第1章
誠人は焦ったように私の服のボタンを解いていく。
名古屋への出張から帰ってきたばかりだというのに、彼はスーツケースを開けることすらせず、私を玄関の壁に押し付けた。
「奈々子、会いたかった」
彼の呼吸は荒く、唇が耳元に寄せられ、掠れた声が響く。
いつもの彼らしくない。
誠人はいつも自制的で優しいのに、今日の動きは乱暴で焦燥感に満ちていた。
一瞬、脳裏に疑問がよぎったが、すぐに彼のキスに掻き消された。
事の後、ベッドに横たわっていると、睡魔が襲ってきた。
誠人は私の髪を優しく撫で、その眼差しは穏やかだ。
私が眠りに落ちる寸前、彼のスマートフォンからLINE特有の通知音が鳴った。
隣のマットレスがわずかに沈み、そして元に戻るのを感じる。
目を開けると、誠人がベッドの端に腰掛け、スマートフォンを食い入るように見つめ、眉をひそめていた。
「どうしたの?」
と私は尋ねる。
「会社で急用ができた。先に寝てて。待たなくていいから」
彼の口調は平然としていたが、その瞳には私には読み取れない感情が揺らめいていた。
彼はすぐに服を着て出て行った。
寝室のドアが閉まり、暗闇の中で十分ほど横になっていると、不安が梅雨の湿気のようにまとわりついて離れない。
私はスマートフォンを手に取り、誠人の会社の夜間警備員の番号に電話をかけた。
「渡辺さん?いえ、今日は誰も残業していませんよ。オフィスはもう施錠済みです」
警備員の答えに、私の心は沈んでいった。
彼は嘘をついた。
彼がどこへ行ったのか、なぜ嘘をつく必要があったのか、私にはわからなかった。
翌朝、誠人は表参道の有名店の和菓子を手に帰ってきた。その店は出前注文を受け付けておらず、直接買いに行かなければ手に入らない。
「よく眠れた?」
彼は微笑みながら尋ねる。昨夜の不在などなかったかのように。
「まあまあ」
私は和菓子を受け取る。
「昨日の夜はどこに行ってたの?」
「会社の用事を済ませてから、ついでにお前が好きな和菓子を買いに並んでたんだ」
彼の笑顔は不自然なほどに輝いていた。
「富士山の山頂の雪だって、奈々子のためなら取ってくるよ」
甘い言葉は蜂蜜のようだったが、私はそこに微かな苦味を感じ取っていた。
ひとまず疑念は胸の内に収めたが、心の不安は拭い去れなかった。
私と誠人が付き合って、もう七年になる。大学を卒業した年に出会い、居酒屋で酔った彼に絡まれ、翌日謝罪に来られたのが始まりだった。
あの時の彼の眼差しは真摯で、断ることができなかった。
「誠人ってああいう一途なところあるから、あなたがいなくなったらどうやって生きていくのかしらね?」
親友の佐藤杏はかつて彼をそう評した。
だが七年が過ぎても、誠人が結婚を切り出すことはなかった。
私が探りを入れるようにその話題を出すたび、彼は決まってこう言うのだ。
「会社で昇進して、仕事が安定してからプロポーズさせてくれ」
ソファに座り、スマートフォンに目を落として口角を上げている彼を見つめる。
「何見てるの?」
好奇心から尋ねた。
「猫の動画だよ。可愛い」
彼の返事はあまりにも早すぎた。
私が近寄ると、彼はすぐに画面をロックした。けれど、私はもう見てしまった。あのアイコン――ツイッターだ。
誠人はかつて、SNSは一切やらないと言っていた。
また一つ、嘘が増えた。
「ちょっとお風呂入ってくる」
彼は立ち上がり、スマートフォンを無造作にテーブルの上に置いた。
私はそのスマートフォンを凝視し、心臓が速く脈打つのを感じる。
すべきではない。でも、疑念はもう桜の季節の花粉のように、息苦しいほどに私を苛んでいた。
私は彼のスマートフォンを手に取り、彼の誕生日をパスワードとして入力すると、画面のロックが解除された。
ツイッターのアプリは、目立たないフォルダの中に隠されていた。
それをタップすると、「残りの星」というアカウント名が画面に現れた。
私はその名前を記憶に刻み、何事もなかったかのようにスマートフォンを元の場所に戻した。
翌朝、誠人が会社へ行った後、私は仕事部屋に籠もり、自分のパソコンを開いた。
一時間近くかけて、アイコンとIPアドレスから、その裏アカウントが間違いなく誠人のものであることを突き止めた。
アカウントには数千件のツイートがあり、そのすべてがある一人の人物を中心に綴られていた。
二〇一七年六月のツイート――『俺は他の女と寝た。でも、先に裏切ったのはお前だろ』
誠人が居酒屋で酔って私に絡んできた時期と一致する。
二〇一八年九月――『お前は俺がお前一筋だと思ってんのか。滑稽な話だ』
誠人が銀座で私に告白した、まさにその日だった。
二〇二一年八月――『よくもまあ結婚できたもんだな。狂ってるのか!』
その月、誠人は異常なほど乱暴で、私はそれが原因で熱を出し、病院に運ばれた。
私は震える指で最新のツイートを開いた。
『少年時代に愛した人は、永遠に続く』
桜が舞い散る写真が添えられていた。
写真には白いワンピースを着た女性が写っており、その横顔は優しげだった。
私は彼女に見覚えがあった――佐藤宇奈美。誠人の高校時代の同級生だ。
七年間、誠人の心は私のものだと思っていた。だが今、すべてが彼の偽りだったのだと悟った。
彼の心は、一度も本当に私のものになったことなどなかったのだ。
ただ、それほどまでに二人の想いが深く、縺れ合っているというのなら。
じゃあ、私は? 私は一体、何だったというの?
