第8章 私はあなたの正妻

「蓮お兄様、お帰りなさい」

白石麻里奈は甘ったるい声で出迎えると、綾瀬美月に視線を移した途端、計算されたような驚きと喜びを表情に浮かべた。

「美月お姉様? ああ、ご無事で本当によかったです」

綾瀬美月は彼女を完全に無視し、桐島蓮を真っ直ぐに見据えた。その口調は、さざ波ひとつ立たないほど平坦だった。

「私の部屋はどこ?」

桐島蓮は眉を顰め、彼女の態度に不快感を露わにしながら冷たく言い放つ。

「二階西側の客室だ。大人しくしていろ。麻里奈と、裏庭には近づくな」

裏庭。

その言葉に綾瀬美月の心臓がちくりと痛んだが、表情にはおくびにも出さず、ただ淡々と「そう」とだけ応じた。

彼女は粗末な荷物を手に取ると、そのまま二階へと上がっていった。その背中は、あの男女に一瞥もくれることはなかった。

白石麻里奈は、その凛と伸びた背中を見つめ、掌に爪が食い込むほど拳を握りしめた。

……

午後の廊下にて。

白石麻里奈が、見覚えのある高価な壺を抱え、まるで計ったようなタイミングで向こうから歩いてきた。

綾瀬美月は目もくれず、そのまま避けようとした。

だが、すれ違う刹那、白石麻里奈が短く悲鳴を上げ、抱えていた花瓶を手放した――。

「ガシャン――!」

陶磁器の砕ける音が響き、破片が四散する。

「美月お姉様! どうして突き飛ばすの?!」

白石麻里奈の瞳は瞬く間に涙で潤み、その声は委曲と信じられないという響きを帯びていた。

「いくら腹が立っても、蓮お兄様の花瓶に当たるなんて……」

綾瀬美月は冷ややかにその茶番劇を見下ろした。足元に飛び散った破片を避けることすらしなかった。

「お芝居は済んだ?」

声は大きくないが、そこには氷のような嘲笑が含まれていた。

「同じ手を使うのは二度目よ。飽きないの?」

白石麻里奈の泣き声が、一瞬詰まる。

騒ぎを聞きつけた使用人たちが駆けつけ、この惨状を見て呆然と立ち尽くす。

すぐに、桐島蓮が不機嫌さを隠そうともせずに現れた。

無惨な破片と、泣き崩れる白石麻里奈。彼の顔色は一瞬にして鉄のように青ざめ、鋭い視線が綾瀬美月を射抜いた。

「また何をした?!」

綾瀬美月が口を開く前に、白石麻里奈が「弁明」を始めた。

「蓮お兄様、美月お姉様は悪くないの、私が不注意で……」

「確かに彼女のせいじゃないわ」

綾瀬美月は冷たく遮り、桐島蓮を直視した。その瞳には隠そうともしない皮肉が宿っていた。

「私が立つ場所を間違えたのよ。彼女が私にぶつかるチャンスを与えてしまったんだもの」

桐島蓮は眉をきつく寄せた。

「綾瀬美月! まだ言い逃れをする気か? 麻里奈が自分で物を壊してまでお前を陥れるとでも言うのか?」

「どうしてしないと言い切れるの?」

綾瀬美月は即座に言い返し、口元に極めて薄い冷笑を浮かべた。

「三年前もそうだったじゃない。桐島社長が一番よく知っているはずでしょう? あなたはいつだって彼女だけを信じるんだもの」

彼女の言葉は冷たい針となって桐島蓮を刺し、一瞬言葉を詰まらせた。

「これは俺が信じるかどうかの問題じゃない。証拠がここにある。ここにいる全員が盲目だとでも言うのか?」

彼は苛立ち、綾瀬美月の態度をただの悪あがきだと決めつけているようだった。

綾瀬美月はまるで天下一品の笑い話を聞いたかのように、周囲でうつむく使用人たちを一瞥した。

「ここでは、白石麻里奈の涙こそが最高の証拠なんでしょう? 私、綾瀬美月の弁明は、ただの言い逃れ。桐島社長、わざわざ聞く必要なんてあるのかしら」

彼女はもう彼らを見ず、踵を返した。

「待て!」桐島蓮が怒鳴った。「物を壊しておいて責任も取らないのか?」

綾瀬美月は足を止めたが、振り返らなかった。声には一片の温度もない。

「桐島社長、何かお忘れじゃない? 私はあなたの法的な妻よ。家の中の花瓶を一つ割ったところで、何の責任を取る必要があるの? でも桐島社長、監視カメラを確認する時はよく見ることね。また『うっかり』肝心なコマを見落とさないように」

言い終えると、彼女はもう立ち止まらず、そのまま立ち去った。

その背中は決然としており、かつてのような従順さは微塵もなかった。

白石麻里奈は「法的な妻」という言葉を聞き、胸の内に憎悪が湧き上がった。

どうしてこんな女が、まだ桐島の奥様の座に居座り続けられるの?

