第4章 雨の日の交通事故
ルカは硬直し、眉間に深い皺を刻んだ。
顔を上げた瞬間、オリヴィアが口元を押さえて青ざめているのが目に入る。胸の奥で燃えていた怒りが、すうっと霧散した。
「どうした。具合が悪いのか」
ルカは即座に上着を脱ぎ捨て、彼女の額に手を伸ばす。瞳の奥に、かすかな心配が滲んだ。
オリヴィアは身を引く。声は弱々しい。
「病気じゃない」
その拒絶が、ルカの苛立ちに火を点けた。
「しゃべる力もないくせに、病気じゃないだと?」
今さらになっても、まだ俺に嘘をつく気か。
「あなたには関係ない……」
オリヴィアは込み上げる吐き気を必死に押し殺しながら言った。
「近づかないで。それでいい」
距離のある声音。まるで、嫌悪する敵に向けるみたいに。
ルカはオリヴィアを睨み据える。拒絶と嫌悪が、苛立ちをさらに煽った。
なぜだかわからない。彼女のこの冷めた顔が、どうにも耐えられない。
以前の彼女は、俺の関心を渇望していたのに。
ルカは袖をまくり、抱き上げようと身を屈める。
「吐いたんだぞ。病院で診てもらえ」
「いらないって言った! 触らないで!」
オリヴィアは彼の手を払った。反応は過剰なほど激しい。
病院に行けば――妊娠が露見する。
だが、その仕草がルカの理性を切り裂いた。
拳を握りしめ、青白い顔を睨みつける。脅して従わせたい衝動を、歯を食いしばって飲み込んだ。
「オリヴィア、いい加減にしろ。わがままも――」
「どこがわがままなの。自分の身体は自分がいちばんわかってる。病院もいらないし、あなたに口を出される筋合いもない」
オリヴィアはベッドから降り、洗面所へ向かおうと身を起こす。
けれど、吐いたあとの身体は鉛みたいに重かった。
床に足をつけた瞬間、ふらりと前につんのめる。
ルカが腕を広げ、一瞬で受け止めた。強引に抱き寄せ、胸に押しつける。
「このザマでまだ強がるのか。オリヴィア、少しは――大人しくしろ」
言葉の端に、甘やかすような響きが混じった。
二人とも、わずかに息を呑む。
オリヴィアは目を見開き、思わず吐き出した。
「ルカ、薬でも間違えて飲んだ? それとも私をウェンディだとでも思ってるの?」
ルカの瞳が暗く沈む。言い返そうとした、そのとき――。
コンコン、と扉が叩かれた。
外から使用人の遠慮がちな声。
「ウェンディさんがお見えで……急ぎのご用だそうです。外はひどい雨で――」
言い終える前に、ルカが切るように遮る。
「わかった。すぐ行く」
ルカはオリヴィアをベッドへ戻し、顔色を一度だけ確かめると、そのまま寝室を出た。
オリヴィアはくらくらする頭を抱え、座った途端に視界がふっと暗くなる。
身体がこんなに辛くても、心の痛みだけは無視できない。
ウェンディの前では、私の不調なんて些末だ。
私が倒れたって、平気で置いていく。
――階下。
ウェンディは全身ずぶ濡れで、目元が赤い。暖房の効いた室内でも、ぶるぶると肩を震わせていた。
ルカの姿を見つけるなり、震える声で謝る。
「ルカ、ごめんなさい……こんな時間に」
「何があった。こんな土砂降りの中、どうして来た。びしょ濡れじゃないか」
ルカはソファに置かれていたブランケットを掴み、ウェンディの肩へ掛けた。
ウェンディは弱々しく言う。
「悪い夢を見て……ひとりで家にいられなくて。気づいたら、あなたのことを思いながら……ここまで来ちゃったの」
そして、ルカの背後へ視線を向けた。
「オリヴィア、もう寝てる? 私、来ないほうがよかったよね……」
オリヴィアはルカの後ろから出てきていた。
廊下に立ち、ウェンディと目が合う。
その瞳に宿る挑発を、オリヴィアは一瞬で見抜く。――だが、ルカは気づかない。
ルカが言いかける。
「彼女はまだ起きてる。ただ――」
「じゃあ、少しだけここで休んでもいい?」
ウェンディが慌てて割り込む。
