第1章

ICUの外の廊下は、冷たくて暗かった。

水野美月(みずの みつき)は壁際の隅に身を縮め、指先が白くなるほど凍えている。

ここで三日、ずっと待っている。

義父が不慮の転落事故で運び込まれ、いまだ救命措置の最中。生きるか死ぬか、誰にもわからない。

それなのに。

夫の浅野晴人(あさの はると)は、最初から最後まで一度も姿を見せなかった。

美月はスマホを取り出し、彼の最新のSNSの投稿を指先でなぞる。

豪華客船を一隻丸ごと貸し切り、「大切な人」の帰国を祝うパーティー――。

写真の中は眩いほどの灯り。

彼は隣の女を見下ろし、目元を甘くほどいている。信じられないほど優しい眼差しで。

胸がぎゅっと締めつけられ、いま晴人に電話をかけようとした、その瞬間。

廊下の奥がざわついた。

記者たちが男女の一組を囲み、こちらへ足早に迫ってくる。

背筋の伸びた男。黒いスーツに同色のカシミアコート。眉と目元にいつもの冷たさをたたえ、近寄りがたい――夫の晴人だ。

そして彼の腕に収まる女は、淡いベージュのセットアップ。柔らかな長い髪が肩に落ち、手を引く少女へ優しく言葉を落としている。

「浅野社長! 奥さまと交代で付き添いだなんて、孝行者ですね!」

「浅野の奥さま、気品がすごい……社長とお似合いです!」

「お姫さま可愛い! 三人家族、幸せそのもの!」

称賛の波が押し寄せ、美月の耳を刺した。

若い記者が小声で囁く。

「……あの、病室の前にいた女性は……?」

隣のベテランが声を落としながら、わざと周囲に聞こえるように言う。

「彼女? 三年前に入り込んで奥さんになった人だよ。社長が相手にしてると思う?」

さらに、ナースステーションから漂ってくる、もっとひどい声。

「奪った男なんてさ、ここで一生待ってても見向きもされないよ」

「香織さんが本命でしょ。あの子も愛想いいし」

「昔、社長が事故で死にかけた時に、あの女がつけ込んで香織さんを追い払ったって……」

美月は紙コップを握り締めた。

熱い湯がこぼれ、手の甲が赤くなる。それでも、痛みを感じていないみたいだった。

少し先で、晴人がそっと手を上げ、森下香織(もりした かおり)のこめかみの乱れた髪を払ってやる。

照明が横顔を縁取り、美月が四年も片想いし、結婚して三年――結局、一度も本当に近づけなかった輪郭を浮かび上がらせる。

図書館で何度も盗み見た、あの目。

いまは別の女への慈しみで満たされている。

「……ママ」

服の裾が、ちょこんと引かれた。

美月が見下ろすと、澄んだ瞳がこちらを見上げている。

三歳の浅野晴太(あさの はるた)。いつの間にか病室から出てきて、小さな手で真剣に手話を切った。

『ひいおじいちゃんの指、動いた』

胸が跳ね、医師を呼ぼうとした瞬間、晴人がすでに目の前にいた。

男は美月の腕の中の晴太を一瞥し、眉をきつく寄せる。

「誰が連れて来いと言った」

喉が渇いて声が出ない。

「晴太が……おじいちゃんに会いたいって……」

晴人の声は氷みたいに冷たい。

「口の利けない子を外に出して、恥を晒す気か」

「今すぐ連れて帰れ」

「晴人!」

震えを抑えきれず、美月の声が裏返る。

「この子は、あなたの息子よ!」

「わかってる」

男の目には温度がなかった。

「だからこそ隠せ。浅野家はそんな恥を晒せない」

香織が柔らかく割って入る。

「晴人、子どもにそんな言い方……」

彼女は少女へ身を屈め、囁く。

「陽菜、弟と遊んであげて。気をつけてね。弟は体が弱いから」

森下陽菜(もりした ひな)がぱちぱちと瞬きし、香織の手を離して晴太へ駆けていく。

美月は反射的に息子を背に庇った。

