第5章
我が目を疑い、思わず目をこすってそれが幻覚ではないと気づいた後、彼は心の中で快哉を叫んだ。
和也様が他人と親しくするなんて、これは喜ばしいことだ!
そこで美月が晴太を連れて別れを告げ、その場を離れると、彼はこっそり後を追い、劇場の入り口で二人を呼び止めた。
「そこの奥さま、少々お待ちください!」
「次はいついらっしゃいますか?」
美月と晴太は揃ってきょとんとした。
アシスタントは分厚いチケットの束を取り出し、美月に差し出した。
「あ、これは来月の音楽会のチケットです。親子向けの特別公演でして」
「一ノ瀬先生が自ら指揮を執られます。どうかお受け取りください……」
両手いっぱいにチケットを押し付けられ、美月は戸惑った。
「こんなにたくさん……」
ずっしりとした厚みのある束だった。
「ぜひお持ち帰りください!」
「お時間がある時に、いつでもお子さんを連れていらしてください。和也様は普段とても無口な方ですが、今日は特別ご機嫌でした。本当にあなたのお子さんを気に入られたんです!」
「このチケットをお渡しするのも、ご本人の意向でして!」
アシスタントの態度は真剣そのもので、どうしても受け取らせようとしている。
美月はうつむき、目をきらきらさせている晴太を見て、心を揺さぶられた。
もしかすると。
晴太をたくさん音楽会に連れて行けば、少しでも早く良くなるかもしれない。
和也のアシスタントが立ち去ってから、美月はようやく我に返った。
胸に抱えた分厚いチケットの束を握りしめる。一枚一枚に施された箔押しのロゴが、街灯の光を受けて輝いていた。
その中のいくつかには見覚えがあった。亜紀のSNSに載っていたもので、彼女が「一生に一度でいいから行きたい」と熱望していたシリーズだ。
それが今、あの天才音楽家本人の手によって、いともあっさりと彼女の腕の中に押し込まれている。
『ママ』
晴太が服の裾を引っ張り、小さな手で一生懸命に手話を切った。
『あのね、さっきのおじちゃん、かっこいい。パパよりかっこいい』
美月は一瞬ぽかんとした後、たまらず吹き出した。しゃがみ込み、息子の顔を真剣に見つめる。
「晴太、そんなこと言っちゃ駄目よ」
晴太は小首を傾げた。どうして、と問うように。
美月は少し考えてから、優しく囁いた。
「だって、晴人なんか比べる価値もないもの」
そう言って、自分から笑ってしまった。
そう、晴人と和也を比べるなんて、確かにおこがましい。
一方は出会ったばかりの赤の他人なのに、わざわざ身を屈めて息子の頭を撫で、一年分の音楽会のチケットを贈ってくれた。
もう一方は実の父親なのに、この子をまともに見ようとすらしない。
美月は自嘲気味に微笑み、晴太を連れて帰ろうとした。
その時、不意にスマホが鳴った。
画面に表示された文字は――晴人。
美月はそれを見て、一瞬だけ呆然とした。
彼から自発的に電話がかかってくるなんて、いつ以来だろう。
通話ボタンを押す。
「どこに行ってる」
スピーカー越しに聞こえてきた晴人の声には、明らかな苛立ちが混じっていた。
「こんな夜遅くに家を空けて、子どもを連れてどこをほっつき歩いてるんだ」
美月の足が止まった。
ほっつき歩く?
うつむいて晴太を見ると、小さな彼は顔を上げ、心配そうな瞳でこちらを見つめていた。
彼女は深く息を吸い込み、淡々とした声で返した。
「何か用?」
「明日、会社に来い」
晴人は一方的に命令した。
「前のデザイン画に問題が出た。クライアントが納得してない。お前が来て処理しろ」
美月の目が冷たくなる。
「時間がないわ」
「時間がないだと?」
晴人の声が急に跳ね上がった。
「一日中家で暇にしてるくせに、何が時間がないだ。明日の午前九時だ、遅れるな」
電話が切れた。
暗くなった画面を見つめ、美月はふっと笑った。
一日中家で暇にしている?
