第3章 彼女の職位を代わる

 オリヴィアは産婦人科の診察エリアへ戻り、中絶手術の流れを確認した。

 受付の看護師が、書類一式と予約票を差し出す。

 オリヴィアは椅子に腰を下ろし、一つひとつ丁寧に記入していった。

 緊急連絡先の欄で、ペン先が止まる。

 長い沈黙。

 結局、何も書けなかった。

 ――私って、本当にだめだ。

 ルカに出会ったとき、ようやく「帰る場所」ができたと思った。

 けれど最後は、結局いつだってひとりきり。

 そして今、血のつながったたった一人の小さな命まで、自分の手で消そうとしている。

 手術の予約日は、来週の金曜日になった。

 病院を出ると、空は鉛色に沈み、今にも雨が落ちてきそうだった。

 オリヴィアはそっと下腹部に触れる。

 ごめんね、赤ちゃん。

 声には出さず、胸の中で謝った。

 あなたは来る時間を間違えた。父親も、間違えた。

 次は――ちゃんと、私のところへおいで。

 *

 翌日。オリヴィアはいつも通り出社した。

 ヴェッテルグループ本社ビル。

 彼女はルカの上級秘書としてここで働いている。

 この職を望んだのは自分だ。夫を監視したいわけではない。ただ、少しでも近くにいたかった。自分が無力じゃないと証明したかった。

 二年の実績は、ほぼ非の打ちどころがない。

 ――なのに。

 自分のデスクの前で、オリヴィアは立ち尽くした。

 机の上は空っぽで、代わりに見知らぬ私物が並んでいる。

「……どういうこと?」

 そばにいたアシスタントへ問いかける。

 アシスタントは困った顔で口ごもった。

「今朝いきなり人が来て……オリヴィアさんの席に。名前はたしか、ウィンディ……社長の指示らしいです」

 血の気が一気に引いた。

 そんなに急ぐの?

 まだ離婚もしていないのに。

 愛する女をそばに置くために、私の最後の居場所まで奪う――。

 ふざけないで。

 オリヴィアは踵を返し、社長室へ向かった。

 ノックすらしない。扉を押し開け、踏み込む。

 室内では、ルカが大きな窓の前に立っていた。

 その隣にウィンディ。距離が近い。角度によっては、次の瞬間、彼女が腕の中へ転がり込んでもおかしくないほど。

 扉の音に、二人が同時に振り向く。

 ルカの口元にあった笑みが消える。

「入るならノックしろ」

 オリヴィアは取り合わず、まっすぐ言った。

「どうして私のデスクが片付けられてるの」

 ルカは椅子にもたれ、淡々と返す。

「人事の調整だ」

 一拍置いて、湛えた青い瞳が彼女を捉えた。

「お前の配置も、改めて決める」

 胸の奥に、氷を詰め込まれたみたいだ。冷たく、痛い。

 オリヴィアは目を伏せ、乾いた声で問う。

「ルカ・ヴェッテル。私は二年、一度もミスをしてない。それでもウィンディのために、私の努力は全部無駄になるの?」

 怒鳴りもしない。泣きもしない。

 冷静すぎるほどの冷静さが、ルカの胸をざらつかせた。

「理由は後で説明する」

 ルカは眉を寄せる。

「今じゃない」

「オリヴィア、誤解よ……」

 ウィンディが慌てて両手を振った。

「昨日、私が軽く『勉強したい』って言ったから、ルカが会社に入れてくれただけなの。ごめんなさい、私が悪いの。そんなこと言うべきじゃなかった」

 彼女はルカを見上げる。

「ルカ、オリヴィアと喧嘩しないで。もしオリヴィアが嫌なら、私、来ない。ほんとに、ただの思いつきだったの……」

「ウィンディ、君のせいじゃない」

 ルカは言い、視線をオリヴィアへ戻す。苛立ちが声の端に滲んだ。

「聞け、オリヴィア。説明はする。だがウィンディを困らせるな」

 そして、当然のように続ける。

「補償も出す。車でも金でも、好きなものを」

 また金。

 彼にとっては、感情も仕事も、金で清算できるものなんだ。

 じゃあ――三年は?

