第2章
ベイサイドヴィラ。
美月は晴太を連れて帰り、寝かしつけた後、親友の小林亜紀(こばやし あき)から送られてきたニュースのリンクを開いた。
目に飛び込んできた見出しが、痛いほど突き刺さる。
『かつての才女・森下香織が電撃復帰。浅野グループ設計部へ正式入社!』
記事には、浅野グループが香織のために設計部署を新設し、二十億もの資金を投じたうえ、傘下の高級ジュエリーブランドを彼女に全権委任すると書かれていた。
添付された写真は調印式での一枚。晴人と香織が肩が触れ合うほど近くに並び、非の打ち所がない笑みを浮かべている。まるで、絵に描いたようなお似合いの二人。
亜紀から音声メッセージが続く。
「美月、ニュース見た? 晴人さん、頭おかしいんじゃないの。昔、香織が会社の機密を持って逃げたこと、全部忘れたわけ?」
「見たよ」
美月は短く返信する。
「それだけ?」
「二十億だよ? 香織に二十億! 昔、あんたのスタジオが一億の投資を必要としてた時、あの人なんて言った? 『デザイン業界はリスクが高すぎる、投資する価値がない』って言ったんだよ? それなのに、元カノにはポンと二十億出すってどういうこと!」
美月は黙り込んだ。
二年前。彼女のスタジオに海外からの大きな案件が舞い込み、機材を揃えるための一億が足りなかった。晴人に、個人名義で出資してほしいと頼みに行った。
当時会議中だった彼は、美月を社長室の外で二時間も待たせた。
ようやく出てきたと思えば、冷たく一言、こう言い放ったのだ。
「現実を見ろ。夢みたいなこと言うな」
結局、その案件は流れ、スタジオも畳むことになった。
彼はデザイン業界の将来性を見限ったのだと、そう思っていた。だが今ならわかる。彼が見下していたのは業界ではなく――美月自身だったのだ。
ニュースのコメント欄は、すでに羨望と称賛の声で溢れかえっていた。
「浅野社長、森下さんを溺愛しすぎ! 二十億を即決とか、トップクラスの御曹司の寵愛はレベルが違う!」
「さすが天才デザイナーの森下さん。帰国早々、浅野グループを掌握しちゃったね!」
「浅野社長の隣に立つべきなのは、やっぱり森下さんしかいない!」
美月は画面をスクロールし、魔が差したように文字を打ち込んだ。
――浅野社長は部外者には二十億も瞬き一つせず出せるんですね。ご自身の奥さまに対しても、それほど太っ腹なのでしょうか
ものの数秒で、彼女の書き込みは容赦ないバッシングに埋もれた。
「表に出られないような女が、森下さんと張り合おうなんて身の程知らずにもほどがある」
画面に並ぶ棘だらけの言葉を見つめながら、美月はただ可笑しくて、そしてひどく冷たい気持ちになった。いっそページを閉じ、スマホを放り投げる。
胸の奥に居座る鈍痛は消えてくれない。深く息を吸い込み、込み上げる酸っぱいものを無理やり押し殺して、書斎のデスクへと向かった。
机の上に広げられているのは、半年間、身を削るようにして描き上げたジュエリーの設計図――『アイリスの瞳』。
浅野グループが海外の千億規模の契約を勝ち取るため、彼女が自身の才覚のすべてを注ぎ込んだ切り札だ。まだ発表すらされていないというのに、業界のコレクターが裏で三百億の値をつけ、予約を申し入れてきている代物だった。
契約が取れたら、晴人を驚かせてやろうと思っていた。私はただあなたの背後に隠れているだけの飾りじゃないのだと、証明したかった。
だが今は、それがひどく滑稽に思えた。
ふいに、玄関で鍵が回る音がした。
酒の匂いを纏った晴人が入ってくる。スーツのジャケットを無造作に腕に掛け、ネクタイは緩められている。そしてその身体からは、微かに女物の香水が漂っていた。香織が愛用しているものと、まったく同じ香り。
彼は顔を上げ、デスクに向かってまだペンを握っている美月を見ると、あからさまに眉をひそめた。その声には、隠そうともしない嫌悪が滲んでいる。
「毎日毎日、そんな役に立たないものを描いてどうするつもりだ」
ペンを動かす手がピタリと止まった。
ゆっくりと顔を上げ、彼を見つめる。その瞳には、もう一欠片の温度もなかった。
晴人は彼女の異変に気づく様子もなく、まっすぐ歩み寄ると、命令を下すように告げた。
「浅野グループの設計部は、今日から香織が引き継ぐ。お前は明日、人事部へ行って異動の手続きをしろ。総務に回れ」
美月は勢いよく立ち上がった。椅子が床を擦り、耳障りな音を立てる。