病院で三日三晩付き添い、夜明けまで徹夜で図面を引き、一人で子どもを連れて病院を駆け回った日々が、彼から見れば「暇」なのだろうか。
美月は深く息を吐き、もう考えるのをやめた。
どうせ離婚するのだ。好きに言わせておけばいい。
タクシーを拾い、晴太を連れて帰路についた。
家に着いたのは夜の九時。晴太はすでに彼女の腕の中で眠りに落ちていた。
ただ、美月にとって予想外だったのは、晴人がリビングで彼女の帰りを待っていたことだ。
彼女が二階へ上がろうとした時、男の冷たい声が響いた。
「止まれ」
「電話で言った件、明日は絶対に会社に来て処理しろよ!」
美月は心が冷え切るのを感じ、断ろうとしたが、腕の中の子どもを起こしてしまうのを恐れ、冷たく「ええ」とだけ返し、振り返ることなく階段を上っていった。
冷たいソファに、晴人だけが一人取り残された。
翌日。
浅野グループ本社。
エレベーターでデザイン部のフロアへ直行する。
扉が開いた瞬間、美月の目に香織の姿が飛び込んできた。
香織はデザイン部の一番奥にある個室に座っていた。そこはかつて、美月が使っていた席だ。
美月は歩み寄る。
香織は美月を見た瞬間、その瞳に一瞬だけ毒々しい光を宿したが、すぐに上品な笑みを浮かべた。
「美月さん、いらっしゃい。さあ、入って」
「ハルトに言われて来たんでしょう?」
彼女は微笑み、気だるげにデスクの縁に寄りかかった。
「実はたいしたことじゃないの。あなたが前に担当したデザイン画なんだけど、クライアントからいくつか細かいところに不満があるってフィードバックが来てね」
美月は冷ややかな視線を向けた。
「どのデザイン画?」
香織は机の上からファイルを一冊手に取り、差し出した。
美月はそれを受け取って開き、少し目を通すと、微かに眉をひそめた。
これは三ヶ月前に彼女が手がけたコンセプトデザインだ。クライアントはとっくに確認書にサインしている。
さらにページをめくり、クライアントのフィードバックのページを見た瞬間、すべてを悟った。
不満などというのは建前で、単なる嫌がらせに過ぎない。
ファイルを閉じ、香織を見る。
香織は無邪気な笑みを浮かべた。
「どうしたの?」
「このフィードバック、あなたが自分で書いたものでしょう」
美月は言った。
香織は一瞬虚を突かれたが、すぐに笑い飛ばした。
「美月さん、何を言ってるの? これはクライアントの意見よ」
「クライアントはこんな馬鹿げた意見を出さないわ」
美月は冷たく遮った。
香織の笑顔が一瞬引きつる。
美月は鼻で笑い、言葉を継いだ。
「それに、このクライアントとは直接やり取りしたことがあるから、彼らの好みはよく分かってる。こんな修正案、彼らの美意識に全く合わない」
「だから、あなた以外に誰がこんな修正をするっていうの?」
香織は数秒沈黙した後、急にか弱い表情を作った。
「あ、私が間違えちゃったのかも。きっと何かの誤解ね。じゃあ、今回はなかったことに……」
「まさか、私を責めたりしないわよね……」
香織はまさか一瞬で美月に見破られるとは思っていなかった。もし本当に晴人の耳に入れば、言い訳が立たなくなる。
だからこそ、弱みを見せて誤魔化そうとしたのだ。
「香織」
美月は呆れてため息をつきたくなった。
「私の前でお芝居なんてしなくていいわ」
香織が反応するより早く、美月はそのファイルを手に取り、デスクへ乱暴に投げ返した。
「森下デザイナーに忠告しておくわ」
「あなたのその席、私が三年間座っていたの。その三年間で、私は浅野グループのために六つの国際的な大型案件を獲得し、デザインで四つの賞を取った。そこに座る前に、自分に何ができるかよく考えた方がいいわよ!」
香織の顔が怒りで引きつった。
だが美月はもう彼女を見ることはなく、ドアを押して部屋を出た。
今日ここへ来たのは、昨夜晴人の要求を呑んだからというだけでなく、もう一つ別の目的があったからだ――。
辞職するためだ。
浅野グループと完全に縁を切るために!
香織を一蹴した後、美月は人事部へ向かった。
そして、最後の退職手続きを済ませた。
書類に一つ一つサインをしていく。これで、彼女と浅野グループとの間に残っていた最後の繋がりも、完全に断ち切られたのだ!
きっと晴人もこの知らせを聞けば、さぞかし驚き喜ぶことだろう。
