第2章 不倫相手の挑発
オリヴィアは身を支えて起き上がった。肩口には、くっきりとした歯形。青紫に滲んでいる。
リビングへ出ると、離婚協議書を手に取って条項へ目を走らせた。
条件は破格だ。いくつもの不動産に、巨額の信託基金。下手をすれば一生、遊んで暮らせる。
ルカは「できる限り」を、本当に用意してきたのだろう。
金で三年を買い取り、罪悪感もなく「妹」を迎えにいく。そういう算段だ。
それでいい。
十年の片想いも、三年の結婚も――そろそろ目を覚ますべきだ。
少し離れた場所で、ルカがこちらを見ていた。オリヴィアがペンを取った瞬間、彼の瞳が沈む。
「言っただろ。パーティーが終わってからだ」
ルカは彼女の手から協議書を抜き取り、気だるげに言う。
「ずいぶん急いで縁を切りたいんだな」
オリヴィアは小さく笑った。
「あなたも急いで成立させたいんでしょう?」
ルカが数歩、近づく。深い青が言葉にならないものを孕む。
「昨夜……」
「昨夜は何もなかった」
オリヴィアはきっぱり遮った。
「大人の生理的な欲求、それだけ。負担に思わなくていい。書類はサインするし、お金も受け取る。これで終わり。私たち、チャラよ」
「チャラ……?」
ルカの舌先に、妙な苦さが残った。
視線が彼女の首筋をかすめる。薄く残る赤い痕。理由もなく苛立ちが湧き上がる。
「私、出ていく」
「いや。来月のパーティーまではここにいろ」
ルカの声は硬い。
「リヌスは俺たちの婚姻を気にしてる。フェテル家の親戚連中も厄介だ。余計な騒ぎは一つもいらない」
オリヴィアは冷たく笑った。
「私の演技が下手で、ボロが出たら困るの? あなたとウェンディが『ゴールイン間近』って世論づくりが崩れるから」
「オリヴィア!」
ルカの声が低く沈む。
「言っただろ。ウェンディを巻き込むな。彼女は関係ない」
「関係ない?」
オリヴィアは協議書の端を指で弾いた。
「私たちの間に、これ以外なにがあるの?」
ルカの顎がきつく固まる。沈黙のあと、無理やり言葉を吐いた。
「とにかく、パーティーまではここにいろ。そのあとは好きにしろ」
そう言い捨て、背を向けて出ていった。
それから半月。
ルカはほとんど帰ってこない。帰っても深夜で、顔を合わせることはなかった。
けれどオリヴィアのスマホには、彼にまつわるものだけが増えていった。
最初は知らない番号から届いた写真。
高級レストランでルカとウェンディが食事をしている。ウェンディの笑顔が眩しいほど明るい。
【ルカがここのステーキ美味しいって。連れてきてくれたの。あなたは一人でさみしくごはん?】
次は劇場のプライベートボックス。
【バレエに連れてきてくれてありがとう。私、舞台のプリンシパルより上手いって言ってくれた】
そして、買い物袋が高級車の後部座席に山積みの写真。
【ドレス、ひっかけちゃって。ルカが新しいの買ってくれるって】
一つをブロックしても、すぐ別の番号から届く。
わかっている。ウェンディの示威行為だ。
見ろ、と言っている。
三年守ってきた男の心も時間も、いまは私のものだと。
胸の奥から吐き気がせり上がり、波みたいに繰り返す。
オリヴィアは口元を押さえて洗面所へ駆け込み、胃が空になるほど吐いた。ぐらぐら、視界が揺れる。
最近、吐く回数が増えた。
――おかしい。身体が。
オリヴィアはバッグを掴むと、そのまま病院へ向かった。
検査はあっけないほど早く終わる。
医師はにこやかに結果の紙を差し出した。
「おめでとうございます、フェテル夫人。ご懐妊です」
頭が真っ白になった。
たった一度、抱かれただけで――妊娠?
