第9章 往事は煙の如く
白石凛は枕元の名刺を手に取り、小さく溜息をついた。
名刺に踊る「黒木蓮」という金文字が、彼女の目頭を熱くさせる。
当時、彼女と黒木蓮、そして西園寺昴は同じ大学に通っていた。
黒木蓮は幼い頃から海都の社交界における寵児であり、大学でも注目の的だった。
入学初日、彼は新入生代表としてスピーチをした。
彼女は覚えている。あの時、壇上の黒木蓮を見つめながら西園寺昴が言った言葉を。
「凛、信じてくれ。俺が努力して西園寺グループを掌握し、黒木ホールディングスを超えてみせる。そうすれば俺たちの子供も将来、あの壇上でスピーチができるようになるさ」
当時の西園寺昴の瞳には、野心と光が煌めいていた。
彼女はその光に惹かれたが、今ではその光に傷つけられている。
西園寺昴は、いつだって自分のための野心家だった。
西園寺家の継承権のためなら、自分を捨てることさえ厭わない。
白石凛は名刺を握りしめた。
これからは、子供のために、私も少しは利己的にならなくては。
名刺をバッグにしまうと、彼女もすぐに夢の中へと落ちていった。
翌朝早く、彼女は退院手続きを済ませ、賃貸マンションへ戻る準備をした。
一階のロビーで、彼女は母の年村リリに出くわした。
年村リリは白石凛を見るなり、その目に嫌悪感を露わにした。「あんた、なんでここにいるの?」
「診察よ」
白石凛がそう言って立ち去ろうとすると、年村リリが彼女の腕を掴んだ。
白石凛の傷口がまた掴まれ、彼女は激しく年村リリを振り払った。
年村リリは転びそうになった。
「死にたいの!? この服、すごく高かったんだからね! 叔父様が桜市からわざわざ取り寄せてくれた生地なんだから、あんたなんかに傷つけられたらたまらないわ」
白石凛は心の中で冷笑した。
どうやら年村リリの目には、自分は桜市から買った服以下の存在らしい。
「あんた、まさか妹に害をなそうとしてるんじゃないでしょうね。もしミユとお腹の子に何かしたら、私と叔父様は命懸けであんたと戦うからね」
雛を守る親鳥のような顔をする年村リリを見て、白石凛は少しおかしくなった。
小さい頃から、母が自分をこんな風に守ってくれたことなど一度もなかった。
「なら、神田の叔父様には知られたくないでしょうね。あなたが神田ミユにあげたあのネックレスが、私と父さんの愛の証だってことは」
年村リリは眉をひそめて鼻を鳴らし、警告の眼差しを向けた。
「あんた、あのネックレスが欲しいだけでしょ。二、三日待ちなさい、返してもらうから」
白石凛は首を振った。年村リリは彼女の父に何の感情もなく、彼女に対しても極めて冷淡だ。
年村リリが今ネックレスを返してもらうと約束したのは、彼女が本当に神田ミユに何かすることを恐れているからに過ぎない。
ただ、彼女はもう欲しくなかった。神田ミユが触れたものなど、いらない。
人間も同じだ。
「凛!」
年村リリが白石凛を阻んでいる時、よく通る声が聞こえてきた。
文月アンナがこちらへ向かって歩いてくる。
彼女はキャメルのコートを羽織り、スモーキーメイクを施し、長い髪をセンター分けにして腰まで垂らしていた。
「退院祝いに迎えに来たわよ」
アンナは白石凛を引き寄せ、年村リリを見た。
「お手伝いさん、自分の家のあの『猫かぶり女』の世話に行かなくていいの? うちの凛をいじめて、知らない人が見たら凛が実の娘じゃないみたいよ。ああ、そうか。ここ数年、継母よりも意地悪だったものね」
「あんた!」
年村リリはアンナの鼻先を指差したが、結局何も言えなかった。
アンナの本名は文月アンナ。文月家は帝都で最も名高い名門であり、神田家でさえ一目置く存在だ。
「後であんたとは決着をつけてやるから」
年村リリは背を向けて去って行った。
母の後ろ姿を見ても、白石凛の心はとっくに麻痺していた。
幼い頃から、こんなことは珍しくなかった。だがもう怒りすら湧いてこない。
文月アンナは彼女がまだ呆然としているのを見て、白石凛の手を引いた。
