第6章
退職の手続きを終えた美月は、肩の荷が下りたように晴れやかな気分だった。
彼女は浅野グループのビルの一階にあるカフェで、窓際の席に腰を下ろす。
不意に、スマートフォンが震えた。
以前取引のあった企業の責任者からだ。
「水野さん、いったいどういうことですか?」電話に出るなり、相手は惜しむような声を上げた。「デザイナーが交代するなんて」
「一身上の都合で、すでに浅野グループを退職したんです」美月は軽く笑い、詳しい事情は伏せた。「佐藤社長、何かご用でしたか?」
「退職されたんですか?」
佐藤社長はなぜか興奮した様子で、そのままスカウトの言葉を口にした。
「美月さん、うちの会社に来る気はありませんか? 待遇はいくらでも相談に乗りますよ!」
退職してくれたなら好都合だ!
そもそも美月がいなければ、彼が浅野グループと組むことなどなかった。
彼が浅野グループを取引先に選んだのは、ひとえに美月という天才デザイナーの存在があったからなのだ!
もし彼女が自社に来てくれるなら、もはや浅野グループと付き合う必要などない。
その言葉に美月は一瞬驚いたが、丁寧な口調で辞退した。
「佐藤社長、お気遣いいただきありがとうございます」
「ですが、今は子どものそばにいてやりたいので、当面は考えていないんです」
「わかりました。それならまた機会があればぜひ。もし気が変わったら、いつでも連絡してくださいね!」
通話を切り、美月はコーヒーを一口飲んだ。
晴太としっかり向き合う。
あの子が普通に話せるようにする。
それが今、彼女の唯一の望みだった。
「あれ? 美月さん、どうしてここに?」不意に前から女性の声がした。顔を上げると、ポニーテールの若い女性がコーヒーを手に近づいてくる。以前のデザイン部の同僚、周防だった。
「周防さん?」美月は微笑んだ。「どうして下に?」
「ちょっと息抜きですよ」周防は向かいの席に座ると、声を潜めて愚痴をこぼし始めた。「上の森下さん、ご存知ないでしょうけど、来て数日で部署を引っ掻き回してて、もう大変なんですから」
「今日はここを直せ、明日はあそこを直せって。直したら直したで違うって言って、また元に戻させるんです。みんな発狂寸前ですよ」
「実力があるならまだしも……」周防はふと左右を窺い、最後にひそひそと毒づいた。「肝心の仕事が全然ダメなんですよ。もう最悪!」
周防が言っているのは香織のことだ。
美月は思わず吹き出し、彼女を慰めるように言った。「気にしないことよ」
「あなたたちは、自分のやるべき仕事をしっかりこなせばいいの」
「はい! 美月さんの言う通りにします!」
美月は彼女の様子に笑みをこぼした。「あなたたちったら……」
「本当のことですよ」周防は唇を尖らせた。「あの人のレベルなんて、浅野社長を騙せるくらいです。同業者なら、誰がどれくらいの腕かなんて一目瞭然じゃないですか」
周防が言い終えた直後、甲高い女の声が割って入った。「あら、誰かと思えば。真っ昼間から陰口を叩いてるなんて、あなただったのね……」
美月が振り向くと、ハイヒールを鳴らして一人の女が歩いてくるのが見えた。
全身をブランド品で固め、整った顔立ちには隠そうともしない嫌悪感が浮かんでいる。
美月は眉をひそめた。
現れたのは薇々だ。
「そうでしょう、美月?」
薇々はふんぞり返るように歩み寄り、たっぷりと皮肉を込めて言った。
「ああ、違うわね。もうすぐ『浅野』じゃなくなるんだったわ。お兄ちゃんが香織さんを呼び戻したんだから、あなたが陰で悪口を言いたくなるのも無理ないわね……」
周防は顔色を変え、気まずそうに美月を見た。
美月はコーヒーカップを置き、淡々とした口調で返した。「何か用?」
「ここはお兄ちゃんの会社よ。用がなきゃ来ちゃいけないの?」薇々は冷笑した。「ただ通りかかっただけだけど、まさかここで香織さんの悪口を聞くとは思わなかったわ」
美月は静かに彼女を見つめた。
何も言わない。
その沈黙を見て、薇々はさらに調子づいた。
「お兄ちゃんがどうしてあなたを捨てたか知ってる? あなたが香織さんに敵わないからよ。香織さんは優しくて善良だけど、あなたは? ただベッドに潜り込んでのし上がっただけじゃない!」
