第4章 今度は彼女が狼狽する
無一文、身寄りなし。
田中から受け取った僅かな手切れ金はタクシー代で消え、手元にはもう一銭も残っていない。
出所したその日に、路頭に迷うというのか?
我が子はまだ、桐島家という伏魔殿で苦しんでいる。ここで倒れるわけにはいかない。
だが……本当に疲れた……寒い……もう無理かもしれない……。
視界は雨と涙で滲み、前方の街灯の頼りない光がぼんやりとした黄色の塊になって広がる。
彼女の足取りはおぼつかず、今にも冷たい雨水の中に倒れ込みそうだった。もう二度と起き上がれないかもしれない。
意識が泥のように重くなり、抵抗する気力さえ失いかけたその時。前方の雨幕の中から、ぼやけた背の高い人影がこちらへ向かってくるのが見えた。
綾瀬美月は茫然と顔を上げ、焦点を合わせようとした。
雨糸がその人物の周りで光の輪を作っている。黒い傘を差し、松のように真っ直ぐな立ち姿。仕立ての良いダークカラーのコートを着たその姿は、この荒廃した通りとも、彼女自身の惨めな姿とも、あまりに鮮明な対比を成していた。
彼は彼女を支えた。その眼差しには、言葉にし難い複雑な感情が宿っていた。
綾瀬美月の心臓が、理由もなく一度だけ大きく跳ねた。
この人は……誰? どうしてそんな目で私を見るの?
本能的な警戒心から、彼を突き飛ばそうとした。
しかし、薄暗い街灯の下でその顔をはっきりと認めた瞬間、彼女は完全に凍りつき、瞳孔が収縮した。
それは非の打ち所がないほど端正な顔立ちだった。彫りの深い輪郭、高い鼻梁、引き結ばれた薄い唇。
記憶の中の青臭さと忍耐強さに比べ、今は成熟した男の冷厳さと、人の上に立つ者特有の威厳が加わっていた。
だが、その目……墨のように深く静かなその瞳を、見間違えるはずがなかった。
「橘……奏太?」
綾瀬美月は思わずその名を口にした。声は乾き、信じられないという響きを帯びていた。
どうして彼が?
橘奏太。中学、高校時代のクラスの委員長。
いつも色褪せた制服を着て、無口で、けれど成績は常にトップだった貧しい特待生。
家が貧しいというだけで、クラスの金持ち連中から孤立し、嘲笑されていた少年。
その後、海外の名門大学から全額奨学金を得て出国したと聞いて以来、音信不通だったはずだ。
彼がなぜここに?
それに……記憶の中の清貧で耐え忍ぶ少年とは、まるで別人のようだ。
目の前の男は、圧倒的なオーラと高貴な身なりを纏い、明らかに成功者のそれだった。
橘奏太は彼女を見ていた。蒼白でやつれ、雨に濡れて惨めな姿の彼女を。そして、その目に浮かぶ巨大な驚愕と困惑を。
彼の深い瞳の奥を、一瞬、鋭い心痛と激情が走り抜けた。だがそれは瞬時に抑え込まれ、底知れぬ静寂へと戻った。
彼は傘を傾け、彼女に降り注ぐ雨を完全に遮った。
低く心地よい声が響く。それは歳月を経て深みを増した磁性のある声で、もはや少年の頃の清冽さとは違っていた。
「綾瀬美月」
彼は彼女の名を呼んだ。抑揚のない口調だが、不思議と安堵感を与える響きがあった。
「久しぶりだな」
綾瀬美月は呆然と彼を見つめ、どう反応していいか分からなかった。
あまりの衝撃に、悲しみと絶望が一時的に麻痺していた。
「あなた……どうして……」言葉が続かない。
橘奏太の視線が、彼女の濡れて透けた薄い服に一瞬留まり、眉が微かに動いた。
彼はすぐさま高価なコートを脱ぐと、有無を言わせず彼女の冷え切って震える肩に掛けた。
彼の体温が残るコートが瞬時に彼女を包み込み、刺すような寒気を和らげる。
「通りかかっただけだ」
彼は彼女の問いに短く答えたが、その深い瞳は彼女を捉えて離さず、今の彼女の姿を心に刻み込んでいるようだった。
綾瀬美月は「通りかかった」という言葉を信じなかった。
ここは主要道路ではないし、こんな雨の夜だ。
だが、今の彼女はあまりに寒く、疲れ、絶望しすぎていて、追及する気力もなかった。
肩に掛かるコートの温もりと、突如現れた、記憶の中で唯一善意を残している旧友の存在が、崩壊寸前の彼女の感情に僅かな支点を与えた。
「橘奏太……」
彼女は喃語のように呟き、再び目頭が熱くなった。全ての悔しさ、苦痛、絶望が決壊しそうになる。
橘奏太は彼女の脆い姿を見て、喉仏を動かした。瞳の奥で、より複雑な感情が渦巻く。
彼は手を伸ばし、彼女に触れようとしたが、最終的には倒れないように腕をしっかりと支えるに留めた。
「家へ送ろう」
彼は彼女がなぜこれほど惨めな姿なのかを問わず、何気ないことのように言った。
だが「家」という言葉に、綾瀬美月の心は激しく震えた。
唇が震えるが、言葉が出ない。
彼女には他に選択肢がなかった。
彼は彼女を支え、路肩の影に停まっていた黒い高級車へと向かった。
ライトが点灯し、エンジンが低く安定した音を立てる。
綾瀬美月はされるがままに彼に連れられ、頭の中は真っ白だった。
なぜ橘奏太が現れたのか、今の彼の身分は何なのか、どこへ連れて行かれるのか、何も分からない。
だが今、彼女は溺れる者が流木に縋るように、思考し拒絶する力を失っていた。
ドアが開き、暖かい空気が顔に触れる。
橘奏太は彼女の頭を庇いながら、丁寧に車内へと促した。
ドアが閉まる瞬間、綾瀬美月は窓越しに、二度と戻れない「家」と、この無情な雨の夜を最後に見つめた。
そして目を閉じ、連続する打撃の中で、ただ息をすることだけに専念した。
ふと、かつて橘奏太の惨めな姿を目撃した時のことを思い出した。あれも、こんな雨の日だった。
クラスの男子数人が、尿を詰めたペットボトルを雨の中に投げ捨て、拾ってこいと嘲笑いながら命じていた。
橘奏太が動かずにいると、突き飛ばされ始めた。
綾瀬美月はその連中と喧嘩をした。
彼らが去った後、綾瀬美月はぎこちなく、飲みかけのジュースを彼に差し出した。
「あれ拾わなくていいわよ。これ、もう飲めないから、悪いけど捨てておいてくれない?」
その年頃の少年には、自尊心が必要だった。
綾瀬美月はお金を恵むようなことはしなかった。
あの頃、彼女はまだ綾瀬家のお嬢様で、光り輝く生活を送っていた。
同情からか、あるいは彼の強靭さをただ称賛していたのか、彼女は誰にも言わず、教師を通じて匿名で彼の中学時代の学費と生活費を支援していた。
見返りなど求めたことはなく、卒業後はそのことすら忘れていた。
ただ今日の光景が、あの時と完全に逆転していることに、因果を感じずにはいられなかった。
人生とは、なんと数奇なものだろう。
