第8章
ここからの三日間、美月は目を回すほど忙しかった。
晴太をベビーシッターに預け、自ら顧客の元を一件一件回ったのだ。
食事の席を設け、愛想笑いを浮かべながら事情を説明し、浅野グループとの取引を継続してほしいと頭を下げた――たとえ、自分が会社を去ることになっても。
「美月さん、どうしてそこまで……」
何度も取引のある女性顧客は、痛ましそうな目を向けた。
「晴人さんにそんなひどい扱いを受けているのに、まだ彼を助ける気?」
美月はグラスを手に取り、ふっと微笑んだ。
「この一杯は私から。長年信じてくださったことへの感謝です」
鈴木社長はため息をつき、彼女とグラスを合わせた。
「本当のところ」
彼女は声を潜めた。
「晴人さんなんて、ただの顔がいいだけのクズよ。あなたみたいな良い奥さん、どこを探したって見つからないわ。あいつ、目でも腐ってるの? あんな浮気相手のどこがいいっていうのよ」
「さっさと離婚しちゃいなさい。別れたら、私がもっといい人を紹介してあげるから!」
「若くてイケメンで、お金もあってスタイルもいい男、たくさん知ってるわよ。晴人さんなんかよりずっとマシ!」
美月は思わず吹き出した。
「鈴木社長、からかわないでくださいよ。今日は仕事の話だけ。これからも浅野グループと取引を続けていただけますよね?」
「冗談じゃないわよ!」
鈴木社長は心底気の毒そうに、真剣な顔で言った。
「本気で言ってるの。あなたは本当にいい子なんだから、もっと幸せになるべきよ」
美月は笑って首を振った。胸の奥に、ほんのりと温かいものが広がる。
少なくとも、自分の価値を認めてくれる人がいる。
最後の顧客を回り終え、美月は浅野グループのビルに戻った。
エレベーターで設計部へ上がり、まっすぐコピー室へ向かう。
取引の継続には契約の結び直しが必要だ。何部か印刷して、明日まとめて顧客に郵送しなければならない。
だが、ドアの前に立ったその時、背後から慌ただしいヒールの音が近づき、か細く哀れっぽい声が響いた。
「美月さん……」
美月は足を止め、振り返った。
廊下に立っていたのは香織だった。いつものように、か弱く被害者ぶった顔をしている。
「何か用?」
美月は短く問うた。
「謝りたくて」
香織の目尻には涙が浮かび、声はどこまでも甘ったるい。
「ハルトがあなたに顧客の引き留めを強要したのは、私のことを大切に思いすぎたからだって、わかってるの」
「一日中走り回って、すごく大変だったでしょ。私、本当にわざとじゃないの。許してほしいな……」
美月は呆れ果てて彼女を見つめた。
「実は、ハルトがあんなことするなんて私も思わなくて」
香織はため息をつき、さも思いやりがあるかのように振る舞う。
「私、顧客が契約解除するって彼にちらっと言っただけなの。あなたを困らせるつもりなんてなかった」
「結局のところ、彼が私を愛しすぎているから、こんなことに……」
「言い終わった?」
美月は言葉を遮った。
香織が言葉を失う。
「それじゃ、私は行くから」
美月は背を向け、歩き出した。
「美月さん!」
香織が背後で叫ぶ。
美月は足を止めなかった。
廊下の角を曲がろうとした瞬間、不意に手が伸びてきて、彼女の手首を強く掴んだ。
晴人だった。
男は眉をひそめ、嫌悪の目を向けている。
「香織がお前に謝ってるんだぞ。なんだその態度は」
突然の強い力に、美月の手首に痛みが走った。
彼女は掴まれた手首を見下ろし、それから彼の顔を見上げて、冷ややかに嘲笑った。
「また手を上げる気?」
晴人の手が強張る。
美月の目を見て、彼はふと二日前の光景を思い出した――
床に倒れ込み、額から血を流し、絶望と悲しみに満ちた目をした彼女の姿を。
彼の手は、思わず緩んだ。
「俺は……」
晴人は口を開き、何か言おうとしたが、言葉が出てこない。
自分でもどうしてしまったのかわからなかった。
先ほど、彼女が背を向けて立ち去り、香織が可哀想に立ち尽くしているのを見て、無意識に追いかけてしまったのだ。
ただ香織の謝罪を最後まで聞かせたかっただけで、どうこうするつもりも、ましてや殴るつもりなど毛頭なかった。