「美月」

晴人の声がさらに低くなる。

「誰を警戒してる?」

美月は唇を開いたが、結局なにも言えなかった。

晴太を抱き上げ、背を向けてエレベーターへ向かう。

あと一秒でもここにいたら、きっと崩れてしまう。

――病院の裏庭。

深秋の明け方は、空っぽで、静まり返っていた。

美月は晴太をベンチに座らせ、手話で訊く。

『お腹すいた? ママ、ミルク買ってくる』

晴太は首を振り、服の裾を掴んだ。

隣に座ると、子どもの長いまつげが静かに伏せられている。胸を鈍器で殴られたように痛んだ。

この子の世界は、あまりにも静かだ。

音が届かず、声が出ず、泣くことさえ――無音。

そして、それは晴人にとって、美月の罪だった。

――妊娠中、何を勝手に口にした?

――薬でも飲んだのか?

――美月、お前はそこまで俺が憎いのか。子どもまで巻き込んで?

毒の針みたいな言葉が、三年ずっと心に刺さっている。

「おし!」

甲高い声が弾けた。

美月が顔を上げると、香織の娘――陽菜がどこからか現れ、晴太に向かって変顔をしている。

「ママが言ってた! あんたはおし! しゃべれないの!」

陽菜は晴太の前に突進し、肩を思いきり押した。

晴太は不意を突かれて倒れ、肘がコンクリに擦れて、すぐに血が滲む。

目を見開き、涙が溜まる。口は開くのに、音にならない。

「陽菜ちゃん!」

美月が駆け寄り、再び近づこうとする陽菜を押しのけ、息子を抱き締めた。

「どうして押すの!?」

「おし! おし!」

腰に手を当て、大人の真似をして舌を出す。

「べー! ざまあみろ!」

「誰がそんなこと教えたの!」美月は全身が震えた。

「ママが言ったもん! ママは、あんたが私のパパを奪ったって!」

陽菜は急に黙り、背後を振り向いた瞬間、顔色を変えて飛びつく。

「パパ! あのオバサン、いじわる!」

美月が振り返ると、晴人が陽菜を抱き上げ、香織が寄り添っていた。

その後ろからは、ハイヒールを鳴らして駆けてきた晴人の妹、浅野薇々浅野薇々(あさの びび)までいる。

「美月」

晴人の声は氷の刃。

「子ども相手に何を騒いでる」

「晴太を押したのは、この子よ!」

美月は血の滲む肘を指差す。

「それにおしって!」

「子どもが何をわかる」

晴人は眉をひそめる。

「晴太が話せないのは事実だろ。陽菜は事実を言っただけだ」

事実――。

その言葉が、柔らかい場所を正確に抉った。

「晴人!」

声が震えて形にならない。

「晴太はあなたの実の息子でしょう!」

「わかってる」

男は淡々と言い放つ。

「だから隠せ。浅野家の面汚しになる」

薇々が嫌悪を隠さず近づいてくる。

「義姉さん、またその……連れて出てきたの? メディアに撮られたらどうするの。浅野家の顔、いる?」

美月は目の前の三人を見た。

冷たい夫。か弱さを装う香織。傲慢な小姑。

――笑ってしまった。

この三年、自分がどれほど馬鹿だったか。

真心を差し出せば、真心が返ると信じたこと。

まだ期待していた自分が、滑稽でならない。

晴太を抱き上げ、美月は一語一語、恐ろしいほど静かに言った。

「晴人。私を愛せなくてもいい。でも実の子まで恥だと言うあなたは、父親失格よ」

背を向けた瞬間、晴太の小さな手が、そっと頬に触れた。

美月が見下ろすと、手話が動く。

『ママ、泣かない』

そのとき初めて、自分の頬が涙で濡れているのに気づいた。

抱き締め、心の中で告げる。

晴太、ママが連れて行く。

今度こそ、もう二度と振り返らない。

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