綾瀬美月の言葉は桐島蓮の顔色をさらに悪くさせた。特に「法的な妻」という言葉は、彼の心に刺さった棘のようだった。

白石麻里奈は状況を見て、すぐに弱々しく彼に寄り添った。泣き声混じりだが、善良さを装って宥める。

「蓮お兄様、怒らないで……美月お姉様……きっと出所したばかりで、気が立っているのよ」

桐島蓮は怒りを押し殺した。

「あいつはただ虚勢を張っているだけだ」

橘奏太のところではあんな様子ではなかったくせに。

白石麻里奈は、桐島蓮の感情が綾瀬美月に容易く掻き乱されているのを見て、不吉な予感を覚えた。

「刑務所の中は環境が複雑だって聞くわ。もしかしたら……悪い習慣を身につけてしまったのかもしれない。わざとじゃないわ。この花瓶は壊れちゃったけど、私は平気よ。二人が私のために喧嘩さえしなければ……」

彼女はそう言って仲裁するふりをしながら、綾瀬美月が刑務所で性格が歪み、品行が悪くなったと暗にほのめかした。

桐島蓮は綾瀬美月が消えた方向を見つめ、眼差しを一層陰険にし、低く彼女を慰めた。

……

深夜、静寂の中。

綾瀬美月は記憶と橘奏太からの情報を頼りに、巡回する警備員を避け、裏庭にある施錠された小部屋へと忍び寄った。

心は千々に乱れていた。懐から大切に隠し持っていた、まだ体温の残る柔らかいパンと牛乳を取り出し、ドアの下の隙間から押し込んだ。

中から微かな、ガサゴソという音と、子供が少しずつ飲み込む気配がした。

綾瀬美月の目から、音もなく涙がこぼれ落ちた。

しかし翌朝、子供は突然微熱を出し、嘔吐と下痢に見舞われた。

家庭医の診察では、不衛生なものを食べて腹を壊したとのことだった。

報告を受けた桐島蓮は、即座に激怒した。

白石麻里奈は彼の傍らで、心配そうにため息をついた。

「どうしてこんなことに……昨日はあんなに元気だったのに……あ、まさか……」

彼女は言い淀み、驚いたように口を押さえ、綾瀬美月が昨夜忍び込んだ方向を見た。

「まさか何だ?」桐島蓮が冷たく問う。

白石麻里奈は怯えたように小声で言った。

「私……昨日の夜、美月お姉様がこっそり裏庭に行くのを見たような気がして……蓮お兄様、疑いたくはないけれど、でも……彼女、あの子があの人の名声を傷つけ、桐島の奥様でいられなくした元凶だって憎んでいたでしょう……もしかして……もしかして彼女……」

言葉は続けなかったが、意味は明白だった――綾瀬美月が桐島の奥様の座に返り咲くため、邪魔な「不義の子」に手を下し、排除しようとしたのだ!

「綾瀬美月!」

桐島蓮の怒りに火がついた。彼は綾瀬美月の元へ突進した。

綾瀬美月は子供が病気だと知り、居ても立ってもいられず駆けつけようとしたところで、桐島蓮の凄まじい怒りと悪意ある告発に正面からぶつかった。

「この毒婦が! 自分の子供にまで手をかけるのか! そんなに桐島の奥様に戻りたいか? こんな手段を使ってまで?!」

綾瀬美月は一瞬呆然としたが、すぐに白石麻里奈の仕業だと悟った!

三年間積もり積もった冤罪、怒り、息子への心痛が一気に爆発する!

「桐島蓮! あなたは目も心も盲目なの?! あれは私の実の息子よ! 命を代えてもいいと思ってる! 私が害するわけないでしょう?! 白石麻里奈よ! いつだって彼女だった! 三年前も! 今も! どうして彼女が昨夜何をしたか調べないの?! どうして彼女の一方的な言葉だけを信じるの?!」

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