見えた。

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