「ただ話し相手が欲しいだけ。変な意味じゃないの」
もう一度、上階を窺うように見上げた。
「オリヴィア、怒らないかな?」
ルカは一瞬言葉を失い、振り返ってオリヴィアの冷たい視線を受け止めた。
なぜだか、胸の奥がざらつく。
ルカは思わず言ってしまう。
「ウェンディはここにいさせる。雨に濡れたんだ」
確認ではなく、命令。
胸が重く痛み、オリヴィアはゆっくりと手のひらを握りしめた。
結婚してから、ルカはずっとよそよそしく冷たかった。
オリヴィアは不器用に、必死に媚びた。少しでも優しさが欲しくて、温度が欲しくて。
けれど、全部空振り。
彼は元から冷淡な人間なのだと思い込んでいた。
ウェンディに惜しみなく心を配る姿を見るまでは。
違ったのだ。
忍耐がないわけじゃない。ただ、その忍耐は――私には向けられないだけ。
でも、今気づけたなら遅くない。
オリヴィアは階段を降り、ウェンディの得意げな表情を横目で掠め、笑ってみせた。
「もちろん。ウェンディ、好きなだけここにいたらいいわ」
ウェンディの顔がぱっと明るくなる。
「ありがとう、オリヴィア……」
「ただし」
オリヴィアは彼女の言葉を遮り、ルカを見る。
「病院に連れていくって言ったでしょう。今すぐ行けるわ」
ルカが眉をひそめる。彼女の氷のような表情に、胸の底が沈んだ。
違う。
俺が想像していた反応じゃない。
本来なら怒ってウェンディを追い返すとか、嫉妬するとか、喧嘩を吹っかけるとか――そういうはずなのに。
「え……ルカも病院に行くの? じゃあ、私またひとり……」
ウェンディがルカの袖をつまみ、不満げに身を寄せた。
ルカは我に返る。
「君は運転手に送らせる。ひとりでここにいるのはだめだ、駄々をこねるな」
「いいよ」
オリヴィアが口元だけで笑う。嘲りが滲んだ。
「私も運転手で十分。愛人の相手に忙しいあなたの手は煩わせない」
ルカの目が冷える。
「オリヴィア、言い方を考えろ」
オリヴィアは彼の前をまっすぐ通り過ぎ、ソファの上のバッグを手に取った。
「私たち、まだ夫婦よ。あの子があなたの愛人じゃなきゃ何なの?」
ウェンディの血の気の引いた顔を一瞥し、オリヴィアは振り返りもせずリビングを出ていく。
ルカは拳を握りしめたまま、雨の向こうへ消えていく細い背中を見送った。
……薄着だ。
前より痩せた。肩甲骨の線さえ浮いて見える。
追いかけたい衝動が込み上げ、踏み出しかけた、その腕をウェンディが掴む。
振り向くと、涙を溜めた目。
「ごめんなさい……私が来たせいで。オリヴィア、怒ったよね……」
しゃくり上げるような声。委屈を纏った泣き方。
ルカは宥めるように、彼女の手を軽く叩いた。
「君のせいじゃない。彼女はもともと気が強い」
結局、ルカは追いかけなかった。
少し考え、運転手へ電話を入れる。検査結果が出たら、オリヴィアの状態を把握しておきたい。
だが、何度かけても繋がらない。
外は雨脚が増し、窓を狂ったように叩いている。
豪雨の夜は視界が悪い。事故が起きてもおかしくない。
ルカは眉間に皺を寄せ、不吉な不安がじわりと腹の底に滲んだ。
「くそ……」
もう一度かけ直そうとした瞬間、運転手から着信が入る。
ルカは即座に出た。
「どうした。何があった!」
『大変です! 幹線道路に出たところで車と接触して――奥様が……!』
ルカの頭の中が真っ白になる。
そのあとの言葉が、耳に入ってこない。
ルカは車のキーを掴み、飛び出す支度をした。
ウェンディが青ざめる。
「どうしたの? オリヴィア、何かあったの?」
「事故だ。オリヴィアが……俺が見に行く!」
ルカは上着を引っつかむ。
ウェンディは唇を噛み、泣きそうな顔で訴えた。
「でも、私……怖――」
バンッ!
ルカはドアを乱暴に閉めた。
豪奢なリビングに、ウェンディだけが取り残される。
