第9話
藤原グループ本社、最上階の社長室。
悠太はデスクの引き出しを開けたまま、奥にしまい込んだ離婚協議書をじっと見下ろしていた。
数日前、絵里が何の未練もなく置いていったものだ。
財産はいらない。
親権も渡す。
面会も、必要ならそちらで決めればいい。
あまりにも淡々とした条件が、かえって彼の神経を逆撫でした。
絵里が本気で自分から離れていくはずがない。
そう思う一方で、研究室で見た彼女の冷たい目が、どうしても頭から離れない。
苛立ちを押し殺し、悠太は内線ボタンを押した。
「小林、前のオークションで落とした星辰シリーズのジュエリーを持ってきてくれ」
数分後、秘書の小林が深いブルーのベルベット箱を持って入ってきた。
「こちらでよろしいでしょうか」
悠太は箱を開けた。
中には、精巧なダイヤモンドのネックレスとイヤリングが静かに輝いている。元々は重要な取引先の夫人に贈る予定だった品だ。
だが、今はこれでいい。
高価なものを渡せば、絵里も少しは冷静になるだろう。
自分がここまで譲歩してやれば、彼女も意地を張るのをやめるはずだ。
悠太は箱を閉じ、立ち上がった。
「車を出せ。絵里の研究室へ行く」
同じ頃、藤原家の邸宅。
雪枝はプレイルームで直人と積み木の城を作っていた。
だが、その視線は何度もスマホへ向かっている。
小林からの連絡で、悠太が星辰シリーズのジュエリーを持ち出したことを知っていた。
絵里のところへ行く気だ。
しかも、あんな高価な贈り物まで持って。
雪枝の指先が、積み木を握ったまま強くこわばる。
駄目。
絶対に、二人をゆっくり話させるわけにはいかない。
彼女は目を細め、無邪気に塔を組み立てている直人を見つめた。
その小さな背中を見ながら、雪枝の胸の中で、ひとつの考えが形になっていく。
悠太が研究施設に到着したとき、日はまだ高かった。
受付で取り次いでもらうと、ほどなくして絵里が姿を現した。
白衣の下にはライトグレーのニットとスラックス。長い髪は無造作にまとめられ、化粧気のない顔には疲労が滲んでいる。
それでも、彼女は以前よりずっと凛として見えた。
悠太を見た瞬間、その瞳に明らかな嫌悪が走る。
「何の用?」
絵里は廊下の入り口で立ち止まったまま、彼を中へ招く素振りすら見せない。
悠太は胸に生じた不快感を押し殺し、手にした箱を軽く掲げた。
「少し話がしたい。この前の出資引き揚げの件だが、誤解がある」
「誤解?」
絵里の眉がわずかに上がる。
「藤原グループ法務部の実印が押された撤退通知書を、小川さんがわざわざ持ってきたのよ。どこに誤解があるの?」
「それに、機材代はもう全額返したわ。貸し借りはない。これ以上、話すこともないはずだけど」
「絵里」
悠太は努めて声を落ち着かせた。
「雪枝の対応が不適切だったことは認める。あれは現場が勝手に先走っただけだ。俺も細かい経緯までは把握していなかった」
これが、彼にとって精一杯の譲歩だった。
だが、絵里はただ静かに彼を見つめているだけだった。
怒りも、悲しみも、期待もない。
まるで他人の言い訳を聞いているような目だった。
「それで?」
悠太は言葉に詰まる。
数秒の沈黙のあと、彼は手元のベルベット箱を差し出した。
「これは、ほんの気持ちだ」
絵里の視線が箱に落ちる。
「これまでのことは、水に流そう。俺たちには直人もいる。いつまでも意地を張り合う必要はないだろう」
絵里は受け取らなかった。
ただ、その箱を見て、それから悠太の顔を見る。
やがて、呆れたように小さく笑った。
「あなた、本気でそう思ってるのね」
「何がだ」
「高価なものを渡して、少しだけ譲歩した顔をすれば、私が感謝して、全部なかったことにすると」
絵里の声は低く、冷たかった。
「妻の尊厳も、仕事も、五年間積み重なった傷も、全部この箱ひとつで買い戻せると思ってるの?」
悠太の表情が険しくなる。
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味?」
