第4章

親友の亜紀に電話で晴人との離婚を切り出したと伝えると、受話器の向こうで彼女は歓声を上げた。

「えっ?!」

「美月、やっと目が覚めたのね! あのクソ男とついに離婚する気になったんだ!」

美月が苦笑混じりに肯定し、さらに今日、息子の晴太が突然言葉を発したことを打ち明ける。

「それ、すごいことじゃない! あのクズから離れれば、晴太の症状にもいい影響があるかもしれないわよ!」

亜紀は興奮を抑えきれない様子で、さらに言葉を継いだ。

「そうだ、天才音楽家・一ノ瀬和也のコンサートチケットが二枚あるの。プラチナチケットなんだから!」

「この三年間、あんたも疲れ切ってるでしょ。週末、子どもと一緒に息抜きしてきなよ!」

……

週末。

美月は親友からもらったチケットを握りしめ、劇場の前に立っていた。

ただのクラシックコンサートだと思っていたが、「プラチナチケット」という言葉の意味を、目の前の光景が嫌というほど物語っている――。

晴太を連れて到着したときには、すでにエントランスから長蛇の列が伸びていた。

集まった観客たちは皆、上品で洗練された装いをしており、子ども連れの姿もちらほらと見える。

ふと、周囲のざわめきが耳に飛び込んできた。

「やっと伝説の天才音楽家、一ノ瀬和也に会える! 半年がかりでようやくチケット取れたんだから!」

「一ノ瀬グループの御曹司なんでしょ? あの超有名な!」

「才能があるだけじゃなくて、ルックスも最高で家柄もいいなんて。今日こそ本物がお目にかかれるわ!」

一ノ瀬和也(いちのせ かずや)。

その名前なら、美月も聞いたことがあった。

クラシック界で名を馳せる若き天才指揮者。華麗な一族の出身でありながら、極度の潔癖症で冷徹な性格の持ち主。メディアの取材は一切受けないという噂だ。

視線を落とすと、晴太が劇場の外壁に掲げられた巨大なポスターをじっと見上げている。

美月はしゃがみ込み、手話で尋ねた。

『好き?』

晴太はこくりと頷く。

ポスターの指揮者の真似をして、小さな両手を宙で二度ほど振ったあと、恥ずかしそうに引っ込めた。

胸の奥がふわりと温かくなり、美月はその額にそっとキスを落とした。

そして、晴太の手を引いてゲートをくぐる。

親友が譲ってくれた席は、舞台を一望できる素晴らしい位置だった。

やがて客席の照明が落ちる。オーケストラの団員たちはすでに配置につき、指揮台だけが主を待っている。

そこへ、舞台袖から一人の男が姿を現した。

まだ若い。無駄のないしなやかな長身を、仕立てのいい黒のスーツに包んでいる。息を呑むほど整った顔立ちの彼が、優雅な足取りで指揮台へ上がった。

定位置につき、タクトを振り上げる。

水を打ったように、場内が静まり返った。

最初の音が響き渡った瞬間、隣に座る晴太の小さな肩が、びくっと震えた。

美月はハッとして息子を見る。

晴太は背筋をピンと伸ばし、両手を膝の上に行儀よく揃えながら、舞台上の指揮者の動きを食い入るように見つめていた。

美月は息を呑む。

この子は、生まれたときから音のない世界を生きている。医師からは聴力が健常者の半分以下で、一生言葉でコミュニケーションを取るのは難しいかもしれないと宣告されていた。

それなのに今、小さな身体が音楽のうねりに合わせて揺れている。

――聴こえているんだ。

そして、美月は息子の小さな手が持ち上がるのを見た。

まるで何かに導かれるように、無意識のうちに。

華奢な指先が宙に弧を描き、正確に拍子を刻む。一度、二度、三度。

指揮をしているのだ。

舞台上の男の動きをなぞるように、小さな両手が宙を舞う。

たどたどしいけれど、リズムは寸分違わない。

美月の視界が、一瞬で涙に滲んだ。

晴太に……ちゃんと聴こえている……。

舞台上。タクトを振る和也の動きが、ふと止まりかけた。

腕の軌道は一切崩さず、ただ視線だけをスコアから上げ、オーケストラ越しに客席の三列目へと向ける。

そこには、一生懸命に腕を振る小さな影があった。

和也は三秒ほどそれを見つめる。

やがて視線を戻し、指揮を続けながら――その口角が、ほんのわずかに持ち上がった。

舞台袖に控えていたアシスタントは、自分の目を疑った。

和也様、今……笑った?

