紹介
友人たちと出かけるときに忘れていったのだ。私は財布を手に取り、届けに行くことにした。バーまではたった十分の距離だった。
まさか自分の悪口を聞くことになるとは思わなかった。
...
個室のドアが半分開いていた。私はノックしようと手を上げたとき、夫の声が聞こえた。
「正直言って?妻にはもううんざりなんだ」
私は凍りついた。
チャプター 1
奈緒視点
ダイニングテーブルの上で、康平の財布を見つけた。
友人たちと出かける際、置き忘れていったのだろう。私はそれを拾い上げ、彼のもとへ届けることにした。彼がいるバーまでは、ここからわずか十分の距離だ。
まさかそこで、私という存在が葬り去られる瞬間を耳にするとは思わなかった。
……
個室のドアは半開きになっていた。ノックしようと手を挙げたその時、康平の声が聞こえてきた。
「正直なところ? もううんざりなんだよ」
私は凍りついた。
「あいつ、何でもかんでも管理したがるんだ」康平は続けた。「俺も翔太も、息が詰まりそうだよ」
友人の一人が笑った。「まさか、翔太の食事まで管理してるの?」
「翔太は重度のナッツアレルギーだからな」康平の声には苛立ちが滲んでいた。「それを口実に、翔太が口にするものすべてを管理しようとする。スナック菓子ひとつ食べるのにも、まずはあいつが成分表示をチェックしてからだ。疲れるよ」
胸が締めつけられるようだった。私はドア枠に身を押し付け、息を潜めた。
「それこそが彼女のいいところだって、お前言ってなかったか?」別の友人が尋ねた。「愛されてる証拠だとか何とか」
康平は冷ややかに笑った。「それは昔の話だ。今はただ、窒息しそうなだけだよ」
目頭が熱くなる。人の心変わりとは、これほどまでに呆気ないものなのか。
「先週なんて、あいつ駐車場まで香織の後をつけたんだぞ」康平は言った。「香織が俺を誘惑しようとしてるって決めつけて喚き散らしたんだ。信じられるか?」
男たちは同情するようにざわめいた。
「で、どうするつもりなんだ?」誰かが聞いた。
「香織を連れて、三ヶ月ほど海外の田舎へ行くつもりだ」康平の声が明るくなった。「あそこは静かだからな。療養にはもってこいだ」
「奈緒さんは怪しまないのか?」
「翔太を海外の親子留学プログラムに連れて行くって言うさ」声から、康平が笑っているのがわかった。「翔太が口裏を合わせてくれる。前にもやったことあるし、いつだって上手くいったからな」
膝から力が抜け落ちた。
「彼女、信じるか?」
「もちろん。あいつは翔太のことを何でも信じてるからな」一呼吸置いて、彼は続けた。「それに、今の妊娠は安定期に入ってない。あいつも最近は自宅に引きこもりがちだ。俺たちが戻る三ヶ月後には、香織の治療も終わってる。そうすれば、すべて元通りさ」
それ以上、聞いていられなかった。外に出ると、夜の空気がひどく薄く感じられた。うまく呼吸ができない。
家に戻り、私は何時間もソファに座り込んでいた。
マンションの中は静まり返っていた。康平が帰ってくるのは遅くなるだろう。友人と出かける時はいつもそうだ。私は壁に掛けられた数々の写真をぼんやりと見つめた。結婚式の写真、翔太の赤ちゃんの頃の写真。私たちはあんなにも幸せだったのに。どこでどうして、こんなに狂ってしまったのだろう。
手が無意識にお腹へと伸びる。膨らみはまだ小さく、その存在も希薄だ。今度こそはと、あんなに大事にしていたのに。
それなのに、私の夫は妊娠中の妻を置き去りにし、親子留学プログラムという嘘をついて、他の女と三ヶ月も海外へ行こうとしている。
目を閉じると、涙がこぼれ落ちた。
……いいえ。まずは翔太と話さなきゃ。あの子はまだ子供だ。たったの十歳。こんな大事なことで、私に嘘をつくはずがない。
康平は私を騙せたかもしれない。でも翔太は違う。私の息子だもの。
私は涙を拭い、時計を確認した。あと一時間で学校が終わる。
二十分前には校門に着いていた。
保護者たちが小さなグループを作って立ち話をしている。私はその輪から離れ、バッグを胸に抱きしめて立っていた。髪は乱雑に一つに束ねただけ。化粧をする気力もなく、つわりが始まってからはほとんどすっぴんで過ごしていた。
チャイムが鳴り、子供たちが校舎から溢れ出てくる。私は人混みの中に翔太の姿を探した。
いた。三人の男の子と一緒に歩いている。友達の誰かが言ったことに笑っているようだ。
「翔太!」私は手を挙げて叫んだ。
彼がこちらを向いた。その瞬間、笑顔が消え失せた。
一瞬、あの子はただ私を見つめていた。やがてその顔が歪み、友人たちのほうへ向き直る。
「あれは奈緒おばさんだよ」あの子ははっきりと言い放った。「うちのお手伝いさん」
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