第5章 全身を汚した
ルカはアクセルを踏み込み、雨を切って救急外来へ飛び込んだ。
中へ入った瞬間、視界にオリヴィアが映る。病室のベッド脇に腰かけ、こちらを見もしない。
手には包帯。目尻には、はっきりと分かる擦過傷。
事故など起きていないかのように無表情で、ただ静かに座っている。そのくせ顔色だけが、紙のように白かった。
胸の奥がひゅっと縮む。ルカは足早に近づき、彼女の腕へ手を伸ばした。
「オリヴィア、大丈夫か? 腕……折れてないのか?」
「擦り傷よ」
オリヴィアはさっと身を引き、立ち上がる。
「もう処置は済んだ。あなたに心配される筋合いはない」
事故の瞬間、死ぬかもしれないと思った。腹の子がだめになるかもしれない、とも。
――そのとき、夫はどこにいた?
喉の奥に何かが詰まる。ルカは低く、押し殺した声で言った。
「俺はまだお前の夫だ。事故に遭ったなら、心配して何が悪い」
オリヴィアは氷みたいな目で一瞥した。
自分が病院へ行きたいと言ったとき、ルカは迷いなく拒んだ。家でウェンディに付き添う、と。
それなのに今さら駆けつけて、心配しているふり。
いったい、何のために。
「とにかく、もう帰って」
オリヴィアはルカの脇をすり抜け、出口へ向かう。
ルカは苛立ちに息を荒げ、腕を伸ばして行く手を塞いだ。
「だめだ! 詳しい検査を受けろ。今夜はここに泊まる」
「なんで?」
オリヴィアが眉を寄せる。
「事故の影響がないか確認する必要がある。……お前には、無事にここを出てもらわないと困る」
ルカは彼女をまっすぐ見つめた。青い瞳に、確かな不安が滲んでいる。
オリヴィアは一瞬、言葉を失った。
――本気で心配してる?
大雨の中、ウェンディを置いてまで来た。傷を確かめようとした。
そんなはずがない。あの男は、これまで視線ひとつ惜しんだのに。
オリヴィアは自嘲気味に笑う。
「もう離婚するのよ。私が死のうが生きようが、あなたの管轄じゃない。平気だって言ってる」
押しのけようとした瞬間、手首を掴まれた。ぐっと引き寄せられ、ルカの目の奥に堪えた怒りが揺れる。
「痛い!」
オリヴィアが声を上げると、ルカははっとして手を離した。口調も、ようやく強硬さを落とす。
「言っただろ。来月の一族の集まりは大事だ。早く治せ。事故のことは外に漏らすな。祖父の体調が良くない。余計な心配をさせたくない」
「医師も手配した。検査は受けろ」
胸のどこかで芽生えかけたものが、ぷつりと消えた。
……そういうこと。
祖父が心配するから。叔父たちが嗅ぎつけて、妻を守れなかったと責められるから。だから、異様なくらい「優しい」だけ。
三年間で一度も与えられなかったものが、離婚間際に手に入るはずがない。
オリヴィアは深く息を吸い、感情を押し沈めた。
けれど――詳しい検査だけは受けられない。
妊娠が露見する。
「入院はしない。擦り傷だけよ。家で休めば治る。家族の集まりにも支障は出ない」
強い声で言い切り、ルカの威圧的な視線を真正面から受け止める。
「だから、どいて」
ルカは荒く息を吐き、苛立ちを隠さない。
「……わざと俺に逆らってるのか?」
言いながら、彼の目が細くなる。オリヴィアの拒絶が、ただの意地ではないと気づいた顔だった。
事故の前から顔色が悪かった。病院を嫌がり、今も検査を拒む。
何かを怯え、隠している――そうとしか見えない。
ルカの視線が、暗く沈む。
「オリヴィア。正直に言え。何か隠してるだろ」
オリヴィアの呼吸が詰まった。指先がきゅっと縮こまり、心臓がどくどくと鳴りだす。
……まさか、妊娠を疑って?
答えようとした、そのとき。
病室の扉が開き、ウェンディが心配そうな顔で入ってきた。
「オリヴィア、大丈夫?」
数歩で距離を詰め、今にも泣き出しそうな目をする。
「全部、私のせいよ。私がいたから、ルカがあなたと一緒に病院へ行かなかった。だから……事故なんて……」
「償わせて。私がつきっきりで看病するから」
そう言って、ウェンディは親しげにオリヴィアの腕へ絡みつく。
ぞわり、と吐き気が込み上げる。
本気で悪いと思っているなら、そもそも夫とこんな関係にならない。
オリヴィアの十年の想いを、ウェンディは知っている。あの男がどれほど自分にとって大きいかも、分かっていて――奪っている。
楚々とした顔が視界に入るほど、胃がひっくり返る。
我慢できない。する気もない。
オリヴィアは口を開き、そのまま吐いた。
「きゃあっ!」
ウェンディの悲鳴が裏返る。オリヴィアの吐瀉物が、ウェンディの新しいワンピースにべったりと落ちていた。
ルカが目を見開く。
ウェンディは顔面を引きつらせ、唇を震わせた。
オリヴィアは腕を組み、冷たく言い放つ。
「その状態で私の世話ができるの? まだここにいるつもり?」
ウェンディはふらりと揺れ、今にも倒れそうになる。汚れた感触に耐えきれず、必死で笑みを作った。
「……着替えてくる。家に戻るね」
そしてルカを見上げ、縋るように言う。
「ルカ、送ってくれる?」
オリヴィアは黙って、二人を見つめた。
ルカの胸中はぐちゃぐちゃだったが、ウェンディの服は台無しだ。送る以外に選択肢がない、と自分に言い聞かせる。
――オリヴィアは、平気だと言っている。ひとりで大丈夫だろう。
ウェンディを送る車中でも、ルカの頭から離れないのは、オリヴィアが検査を拒んだときの表情だった。
ウェンディが何か文句を言っても、適当に相槌を打つだけ。
家に着くと、ウェンディが期待を滲ませて尋ねた。
「ルカ、上まで来てくれる?」
「いや。オリヴィアが病院にいる」
ウェンディの顔に一瞬よぎった歪みと嫉妬に、ルカは気づかない。ハンドルを切り返し、そのまま病院へ戻った。
*
病院では、オリヴィアが医師と話していた。ルカがエレベーターから出てきたことにも気づかない。
「先生、詳しい検査は受けたくありません。事故の影響はありませんし、擦り傷だけです」
「ルカに聞かれたら、後遺症もリスクもないって伝えてください。お願いします」
妊娠を知られたくない。
医師は困ったように眉を下げる。
「奥様、念のため検査は……ご主人も奥様を心配なさって」
オリヴィアは心の中で冷笑した。
心配?
違う。雨の夜、愛人に付き添って妻を放置したと知られたくないだけ。叔父たちの目も、祖父の身体も、すべて自分の保身のため。
そして彼は、離婚を成立させてウェンディを迎えるつもりだ。
最初から最後まで、政略で娶った妻など――眼中にない。
さらに言い募ろうとして、ふと顔を上げる。
診察室の入口に、ルカが立っていた。
オリヴィアの背筋が冷たくなる。
いつ戻ってきたの――。
ルカはその場から動けずにいた。
さっきの言葉が、頭の中で反響する。
やはりオリヴィアは何かを隠している。それも、俺に知られたくないほどの――大事な何かを。
