第6章 見られた
オリヴィアは大股で近づいてくるルカを見て、顔から感情を引きはがした。淡く、よそよそしく。
「……どうしてまた戻ってきたの」
ルカは答えない。彼女の主治医へ視線を移す。
「さっき、何を話していた」
鋭い目で医師を射抜き、揺さぶるように続けた。
「傷に何か問題があるのか?」
「い、いいえ」
医師は目を泳がせ、喉を鳴らす。
「奥様は……傷の治りについて注意点を確認された程度です。処置どおり、きちんと薬を替えていただければ……。お顔色も悪くありませんし、入院での経過観察までは不要かと」
オリヴィアは胸の奥で、ほっと息をついた。――助かった。合わせてくれた。
だが次の瞬間。
「不要だと?」
ルカの声が跳ね上がる。不機嫌が、そのまま刃になった。
二人が同時に固まる。
「お前が要らないと言ったら要らないのか」
ルカは容赦なく言い切った。
「交通事故に遭った直後で、嘔吐もしている。総合検査だ。全部やれ」
オリヴィアの眉が寄る。
医師が動かないのを見るや、ルカは低く唸った。
「何をぼさっとしてる。今すぐ手配しろ。オリヴィアは24時間、入院で経過観察だ。指示書を切って、病室を用意しろ」
医師は気圧され、唾を飲み込むと勢いよく頷いた。
「は、はい……! すぐに手配します!」
医師が出ていった途端、オリヴィアは冷えきった目でルカを見た。
「ルカ、頭おかしいの? どうしてあなたが勝手に決めるの。総合検査なんて必要ない」
その冷たさが、胸の奥に刺さる。
さっき医師と話していたときは、あんな顔をしていなかったくせに。
自分にだけ、いつもこうだ。
ルカは苛立ちを隠しもせず、襟元を乱暴に引く。
「俺は法律上、お前の夫だ。離婚が成立するまでは、俺に責任がある」
言い捨てるように続けた。
「それとも祖父に知らせるか。じいさんに余計な心配をさせて、直接出てきてもらうか?」
オリヴィアの息が詰まる。
この家で、彼の祖父だけは――オリヴィアを大事にしてくれた。
だからこそ、来月の一族の集まりにも、彼女は黙って付き合うつもりでいた。祖父を悲しませたくない。
沈黙が落ちる。やがてオリヴィアは小さくため息を吐き、折れた。
看護師に促され、VIP病室へ向かう。
退院許可が出るのは24時間後。それまでは、出たくても出られない。
けれど意外だった。
ルカは手配を終えるとすぐ帰ると思っていたのに、病室に残ったのだ。
テーブルの薬を手に取り、水を注ごうとする。
オリヴィアの全身が拒絶する。彼女は薬をひったくり返した。
「薬くらい自分で飲む。余計なことしないで」
視線を鋭くする。
「ウェンディのところに帰りなさいよ。いい夫ぶっても、白々しいだけ」
ルカの目が氷のように冷たくなる。
「オリヴィア、お前はいつまで俺を無視するつもりだ。いつまで拗ねてる」
「私が、無視?」
オリヴィアは鼻で笑った。怒りを噛み殺しながら、嘲る。
「ウェンディのために私の仕事を奪って、離婚まで迫っておいて。なのに『無視』?」
「ここまでになった原因が誰にあるか……あなた自身が一番わかってるでしょう」
ルカは口を開き――言葉が出なかった。
確かにやりすぎた。自分でもわかっている。
だがオリヴィアは離婚に同意し、補償だってできる限り用意した。なら離婚までの間、平穏に過ごせないのか――。
そのとき、ルカのスマホが鳴った。
画面に表示された名を見た瞬間、彼の表情がわずかにほどける。声まで柔らかくなった。
「ウェンディ、どうした」
切り替わった声音が、オリヴィアの視界を滲ませる。
彼女がずっと、夢見ていた温度だ。
それを彼は、惜しげもなく別の女に向ける。
――しかも、その女の母親は、私の家を壊した。
オリヴィアはきつく目を閉じた。胃の奥がぐらりと波打つ。
ルカは彼女の前で平然と電話を続ける。
「怖がるな。雨はもう止んだ。家にいろ……俺が用事を済ませたら、すぐ行く」
耐えきれない。追い出してやる――そう思った矢先。
病室のドアが、勢いよく開いた。
「ルカ、このクソ野郎!」
飛び込んできたのはエマだった。
オリヴィアの事故を聞いて駆けつけたのだろう。もともとルカに積もり積もったものがある。しかも、当の本人が平然と居座っている。
エマはまっすぐルカへ詰め寄り、指を突きつける。
「どういうつもり!? オリヴィアが具合悪いのに一人で病院に行くような状況にして、挙げ句に事故よ!」
「そのうえ、本人の前であの恥知らずに電話!? 正気じゃない!」
オリヴィアは呆然とその光景を見た。
ルカの顔が沈む。
「俺とオリヴィアの問題だ。お前には関係ない。言葉に気をつけろ」
「関係ない?」
エマは鼻で笑い飛ばした。
「離婚届一枚で赤の他人になるくせに!」
権力だろうが何だろうが、エマは引かない。
彼女はオリヴィアの上着を掴んだ。
「オリヴィア、行こう。ここにいる必要ない。私の家に来て。私が面倒見る!」
「入院で経過観察が必要だ」
ルカが立ちはだかる。
エマは唇を吊り上げた。
「必要なのは、あんたの良心の検査でしょ。オリヴィアがどれだけ尽くしてきたと思ってるの。頭に水でも入った? それでウェンディと――」
そのままオリヴィアの手を引こうとする。
「行かせない」
ルカの怒りに火がついた。反対側の腕を掴む。
左右から引かれ、オリヴィアは苛立ちと気分の悪さで目の前が揺れた。腹を庇いたいのに、手が足りない。
「やめて!」
オリヴィアが声を荒げる。
「私、気分が悪いの……こんなことされたら、耐えられない」
二人の動きが同時に止まった。だが、どちらも手を離さない。
エマはルカを睨みつける。まるで仇でも見る目だ。
「聞こえた? 体調悪いって言ってる。放しなさいよ!」
ルカも譲らない。
「今のこいつは俺の妻だ。友人は引っ込んでろ。お前が放せ」
「あなたが放して!」
「お前が先だ!」
言い争いが再燃する。
ついにルカが低く吐き捨てた。
「女に手を上げたくはない。だが……お前がそうさせる」
ルカがエマの腕を押しのけようとした、その瞬間。
エマは身を捻って避けたが、ベッド脇のキャビネットに置かれていたバッグにぶつかった。
どさっ。
バッグが床に落ち、中身がばらまかれる。
口紅、家の鍵、スマホ――そして、雑に折りたたまれた一枚の紙。
紙は床に落ちた衝撃で、ぱさりと開いた。
三人の視線が、同時にそこへ吸い寄せられる。
氏名欄は何かで隠れている。だが左下に、はっきりと印字された文字。
――妊娠。
一瞬、オリヴィアの呼吸が止まった。
どうして、こんな形で。
心臓が早鐘を打ち、指先が冷える。
ルカも固まっていた。理解が追いつかない顔で、青ざめたオリヴィアを見る。
エマがはっとして拾おうとするが、ルカのほうが速い。
紙を掴み上げ、その目の奥に衝撃が渦巻く。
「オリヴィア……説明しろ」
ルカは彼女から目を逸らさない。ほんのわずかな表情の揺れも逃さないと言わんばかりに。
「これは何だ」
