第7章

電話の向こうで数秒の沈黙が落ち、やがて晴人が口を開いた。

「わかった。この件は俺がなんとかする」

「それに、設計部は君のものだ。返すも返さないもない」

そう言い残して通話が切れる。香織はスマホを下ろし、口元に得意げな笑みを浮かべた。

美月、自分が勝ったとでも思ってるの?

見てなさい。

ハルトが私の味方でいる限り、あんたに勝ち目なんてないんだから!

……

美月はコーヒーを飲み終えると、すぐに帰宅した。

晴太は家で一人留守番をしている。出かける前、帰ったら一緒に遊ぶと約束していた。遊びながら、少しでも聴覚を刺激してやりたいという思いもあった。

「晴太、その赤い積み木をママにちょうだい!」

晴太は『赤い』という言葉を理解したのか、山積みの積み木の中から赤いものを見つけ出し、手渡してくれた。

美月はそれを受け取ると、彼を抱き上げて頬にキスをした。

「晴太、えらいね!」

晴太は照れくさそうに腕の中に縮こまり、その瞳をきらきらと輝かせた。

バンッ!

邸宅のドアが乱暴に開け放たれ、壁にぶつかって鼓膜を震わせるほどの轟音が響いた。

美月と晴太は同時に肩を跳ねさせ、晴太の手からおもちゃが床に転がり落ちる――。

二人は弾かれたように玄関へ視線を向けた。

そこには、今にも氷点下に凍りつきそうなほど険しい顔つきの晴人が立っていた。

彼は大股で歩み寄り、床に作りかけられていた積み木の城を一瞥するなり、容赦なく蹴り飛ばした。

城は音を立てて崩れ落ち、積み木が四方八方に散らばる。

晴太は散乱した積み木を呆然と見つめ、小さな口を開けたまま、その瞳にみるみると涙を溜めていった。

なぜパパがこんなことをするのか、彼には理解できなかった。

美月もまた、心臓を鷲掴みにされたような痛みを覚えた。深く息を吸い込み、しゃがみ込んで晴太の小さな肩をそっと抱く。

そして、ゆっくりと手話を切った。

『晴太、あとでママともう一回作ろうね。次はもっと頑丈なのを。そうしたら、パパにも壊せないから』

晴太は彼女を見つめ、ぽろぽろと涙をこぼしながら頷いた。

美月は彼を抱き上げ、傍らにいたベビーシッターの坂上に託した。

「プレイルームへ連れて行って。ドアはしっかり閉めておいて」

坂上は慌てて晴太を抱きかかえ、その場を離れた。

ドアが閉まった瞬間、美月は立ち上がり、晴人へと向き直る。

何も言わず、ただ彼を見据えた。

その視線はあまりにも冷たく、晴人でさえ一瞬怯むほどだった。

だが、先に口を開いたのは彼の方だった。雷鳴を押し殺したような低い声が響く。

「美月、自分のやったことが俺にバレてないとでも思ってるのか」

頭ごなしの叱責に、美月は一瞬何のことかわからず呆然とした。

目元を赤くして晴人を見つめる。

「……何のこと?」

「あなたたちの望み通りにしたじゃない。どうしてまだ、私を放っておいてくれないの!」

晴人と香織から離れるため、彼女は愛する仕事をすでに手放したのだ。

女の瞳に浮かぶ悲痛な色に、晴人の胸がチクリと痛む。

だがそれも束の間、彼は鼻で冷たく笑った。

「被害者ぶるな。香織を追い詰めているのはお前だろうが!」

「取引先に契約を解除させて、香織に恥をかかせて、それで満足か?」

「そんな真似をすれば、俺が設計部をお前に返すとでも思ったのか」

男の口元に、皮肉に満ちた笑みが浮かぶ。

――そういうことか。私が香織を陥れたと疑っているのね。

「私がやった?」

美月は思わず失笑した。

「私だという証拠がどこにあるの?」

「お前以外に誰がいる」

晴人は冷ややかに言い放つ。

「香織が引き継いだ途端、クライアントが次々と契約を切ってきた。みんなお前目当てだったと言っている。それでも無関係だとシラを切るつもりか」

美月は彼を見つめ、ふっと全身の力が抜けるのを感じた。

弁解する気力すら湧かないほど、疲れ果てていた。

「好きに思えばいいわ」

彼女は淡々と告げた。

「あなたがそう言うなら、そういうことにしておけば」

晴人は彼女の予想外の反応に、さらに怒りを燃え上がらせた。

「なんだその態度は!」

「今すぐクライアントを戻せ! そして香織に謝罪しろ!」

腕を乱暴に引かれ、美月はよろめいた。その足が、散らばった積み木を踏みつける――。

バランスを崩し、彼女は仰向けに倒れ込んだ。

ガンッ!