 私の腹の中の命は?

 痛みが限界を越えると、逆に何も感じなくなる。

 オリヴィアは目の前の男が、笑えるほど滑稽に見えた。

 息を整える。

「いらない」

 ルカが、理解できない顔をする。

「説明も補償もいらない」

 オリヴィアは口元を歪めた。

「私、今この場で辞表を出す。今日から私はヴェッテルグループの社員じゃない」

 ルカの瞳孔がきゅっと縮む。

 泣いて縋るだの、条件を突きつけるだの――そういう展開を想定していたのだろう。

 だが「会社を去る」は、彼の想定外だった。

「だめだ。認めない!」

 ルカが声を荒げる。

「退職は手続きが必要だ。社長として却下できる」

 オリヴィアは冷笑した。

「手続きはあなたが決めた。でも足は私にある」

「これは相談じゃない、通告よ。引き継ぎだけして辞める。それだけ」

 そう言い捨て、迷いなく背を向けた。

 ルカは彼女の消えた方向を見つめ、顔色を落とす。

「ルカ、追いかけてあげて」

 ウィンディが不安げに言った。

「あの子、すごく傷ついてる。気を引きたいだけかもしれないけど……それでも妻でしょう?」

 ルカは返事をせず、薬指の結婚指輪を指先で撫でた。

 その目に沈むのは、複雑な色。

 夜。ルカは帰宅した。

 リビングはがらんとしていて、灯りも温度もない。

 苛立ちまぎれにネクタイを乱し、階段を上がる。

 寝室では、オリヴィアが眠っていた。身体を丸め、毛布は腰までしか掛かっていない。

 ルカはしばらく立ち尽くし、それからそっと近づいて毛布を掛け直した。

「……どうしていつも、ちゃんと掛けないんだ」

 眠りの中のオリヴィアが、もぞ、と身じろぎし、彼の手のほうへ寄ってくる。

 ルカは真剣に彼女の顔を見た。

 昔――まだ妻ではなかった頃。

 彼女が熱を出し、同じように丸くなっていた日が脳裏をよぎる。朦朧としながら手を掴み、小さく彼の名を呼んだ。

 ルカはベッドの端に腰を下ろし、指で乱れた前髪を払う。

 ごく軽い動きだったのに、オリヴィアは目を開けた。

 薄暗い部屋で、深い青と視線がぶつかる。

 ルカの手は、まだ彼女の頬に触れたまま。

 オリヴィアは一気に覚醒し、がばっと起き上がった。

「ここで何してるの!」

 ルカの手が宙で止まる。

 彼女の目に浮かぶ警戒が、胸を刺した。

「俺の家だ。どこにいようが勝手だ」

 ルカは尊大に言い放つ。

 オリヴィアは争いたくない。

「遅い。寝るから、出てって」

 その冷たさが、ルカの癇に障った。

 彼は身を乗り出し、両手を彼女の左右に突く。距離が、一気に詰まる。

「オリヴィア、どうしたい」

「協議書にはサインした。金も受け取る。なのに今度は退職だ」

「世界中がお前に悪いことをしたとでも?」

 オリヴィアの胃がぐらりと波打つ。つわりが一気に込み上げ、喉の奥が熱くなる。

「言ったでしょ! 離して!」

 押し返すが、びくともしない。

「答えろ!」

 ルカは手首を掴み、燃えるような目で迫った。

「オリヴィア、お前は俺にどうしてほしい!」

 吐き気が限界を越える。

「……うっ」

 次の瞬間、オリヴィアは勢いよく吐いた。

 汚れの大半が、ルカの高級スーツへべったりと落ちる。

 ルカは唖然と立ち尽くした。

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