「あなたさえいなければ、香織さんはとっくに浅野家に嫁いでたのよ!」
「今、彼女が戻ってきたんだから、あなたはおとなしく身を引くべきね!」
言い捨てると、彼女は挑発するように美月を睨みつけた。
これだけ侮辱してやったのだから、美月が屈辱に顔を歪めるのを見たかったのだ。
ところが、いくら待っても予想していたような惨めな顔は見られず、代わりに鼻で笑う声が聞こえてきた。
薇々は呆気にとられた。「何がおかしいのよ?」
「あなたが可笑しくて」美月は美しい瞳を巡らせ、ゆっくりと口を開いた。「香織さんって本当にすごいわね。男女問わず手玉に取るんだから」
薇々は意味がわからず眉を寄せた。「どういう意味よ?」
「つまり……」
美月は彼女を見据え、一言一言はっきりと告げた。
「男の取り巻きだけじゃなくて、女の取り巻きまでいるってこと。薇々、あなたが部外者にそこまで媚びへつらってること、お兄さんは知ってるの?」
ぷっ、と吹き出す音がした。
周囲の席の客たちが一斉にこちらに視線を向け、何人かが堪えきれずに笑い声を漏らしたのだ。
薇々は顔を真っ赤にして怒鳴った。「あんたね!」
「私が何?」美月は立ち上がった。薇々より頭半分ほど背が高く、彼女を見下ろす形になる。「私の言ったこと、間違ってる? お兄さんが誰を愛そうと彼の勝手でしょう。妹のあなたがわざわざ首を突っ込んでくることじゃないわ。香織さんに何か見返りでももらったの?」
「黙りなさいよ!」薇々は怒りで全身を震わせ、手を振り上げて平手打ちを食らわそうとした。
美月は彼女の手首をガシッと掴み、そのまま勢いを利用して突き飛ばした。
「きゃあっ――」
薇々はよろめいて後退し、ハイヒールがぐらついて、そのまま床に尻餅をついた。
彼女は無様な姿で美月を指差し、金切り声を上げた。
「この恥知らず! よくも突き飛ばしたわね!」
「突き飛ばして何が悪いの?」美月は彼女を見下ろし、声を冷たくした。「この数年間、私があなたにどう接してきたか、自分でもわかってるはずよ。あなたがしでかした厄介事、毎回誰が尻拭いしてあげたと思ってるの?」
薇々の顔が引きつった。
「クズ男にお金も感情も騙し取られた時、誰が解決してあげた? あなたのデザインがボツになった時、誰が手直ししてあげた?」美月は言葉を区切って畳み掛けた。「そういうこと、香織さんが一度でもやってくれた?」
「あんた……っ!」
「美月、今に見てなさい! 次は絶対にただじゃおかないから!」
自分に非があることを自覚しているのか、薇々は美月を指差したまま、いつまで経っても反論の言葉を紡げなかった。最後は無様に床から這い上がり、地団駄を踏んで怒りながら立ち去っていった。
同じ頃、浅野グループのデザイン部。
香織が優雅にハーブティーを飲んでいると、不意にスマートフォンが鳴った。
「森下デザイナー、大変です!」アシスタントの声はひどく慌てふためいていた。「高橋社長の案件がキャンセルされました! 佐藤社長の案件もです! 浅野グループとの取引を打ち切ると言っています!」
香織の手が震え、お茶がスカートにこぼれた。
「何ですって?」彼女は勢いよく立ち上がった。「どういうこと?」
「それが……デザインの方向性に不満があるとかで」アシスタントの声は次第に小さくなっていった。「それに、以前取引していたのは水野デザイナーの腕を信頼していたからで、担当者が代わった今、安心して任せられないと……」
香織の顔から血の気が引いた。
次から次へと電話がかかってくるが、どれも契約解除の知らせばかり。彼女が苦心して手に入れようとしていたクライアントたちが、次々と離れていく。
彼女はスマートフォンを握りしめ、爪が手のひらに食い込むほど力を込めた。
美月。
絶対に美月の仕業だ!
彼女は深呼吸をして、晴人に電話をかけた。
「ハルト……」口を開くなり、その声は泣きそうに震えていた。
「どうした?」晴人の声に緊張が走る。
香織はむせび泣きながら訴えた。
「たくさんのクライアントが、突然うちの会社と契約を打ち切るって……みんな、美月さんが原因だって言うの……」
「ハルト、私、何か間違ったことしちゃったのかな? やっぱり、デザイン部は美月さんに返した方がいいかもしれない。あなたを困らせたくないの……」