額がローテーブルの角に激しく打ち付けられる。

鋭い痛みが走り、視界が真っ暗になった。無意識に額を押さえた指先に、生温かい感触が伝わる――血だ。

晴人の手は、空中で硬直していた。

床に倒れ込む美月と、その指の隙間から滲み出す血を見て、思わず一歩踏み出そうとする。

だが、すぐにその足を止めた。

電話越しの香織の泣き声が、そして契約解除の知らせが脳裏をよぎる。

美月を見下ろす彼の表情は目まぐるしく変わり、やがて冷酷なものへと落ち着いた。

同情してはならない。過ちを犯したのだから、罰を受けるのは当然だ。

美月は床に手をつき、額を押さえたままゆっくりと身を起こした。

指の隙間を伝って血が流れ落ち、絨毯に赤い染みを作っていく。

「……随分と早く本性を現したのね」

彼女は男を見上げ、掠れた声で、それでも一語一語はっきりと口にした。

「香織のためなら、私に手を上げることも厭わないってわけ?」

晴人は眉間を寄せる。

「俺は……」

「言い訳なんて聞きたくない!」

美月は彼の言葉を遮った。心が痛みを通り越して、麻痺していく。

「クライアントの件を解決しろって言いたいんでしょ?」

「引き受けてあげる」

晴人は虚を突かれたように固まった。

「でも、一つ条件がある」

美月は彼を真っ直ぐに見据える。

「晴太の誕生日に付き合って」

「なんだと?」

「三日後はあの子の四歳の誕生日よ」

美月は続ける。

「一緒に誕生日を祝ってくれるなら、クライアントを引き留めてあげる」

晴人は複雑な眼差しで彼女を見つめた。

「それだけか?」

「それだけよ」

晴人は数秒の沈黙のあと、ついに頷いた。

「わかった。三日後に来る。お前も約束を果たせよ」

そう言い残し、背を向けて出て行こうとする。

「晴人」

美月は背後から彼を呼び止めた。

彼は足を止めたが、振り返ることはなかった。

「さっき、私が香織に恥をかかせるためにやったって言ったわよね」

美月の声は、ひどく静かだった。

「クライアントがどうして私を指名してくれていたか、わかる?」

晴人は答えない。

「信頼よ」

美月は告げる。

「彼らは私の実力を、私の作品を、そして私という人間を信頼してくれていたの」

「そういうものは、奪い取れるものじゃない。取り繕えるものじゃない。少しずつ積み上げていくものなの。香織にはそれがないから、今焦っているのよ」

彼女は一呼吸置き、ふっと笑みをこぼした。

「もちろん、あなたには届かないでしょうけど。私が仲違いさせようとしているとしか思わないでしょうから」

晴人はそこに立ち尽くし、背を向けたまま複雑な表情を浮かべていた。

「もう行って」

美月の口元に自嘲の笑みが浮かぶ。

「三日後、忘れないでね」

晴人は歩み去っていった。ドアの閉まる音は静かだったはずなのに、なぜか重いハンマーで心を打ち砕かれたような衝撃が美月を襲った。

彼女は力なく床へ滑り落ち、額を押さえたままうずくまる。

血はすでに止まっていたが、傷口はまだ鈍く痛んでいた。

床に散らばった積み木を、無惨に壊された城を見つめ、ふと先ほどの晴太の目を思い出す。

あの子にはわからない。

何もわかっていない。

パパが自分のお城を蹴り壊したこと、パパがママを好きじゃないこと、そして自分のことも好きじゃないこと――それしか知らないのだ。

まだあんなに小さいのに。

こんな仕打ちに耐えなければならないなんて。

美月は目を閉じ、ついに堪えきれなくなった涙をこぼした。

だが、すぐに手を伸ばして拭い去る。

泣いてはいけない!

三日後は晴太の誕生日。彼のために、最高の誕生日を祝ってあげるのだ!

そして、その後は――。

美月は床に手をついて立ち上がり、洗面所へ向かって鏡越しに傷口の手当てをした。

鏡に映る女はひどく青ざめ、額の皮が破れて大きく腫れ上がり、見るも無惨な姿だった。

だが、そんな自分を見つめながら、彼女はふと笑みを漏らした。

「美月」

彼女は小さく呟く。

「あなた、まだ何を期待していたの?」

彼が振り向いてくれること? 心を痛めてくれること?

この数年間、ずっと誤解していたと気づいてくれること?

あり得ない。

彼は香織のために、あなたに手を上げたのだから。

彼女はうつむき、蛇口をひねって血の跡を綺麗に洗い流した。

再び顔を上げたとき、その瞳の奥には冷たい決意が宿っていた。

あと三日。

晴太の四歳の誕生日を祝い終えれば、すべてから解放される。

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