だが、すぐに首を振ってその考えを打ち消す。

ありえない、絶対にありえない。

五年間ずっと彼に仕えてきたが、あの方が笑ったところなど一度たりとも見たことがないのだから。

演奏が終わり、割れんばかりの拍手が巻き起こる。

晴太は深い没入から覚めたように、きょとんと瞬きをした。美月を見上げ、ふいに顔を真っ赤にする。

照れくさそうに首をすくめ、両手を背中の後ろに隠してしまった。

美月はたまらず息子を抱き寄せ、その頬に思いきりキスをする。

声をかけようとしたその時、隣から幼い声が飛んできた。

「きみ、さっきすごかったね!」

通路側に立つピンク色のフリルワンピースを着た女の子が、目をきらきらさせて晴太を見ている。

「指揮できるんでしょ? お手てが動いてるの、見えちゃった。ステージの男の人とそっくりだったよ!」

晴太は美月の胸に顔を埋めながらも、気になってちらちらと女の子を見つめる。

「わたしはハナ。きみのお名前は?」

晴太は母親にしがみついたまま、声を出せない。

美月は胸を締めつけられ、説明しようと口を開きかけた。だが、女の子は全く気にする素振りもなく言葉を続ける。

「もしかして、お話しできないの? だいじょうぶ、わたしの弟もお話しできないから。でも、お耳は聴こえる?」

晴太は少し躊躇ってから、こくりと頷いた。

「よかった!」

ハナは満面の笑みを浮かべる。

「じゃあ、お友だちになろうよ! つぎのコンサートも一緒に聴こう?」

晴太はハナを見て、それから美月を見上げた。

美月は目頭を熱くしながら、息子の背中をそっと押す。

晴太は腕の中から抜け出し、ハナの前に立って、しっかりと頷いた。

すると、周囲にいた子どもたちもわらわらと集まってきて、「お名前は?」「何歳?」と口々に尋ねてくる。

晴太は声が出せない代わりに、一生懸命手振りで伝えようとした。焦ってくると美月の服を引っ張り、通訳をねだる。

美月は子どもたちの言葉を訳しながら、今にもこぼれ落ちそうな涙を必死に堪えていた。同年代の子どもがこんなふうに晴太へ歩み寄ってくれたのは初めてだ。話せないことを誰も気にしないでいてくれるのも、初めてだった。

子どもたちの輪の真ん中で、今まで見たこともないような無邪気な笑顔を見せる息子。

美月の胸に、確かな希望の光が灯る。

晴太は指揮が好きなんだ。

音楽が、好きなんだ!

コンサートがはね、人波が少しずつ引いていく中、美月も晴太の手を引いてゆっくりと出口へ向かった。

劇場の通用口を通りかかったとき、晴太がふと足を止め、床に落ちている細縁の眼鏡を指差して美月の服を引く。

ゴールドフレームの眼鏡。レンズには曇り一つなく、一目で高級品だとわかる代物だ。

「晴太、えらいね」

美月はしゃがみ込み、息子の頬にキスをした。

「誰かが落としちゃったんだね。係の人に届けてあげようか?」

だが、晴太は首を横に振る。自分で眼鏡を拾い上げると、通用口の奥を指差した。

美月がその指の先を追うと、半開きの重い扉の隙間から、温かみのあるオレンジ色の光が漏れている。

あそこは、楽屋口だ。

「晴太、勝手に入っちゃダメ……」

言い終わる前に、晴太は短い足でとてとてと駆け出していた。

美月が慌てて追いかけると、息子は扉の前で立ち止まり、小さな手で枠を掴んで中を覗き込んでいる。

追いついて抱き上げようとした瞬間、中から冷ややかな男の声が響いた。

「何か用?」

扉の奥に立っていたのは、先ほどまで舞台にいた指揮者その人だった。

和也はすでにジャケットを脱ぎ、白シャツ一枚になっている。袖口は無造作に腕まくりされていた。

手にしたタクトを布で拭いながら、物音に気づいて顔を上げる。

その視線が、晴太の姿を捉えてぴたりと止まった。

美月は血の気が引き、慌てて晴太を抱き寄せようとする。

「申し訳ありません! 子どもが勝手に……」

「これ」

晴太がふいに、手にしていた眼鏡を和也に向かって差し出した。

和也は眼鏡を見下ろし、それから晴太へ視線を移す。

美月の心臓が跳ね上がった。

世間で囁かれている、音楽家・一ノ瀬和也の噂が頭をよぎる。

極度の潔癖症。冷酷。他人に触れられることをひどく嫌う。

――そして何より、子どもが大嫌い。

謝罪の言葉を絞り出そうとした美月の目の前で、和也が静かに身を屈めた。

小動物を怯えさせないようにするような、ひどく柔らかな動作。そっと手を伸ばして眼鏡を受け取ると、もう片方の手で、晴太の頭をぽんぽんと撫でたのだ。

「ありがとう」

声のトーンは相変わらず冷ややかだったが、なぜか、先ほどのような人を寄せ付けない響きは消えていた。

晴太は彼を見上げ、目をきらきらさせて、にこっと無邪気に笑う。

美月は呆然と立ち尽くした。

数歩離れた場所でその光景を目撃したアシスタントは、文字通り石のように固まっていた。

和也様は極度の潔癖症だ!

他人に触れることなど絶対にない! ましてや、大嫌いな子どもに触れるなんて!

なのに今……あの子の頭を、撫でた?

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