「行こう。友達がオープンカーを貸してくれたの。ドライブに連れて行ってあげる」
白石凛は頷いた。
車が高架道路を走り出し、風が窓の外から吹き込んでくると、白石凛はようやく意識がはっきりしてきた。
「安心して。離婚については帝都で一番の弁護士を探してあげる。西園寺昴があんたにこんな仕打ちをしたんだから、絶対に痛い目を見せてやるわ。財産の半分をきっちり吐き出させてやる」
親友の歯ぎしりするような怒りを聞いて、白石凛は目頭が熱くなる。
「ありがとう、アンナ。あなたがいてくれて本当によかった」
そうでなければ、彼女の今の立場はもっと困難なものになっていただろう。
「任せてよ。友達だもの。西園寺昴が私の友達に手を出したんだから、絶対にただじゃおかないわ」
文月アンナは速度を上げた。
「そういえば凛、離婚するつもりなのに、どうして病院で治療なんて受けてたの?」
白石凛はそっと自分の下腹部に手を当て、静かに言った。
「だって、妊娠したから」
文月アンナは危うくブレーキを踏みそうになったが、白石凛が妊婦であることを思い出し、驚きを必死に堪えて高架下まで運転した。
「つまり、あの西園寺昴という畜生の子供を妊娠したってこと?」
白石凛は手を伸ばして文月アンナを軽く叩いた。
「落ち着いて。妊娠したのは私よ」
「分かってるわよ。でもあのクズ男、あんたが妊娠してるのを知ってて外で浮気したんでしょう?」
文月アンナは義憤に駆られた。
「あんたは我慢できても、私は無理よ」
文月アンナはそう言って車を発進させようとしたが、次の瞬間、白石凛が彼女の手を押さえた。
「彼は知らないの。これは私の子供よ。彼とはもう関係ないわ。アンナ、私はただ彼ときっぱり関係を断ちたいだけ」
彼女はただ職場に復帰し、子供に最高の生活を与えたいだけだ。
他のことは、もうどうでもよかった。
「あんたって子は……」
文月アンナはため息をついた。
彼女は白石凛が子供を授かるためにどれだけ苦労したか知っているし、彼女が家族を渇望していることも知っている。
「何かあったら絶対に私に言うのよ、分かった?」
文月アンナは白石凛の手を押さえた。
彼女の動作が大きかったため、白石凛のバッグが床に落ち、中からあの金箔押しの名刺が転がり出た。
「黒木蓮の名刺? 会ったの?」
文月アンナは少し驚いた様子だった。
「ええ、会社に来てジュエリーデザイナーをしないかって誘われたわ」
白石凛は名刺とバッグを拾い上げた。
文月アンナは称賛するように白石凛の肩を叩いた。
「さすが私の親友、もう立ち直ったのね。あのクズ男に不意打ちを食らわせてやりなさい」
「まだ決まったわけじゃないわ。市場は目まぐるしく変わるし、今の私に『夜灯華』みたいな作品がデザインできるか分からないもの」
『夜灯華』という言葉を聞いて、文月アンナはため息をついた。
「あの頃、あんたの人気は凄かったわよ。あんたと黒木蓮のカップルファンなんて、あんたの婚礼に乗り込んで黒木蓮に略奪婚させようとしてたぐらいだもの」
当年、彼女と黒木蓮のカップリングは確かに一世を風靡した。
「都過去のことよ。今は一からやり直さなきゃいけないんだから」
「あんたならできるわ」
二人はそうして談笑しながら家へと向かった。
マンションの下に着き、白石凛が車を降りると、向こうから走ってくる見覚えのある姿が目に入った。
見間違いかと思ったが、アンナが手を振った。
「黒木社長? ランニングですか?」
文月アンナは全く驚いていない様子だった。
黒木蓮はゆったりとしたスポーツウェアを着て、遠くから走ってきた。額にはうっすらと汗が滲んでいる。
あの日とは違い、今日は髪を固めておらず、前髪が額に掛かっており、全体的に柔らかな雰囲気を纏っていた。
まるで大学時代に戻ったかのようだった。
「奇遇だな、同級生諸君」
文月アンナは車を降り、腕組みをして笑いを含んだ目で黒木蓮を見た。
