第3章
翌朝、美月は晴太に揺すられて目を覚ました。
目を開けると、ベッドの脇に身を乗り出した息子が、きらきらと目を輝かせてこちらを見つめている。
離婚の決意が胸をよぎり、美月はそっと尋ねた。
「晴太。もしパパとママが離れ離れになったら、どっちと一緒にいたい?」
晴太は小さな手を伸ばし、彼女の指をぎゅっと握りしめた。
答えはもう、はっきりと出ていた。
胸の奥がツンとして、同時に温かいものが広がる。美月は晴太を強く抱きしめた。
「うん、ママが連れて行く。冷たい目も、差別もないところへ行こうね」
「ママ、い……っしょ!」
不意に、かすれた声が響いた。
美月は一瞬呆然とし、驚きに目を見開く。
「晴太、今……なんて言ったの?」
晴太は小さな口を開き、一生懸命に音を紡ぎ出した。
「マ……マ」
たどたどしく、不明瞭な発音。それでも、その二文字は美月の感情の堰を瞬時に決壊させ、彼女は声を上げて泣き崩れた。
「マ……マ」
晴太はもう一度呼び、小さな手で彼女の背中をぽんぽんと叩いた。まるで慰めるかのように。
美月は全身を震わせて泣きじゃくり、もう自分を抑えることができなかった。
三年。三年待って、ようやくこの瞬間が訪れたのだ。
彼女はすぐさま山崎教授に電話をかけ、屋敷へ呼び寄せた。
息子が普通に話せるようになる希望があるのか、どうしても確かめたかった。
山崎教授はこの分野において、国内で最も権威ある存在だ。
診察を終えた山崎教授は、冷淡な口調で告げた。
「浅野奥様。以前から申し上げておりますが、晴太くんは先天性の言語障害です。少しでも声が出たのは奇跡に等しい。普通に話せるようになるのは、ほぼ不可能です」
「でも、ママって呼んでくれたんです!」
美月は食い下がる。
「少しずつ進歩しているってことですよね!」
「ただの偶然ですよ」
山崎教授は苛立ったように手を振った。
「現実を受け入れることをお勧めします。これ以上、時間と金を無駄になさるな。手話を学ばせ、将来は特別支援学校に通わせる。それが正道というものです」
美月は立ち上がり、冷ややかな視線を教授に向けた。
「つまり先生のところでは、私の息子は一生口をきく機会がない、ということですね」
「そういう意味では……ですが、現実とはそういうもので――」
「現実は、山崎教授がいくら権威であっても、私の息子の治し方をご存じないということです」
美月は晴太を抱き上げた。
「ですから、医師は替えます。もうお気遣いは結構です」
「替える?」
山崎教授は鼻で笑った。
「国内のこの分野で、私より上の人間などおりませんよ。浅野奥様、無駄な足掻きはおやめなさい」
「それに、私の腕が信じられないと仰るなら、どうぞ他を当たられればいい。ですがね、お子さんの最適な治療期を逃してから後悔しても、もう手遅れですよ!」
そう言い捨てて、山崎教授は足早に去っていった。
美月は引き留めもしなかった。
十分後。急いで戻ってきた晴人が、部屋のドアを乱暴に蹴り開けた。
そして冷酷な声で問い詰める。
「美月! 山崎教授から電話があった。騒ぎを起こしたそうだな。一体何がしたい!」
「何がしたい、ですって?」
美月は彼を真っ直ぐに見据えた。
「私は、本気で息子を治そうとしてくれるお医者様を探したいだけ。皮肉を言って金を取るだけのヤブ医者じゃなくてね!」
「山崎教授は香織が推薦してくれた専門家だぞ。ヤブなわけがないだろう!」
晴人は声を荒らげる。
「お前がわざと難癖をつけているだけだ! 晴太の病状はもう決まっているんだ、現実を受け入れられないのか! 今すぐ山崎教授に電話して謝罪しろ。そしてもう一度診てもらうんだ!」
美月は一語一語、はっきりと告げた。
「晴太は私の息子よ! 一縷の望みでもあるなら、私は絶対に諦めない。あんなヤブ医者に謝ったりしないし、二度と晴太を診せたりもしないわ!」
彼女の揺るぎない瞳を前にして、晴人は一瞬だけ言葉を呑んだ。
この女は、自分の記憶にある従順で耐え忍ぶだけの妻とは、どこか違っている。
だが、彼はすぐにその違和感を押し殺し、冷ややかに睨みつけた。
「勝手にしろ! だが、浅野家からはもう一銭も出さないからな。お前の無駄な悪足掻きに使う金などない!」
美月はふっと笑みをこぼした。
「ご心配なく。これからは、浅野家のお金なんて一円たりとも使わないから」
彼女は晴太を抱いたまま背を向け、部屋を出た。これ以上、あんなヤブ医者に息子の時間を奪われるわけにはいかない。
部屋に取り残された晴人は、なぜか得体の知れない苛立ちを覚えていた。
屋敷を出ると、美月はスマホを取り出し、何ヶ月もかけてようやく手に入れた連絡先を開いた。
深呼吸をして、国際電話をかける。
相手はアメリカのトップクラスの小児発達センターに所属する、言語障害を専門とする医師だ。先天性言語障害に関する最新の研究成果を発表したこともある。
電話が繋がり、彼女は英語で簡潔に晴太の症状を説明した。
相手は辛抱強く耳を傾け、近々日本での学会交流があるため、一度直接診察の時間を設けられると言ってくれた。
通話を終えたとき、彼女の手は微かに震えていた。
美月は腕の中の晴太を見下ろす。
子どもは静かに彼女の服のボタンを弄っており、周りのことなど何も気にしていないかのようだ。
けれど、彼女にはわかっている。この子は聞いているのだ。
ずっと、全部聞いている。
「ねえ、晴太。新しいお医者さんに会いに行こうね」
美月は優しく語りかけた。
「今度は、ママが絶対に悲しい思いなんてさせないから」
晴太は顔を上げ、彼女を見つめると、不意にまたあのかすれた声を出した。
「マ……マ」
美月の目から再び涙がこぼれ落ちる。だが今度は、微笑みを浮かべていた。
希望がある。
息子に、ようやく希望の光が差したのだ。
そして、彼女を三年間も閉じ込めていたこの牢獄からも――いよいよ抜け出す時だ。
彼女はスマホを取り出し、晴人にメッセージを送信した。
『離婚協議書には署名しましたか? まだなら早めにお願いします。なお、晴太は明日、新しい医師の診察を受けます。費用は私がすべて負担しますので、浅野社長のお手を煩わせることはありません』
送信完了。
三日が過ぎた。
協議書に署名はなく、返信すらこない。
美月は小さくため息をついた。
晴人が署名しようとしまいと、彼女はもう二度とあの家には戻らない。
これからの道のりが、どれほど険しいものになるか分かってはいても。