絵里は即座に遮った。
「あなたは何も分かってない。私が怒っている理由も、離婚したい理由も、もう戻る気がないことも」
悠太の手に力が入る。
「いい加減にしろ。俺がわざわざここまで来ただけでも、十分お前の顔を立ててやってるだろう」
「私の顔を立てる?」
絵里は一歩後ろへ下がった。
その目に浮かんだのは、怒りではなく、心底からの失望だった。
「昔の私は、一体あなたのどこを好きだったのかしら」
そのとき、悠太のスマホが震えた。
画面には、雪枝の名前。
彼は苛立ちを隠さず通話に出た。
「何だ」
『悠太、大変!』
泣き出しそうな雪枝の声が飛び込んでくる。背後では、直人の激しい泣き声が響いていた。
『直人くんが急にお腹が痛いって転げ回って、何度も吐いてるの! お医者様は呼んだけど、パパがいいってずっと泣いてて……!』
続いて、直人の泣き叫ぶ声が聞こえた。
『パパーッ! お腹いたいよぉ! パパ、早く帰ってきてぇ!』
悠太の顔色が一瞬で変わった。
「医者は何て言ってる!」
『急性胃腸炎かもしれないって。でも、まだ小さいのにこんなに苦しがって……私ひとりじゃ怖いの。お願い、早く帰ってきて』
悠太は絵里を見た。
通話の内容は、彼女にも聞こえていたはずだ。
だが、絵里は表情ひとつ変えなかった。
その冷静さが、悠太の胸にさらに苛立ちを生む。
「すぐ戻る」
電話を切ると、悠太は早口で言った。
「直人が急病だ。容態が良くないらしい。俺は戻る」
そして、手にしていた箱を絵里に押しつけるように差し出した。
「これは受け取っておけ。今日の話はまた今度にする」
返事も待たず、彼は踵を返して大股で去っていった。
絵里はその背中を見送った。
廊下の先へ消えていく悠太の姿を見つめながら、口元に皮肉な笑みが浮かぶ。
結局、何も変わっていない。
彼は謝りに来たのではない。
許されに来たのでもない。
ただ、自分の思い通りに戻したかっただけだ。
絵里は身を翻し、箱を持ったまま研究室へ戻った。
室内では、研究員たちが慌ただしく動いている。
絵里の視線は、データ記録に没頭しているインターンの桜で止まった。
桜の手首には、色褪せた赤いミサンガが巻かれている。
「桜」
呼ばれた桜が顔を上げる。
「はい、雪見博士?」
絵里は歩み寄り、深いブルーのベルベット箱を実験台の上に置いた。
「これ、あげるわ」
「えっ?」
桜だけでなく、隣にいた研究員たちも目を丸くした。
「デザインは少し古いかもしれないけど。気に入らなければ、売るなり誰かにあげるなりして」
絵里の口調は淡々としていた。
まるで、どうでもいい余り物を渡しているかのように。
「プロジェクト第一段階クリアのお祝いってことで」
「で、でも、これ……すごく高そうですし……」
桜は慌てて両手を振る。
絵里は少しだけ笑った。
「私には必要ないものだから」
それだけ言うと、もう箱には目もくれず、自分のオフィスへ向かった。
ドアが静かに閉まる。
残された桜は、どう見ても高価な箱を前にして、顔を真っ赤にしたまま固まっていた。
隣にいた悟が眼鏡を押し上げ、軽く咳払いをする。
「絵里さんがくれたんだ。ありがたく受け取っておきなよ」
「は、はい……」
桜はおそるおそる箱に触れた。
その頃、病院へ向かう車の中で、悠太は雪枝から送られてくる直人の様子を確認していた。
泣き声。
苦しそうな表情。
雪枝の不安げなメッセージ。
胸がざわつく一方で、彼の頭には、なぜか絵里の最後の表情が焼きついて離れなかった。
あの箱を見ても、彼女は少しも喜ばなかった。
受け取ろうとすらしなかった。
まるで、自分から与えられるものには、もう何の価値もないと言わんばかりに。
悠太は無意識に拳を握りしめた。
そんなはずはない。
絵里が本気で、自分を必要としなくなるはずがない。
彼はそう自分に言い聞かせるように、窓の外へ視線を向けた。
しかし、その胸の奥には、言葉にできない焦りがじわじわと広がっていた。