信じられないという目で目の前の男を見据え、声が震えるのをどうすることもできなかった。
「……何て言ったの? 設計部を香織に譲れって? 私を総務に回す?」
「香織は帰国したばかりで、国内の環境に不慣れなんだ。少しは譲ってやれ」
晴人は、まるで取るに足らない些細なことでも話すように淡々と続ける。
「それに、香織は昔のことをまだ気にしている。設計部でお前の顔を見たくないそうだ。お互い気まずい思いをするだけだろ」
「昔のこと?」
美月はふっと笑った。
「昔の何のこと? 私が彼女を『追い出した』って話? それとも、彼女が会社の機密ファイルを持ち逃げして、あなたを破産寸前に追い込んだこと?」
晴人の顔色が沈む。
「言葉に気をつけろ」
「間違ったこと言ってる?」
美月は一歩前に出て、初めて真正面から彼の視線を射抜いた。
「あの時、私が自分のデザインを差し出して取引先を繋ぎ止めなかったら、浅野グループはとっくに終わってたのよ! それを今さら、彼女が『気にしてる』? どの口がそんなこと言えるの!」
「あのデザインは元々、香織のアイデアだろうが!」
晴人の声が荒げられた。
「お前が彼女の原稿を盗んだんだろう!」
空気が、凍りついた。
美月は彼を見つめた。
まるで、初めてこの男の正体をはっきりと見たような気がした。
三年。時間が経てば、いつか彼も真実に気づいてくれると思っていた。真心を尽くせば、信頼が得られると信じていた。
すべて、ただの笑い話だったのだ。
彼の中で、自分は永遠に泥棒であり、汚い手段で妻の座に収まった女であり、自分の息子すらまともに世話できない失格の母親なのだ。
あまりにも馬鹿馬鹿しくて、涙が一気に込み上げてきた。だが美月は、それを必死に噛み殺した。
――あの時、香織は浅野グループの核心的な設計機密を盗み出し、最重要の提携プランを持ったまま姿を消した。浅野グループは違約金を抱え、倒産寸前まで追い詰められた。
それを救ったのは美月だ。徹夜で自分のオリジナル原稿をすべて引っ張り出し、計り知れない重圧に耐えながら、作品を抱えて取引先の本社へ飛んだ。三日三晩、頭を下げ続けてようやく損失を食い止め、浅野グループの命脈を繋ぎ止めたのだ。
その三日間、彼女は高熱にうなされ、肺が引き裂かれるほど咳き込んでいたというのに、晴人からは労いの一言すら無かった。
そして今、彼は手の届かない高嶺の花のために、いとも簡単に自分を蹴落とそうとしている。用済みと言わんばかりの冷酷さで。
「晴人……あなたには、心がないの?」
極限まで押し殺した怒りと絶望が、その声に滲んでいた。
晴人は顔をしかめ、冷たく言い放つ。
「くだらないことを言うな。俺が決めたことは変わらない。設計部には香織の方が向いている。お前は大人しく総務に回って、晴太の面倒だけ見ていればいい」
その言葉は鋭い刃となって、美月の心臓を容赦なく抉った。彼女の中に残っていた最後の期待も、愛情も、粉々に切り刻まれていく。
目の前に立つ、見慣れているはずなのにひどく見知らぬ男を見つめ、彼女はついに完全に心を閉ざした。深く息を吸い込み、一語一語、はっきりと口にする。
「晴人、私たち――」
『離婚しよう』。
その言葉が喉から出る直前、晴人のポケットでスマホが甲高く鳴り響いた。画面に表示された『香織』の文字が、美月の目をチカチカと刺す。
晴人は慌てて電話に出ると、人が変わったように甘い声を出した。
「どうした、香織? 具合でも悪いのか? すぐに行くよ」
通話を切ると、彼は美月を一瞥することもなく、ジャケットを掴んで足早に外へ向かった。一秒たりとも遅れたくないと言わんばかりの慌てようだった。
玄関の扉が乱暴に閉まり、ヴィラは再び死んだような静寂に包まれる。
美月はただ一人、だだっ広いリビングに立ち尽くし、全身が芯から冷え切っていくのを感じていた。
ゆっくりと目を閉じ、再び開いた時――その瞳に残っていたのは、一点の曇りもない決意だけだった。
踵を返して書斎へ入り、離婚協議書を作成する。財産分与も、慰謝料も求めない。書き込んだ条件はただ一つ。
息子・晴太の親権は、美月が持つこと。
自らの名前を署名し、真っ赤な印を押す。そして、その書類をきっちりと折り畳み、執事の石川に手渡した。
「石川さん、この離婚協議書を晴人に渡してください」
「今日から私は、あの人とは――きっぱり縁を切ります。二度と関わりません」