だが今、彼女のその目を見ていると、なぜか胸の奥がざわついた。
香織が追いついてきた。目元を赤くしている。
「ハルト、私が悪いの……美月さんの邪魔をするべきじゃなかった……」
香織の姿を見た瞬間、晴人の胸にあったざわめきは綺麗に消え去った。
彼は慌てて香織の肩を抱き寄せ、低い声で慰めた。
「大丈夫だ。お前は悪くない」
立ち去ろうとしていた美月は、その光景を見て足を止め、ふっと鼻で笑った。
「本当にお似合いの二人ね」
二人は呆気に取られ、揃ってこちらを見た。
「永遠に一緒にいればいいわ。二度と他人に迷惑をかけないでね!」
そう言い捨てて、美月は踵を返し、二度と振り返ることなく歩き去った。
彼女の背中を見送る香織の表情は強張り、顔面は青ざめていた。
晴人はその場に立ち尽くし、廊下の奥へと消えていく女の後ろ姿を、眉を深く寄せて見つめていた。
何か言おうと口を開きかけたが、結局、そのまま閉ざした。
浅野グループのビルを出て、美月は大きく深呼吸した。
明日は晴太の誕生日だ。あんな二人のために心を痛めている場合ではない。
晴太のために、最高の誕生日を準備しなくては。
翌日、美月は朝早くから準備に追われた。
邸宅の隅々まで掃除し、階段の手すりに風船を飾り、リビングの壁には色とりどりのリボンを貼り付けた。
ローテーブルにはお菓子やフルーツを並べ、部屋の隅には友人たちから届いたプレゼントを積み上げた。
彼女は多くの友人を招いていた。かつての同僚、親しい顧客、そして晴太の幼稚園の友達もたくさん。
晴人については――
彼女はスマホのトーク履歴を見つめた。
昨夜、念のため彼にメッセージを送っていた。
『晴太の誕生日は明日の午後六時。忘れないで』
晴人からの返信もあった。
『わかった』
約束したのだから。
きっと来るはずだ。
美月は一つ息を吐き、再び飾り付けに戻った。
他でもない、息子に心から楽しい誕生日を過ごしてもらうためだけに。
午後五時半。水野家の邸宅のインターホンが鳴った。
客たちが次々と到着し始めた。
おもちゃや絵本を持参してくれた人たちで、リビングは次第に賑やかになり、絶えず笑い声が響く。
美月は客の応対に追われ、飲み物を注いだりフルーツを勧めたりと、その顔から笑顔が消えることはなかった。
六時ちょうど。
豪華な六段のケーキがテーブルに置かれ、キャンドルが立てられた。
四本のカラフルなキャンドルが、照明の下でキラキラと輝いている。
「ほらほら、電気消して!」
誰かが声を上げた。
「みんなで晴太くんにバースデーソングを歌おう!」
明かりが消され、キャンドルの温かい光だけが残った。
「ハッピーバースデートゥーユー……」
みんなで輪になり、手拍子をしながら歌い始める。
大きなケーキの前に立つ小さな晴太は、その顔を興奮でいっぱいにしていた。
あちこちを見回すその目は、キラキラと輝いている。
美月は彼のそばに立ち、その肩にそっと手を添えながら、人混み越しに玄関の扉を見つめた。
扉は閉まったままだ。
彼はまだ来ていない。
視線を戻し、笑顔を作ってみんなと一緒に歌い続けたが、心の中は少しずつ冷たく沈んでいった。
「ハッピーバースデー、ディア晴太くん!」
歌が終わろうとしたその時、突然、邸宅の扉が開いた。
外からの光が差し込み、その場にいた全員が振り向いた。
玄関に立っていたのは、晴人だった。
ダークグレーのスーツに身を包み、髪も綺麗に整えられている。どこかフォーマルな場から駆けつけてきたかのようだった。
だが、彼の隣には。
一人の女が立っていた……。
淡い色のワンピースを着たその女は、彼の腕に絡みつき、優しげな笑みを浮かべている。
香織だった。
晴人は息子の誕生日パーティーに、香織を連れてきたのだ。
その場が静まり返った。
歌声がピタリと止む。
誰も言葉を発しない。
美月は晴太の肩に手を置いたまま、まるで石になったように固まっていた。
晴太は彼女を見上げ、なぜみんなが急に歌うのをやめたのかわからず、不思議そうな顔をしている。
他の友人たちは顔を見合わせ、気まずそうに視線を逸らす者もいれば、うつむいて床を見つめる者もいた。
異様で重苦しい沈黙が、その空間を支配していた。