タイミングが、最悪だ。
三年。ずっと欲しかった。ルカとの子どもが。
けれど彼は、決してオリヴィアを抱こうとしなかった。
離婚が現実になりかけた今になって、子どもが来るなんて。
診察室を出て、オリヴィアは廊下を彷徨った。足元がふわふわする。
産む? 堕ろす?
産めば、愛のない家で育つかもしれない。
堕ろす――。
指先が震え、結果用紙は握り潰されて皺だらけになる。
そのとき、視界へ突き刺さるように、見慣れた長身が現れた。
ルカ。
産婦人科の待合付近に立っている。
どうして、ここに――。
次の瞬間、近くの診察室の扉が開き、ウェンディが書類を手に出てきた。
オリヴィアの血の気が引く。身体が固まった。
ウェンディも妊娠したの?
だから、あんなに離婚を急いだ――?
ルカがこちらに気づいた。
目が合った瞬間、彼も驚いた顔をする。すぐ大股で近づき、眉をひそめた。
「どうして病院にいる。具合が悪いのか?」
オリヴィアは結果用紙を握り潰すように掌へ隠した。涙がこみ上げるのを噛み殺す。
「あなたが来られるなら、私だって来られる。ここ、あなたの病院?」
ルカの顔が曇る。それでも視線は彼女の顔に縫い付いたままだ。
「顔色が悪い。具合が悪いなら言え」
額に触れようとした手を、オリヴィアはさっと避ける。
「いらない。心配するなら、後ろの人を心配したら? あの人のほうが、よほど『お世話』が必要そう」
ウェンディは聞こえないふりをして近づいてくる。
「オリヴィア? 偶然ね。あなたも診察? 大丈夫?」
「あなたに関係ある?」
オリヴィアは冷えた目で睨んだ。
「ウェンディ・ロス。薄っぺらい心配はしまって。吐き気がする」
ウェンディの瞳にすぐ涙が浮かび、縋るようにルカへ身体を寄せる。
「ルカ……私、ただ心配しただけなのに……」
「オリヴィア、言い過ぎだ」
ルカが眉を寄せ、声を硬くした。
「ウェンディに謝れ」
「謝れ?」
オリヴィアは笑った。目の奥がつんと痛い。
「なんで私が? あなたが不倫相手のために私を捨てようとしてるのに。謝るのはそっちでしょう」
言葉が鋭く、止まらない。
「ルカ・フェテル。まだ離婚してないのに、公共の場に連れ回すなら――あの子はただの不愉快な愛人よ」
「記者でも呼んで、現実を教えてあげようか?」
「……っ」
ルカのこめかみに青筋が浮いた。
オリヴィアはそれ以上見ないで、踵を返した。
車へ戻り、鍵をかける。
密閉された空間。ハンドルを両手で握り、顔を埋めた。
ぽた、ぽた、と涙が落ちる。止まらない。
どれくらい経ったかわからない。スマホが震えた。
親友のエマからだ。
オリヴィアは涙を拭い、呼吸を整えてから通話に出る。
「オリ! ニュース見た!? あのクソ男、またウェンディのビッチとゴシップよ! 恥ってもんがないの!?」
耳が痛くなるほどの怒声。
「エマ……言わなきゃ。私とルカ、離婚する」
沈黙が二秒。
次の瞬間、さらに勢いを増した罵声が炸裂した。
「マジ!? 前から言ってたでしょ、あの冷血野郎はあなたに釣り合わないって! おめでとう、やっと地獄から抜けるのね!」
「エマ」
「ん? どうしたの」
「……私、妊娠した」
「……は?」
エマが言葉を失う。
「ルカの子?」
「うん」
「最悪……どうするの。言う?」
オリヴィアは答えなかった。窓の外を見る。
ちょうどルカがウェンディを庇うように助手席へ乗せ、車の上に手を添えていた。
あの優しさを、オリヴィアは三年で一度も受けたことがない。
心臓のあたりが、冷たく鈍く痛む。
「言わない」
スマホを強く握り、言い切った。
「この子は……いらない」
