第2章
髙野拓海は、怒りを通り越して笑ってしまった。
「ED?」その言葉を噛みしめるように繰り返す。「芽衣、俺が使えるかどうかくらい、お前が一番知ってるだろ」
芽衣の心臓が、どくんと跳ねた。
——知っている。
もちろん、知っている。
二人には、たった一度だけあった。
三年前の、新婚初夜。
あの夜、彼は酔っていた。
押さえつけられ、口づけられた。優しいとは言えない手つき。むしろ、鬱憤をぶつけるみたいに荒っぽくて。
痛くて涙まで滲んだのに、それでも突き放さなかった。
あれが初めてで、同時に、彼にいちばん近づけた唯一の夜だったから。
けれど翌朝、髙野拓海は何事もなかったように振る舞い、芽衣を一度も見なかった。
それからは別々の部屋。
三年。丸三年。
彼は二度と芽衣に触れなかった。
——だから、何を知っているというの?
芽衣が知っているのは、あの夜のことだけ。
彼にはその気があるのに、それを自分には決して向けようとしない、ただそれだけ。
芽衣は胸の奥の苦さを押し殺し、彼の視線を真正面から受け止めた。
「私が知ってる?」唇の端を引きつらせ、投げやりな嘲りを滲ませる。「髙野社長が言ってるのって、三年前のあの夜のこと? なら、確かに大したことなかったわね!」
髙野拓海の目が、すっと沈む。
「持久力は普通、テクも普通」芽衣はさらに煽るように言った。「それでよく、私に聞けたものね」
空気が、ひたりと静まり返った。
髙野拓海は芽衣を見据えたまま、胸が深く浅く上下している。
その視線が怖い。
それでも芽衣は、引かなかった。
離婚協議書を握り締め、彼の横をすり抜けようとする。
「とにかく、私はもうサインしたし、あな——」
言い終える前に、手首をがしりと掴まれた。
次の瞬間、芽衣の身体は柔らかなソファへ押し倒される。
髙野拓海が覆いかぶさった。片手を芽衣の耳元に突き、もう片方で腰を捉える。
「芽衣」見下ろす声は低い。「どうしてもそういう言い方をしたいのか?」
芽衣は顔を背けた。見たくない。
「事実を言っただけ」
「事実?」
髙野拓海が喉で笑った、次の瞬間。
いきなり顔を寄せ、芽衣の唇を塞いだ。
「なら見せてやる。俺が本当に使えるかどうか」
拒めないほど強引な口づけ。
芽衣は必死に押し返す。けれど髙野拓海は、びくともしない。
片手で両手首をまとめて頭上へ押さえつけ、もう片方の手で顎を掴み、無理やり受け止めさせる。
芽衣は動けない。奪われるまま。
呼吸が乱れ、押しのけたいのに、身体は言うことをきかず——むしろ、ふっと力が抜けていく。
その変化に気づいたのか、髙野拓海のキスは次第に熱を帯び、絡みつくように変わった。
やがて彼は手首を解放し、大きな掌を腰のラインに沿わせて滑らせる。
薄い布地越しに、ゆっくりと撫で回す。
頬は赤く染まり、唇は情に震える。
瞳には水気が溜まり、壊してしまいたくなるほど危うい。
髙野拓海の呼吸が、重く落ちた。
唇が口角へ。頬へ。耳朶へ。
小さな耳たぶを含まれて、やさしく擦られた瞬間、芽衣は堪え切れず小さく声を漏らす。
「……ん」
「芽衣」
髙野拓海の手はすでにスカートの中へ入り込んでいた。
触れた先の湿り気に、彼は低く笑う。
「身体のほうが、よっぽど正直だな」
芽衣の顔が、かっと熱くなる。言い返そうとした、その瞬間——また唇を塞がれた。
最後の一線まで奪われそうになった、その時。
不意に、携帯の着信音が鳴り響いた。
一瞬で、熱を断ち切るように。
髙野拓海は画面を見て、わずかに目の色を変える。
そして芽衣から身体を離し、通話に出た。
「拓海……転んじゃって、足、ひねったみたい。ちょっと来てくれない~?」
受話口から聞こえたのは、弱々しく甘ったるい女の声。
髙野拓海は迷わない。
「今すぐ行く」
それだけ言って電話を切った。
彼は立ち上がり、芽衣を見下ろす。
さっきまで顔にあった欲の色は、跡形もなく消えていた。
「少し頭を冷やせ」
芽衣はソファのシーツを、ぎゅっと握り締めた。
「冷やす必要なんてない。私は離婚する」
髙野拓海の顔色が、今にも水が滴りそうなほど陰る。
「いいだろう、芽衣。後悔するなよ」
そう言い残し、彼は出ていった。
芽衣は閉ざされた扉を見つめる。
じわじわと目が熱くなり、やがて赤く滲んでいく。
後悔?
何を後悔するというの。
後悔するべきなのは、あの人のほうだ。
芽衣は乱暴に涙を拭い、二階へ上がって荷物をまとめ始めた。
高野拓海はこの数年、愛だけはくれなかったが、何ひとつ不自由させなかった。
バッグ、化粧品、アクセサリー、ジュエリー。数え切れないほど。
前は勿体なくて使えずにしまい込んでいた。
今思えば、馬鹿みたい。
芽衣は少し考え、箱をいくつかまとめると、以前住んでいたマンションへ送る手配をした。
荷造りの途中、携帯が鳴った。
親友の竹村茜だ。
「芽衣……」
電話の向こうから、舌の回らない声が聞こえる。
「ナイトで飲みすぎた……迎えに来て……」
「すぐ行く」
通話を切ると、芽衣はコートを掴んで飛び出した。
ナイトは帝京市でも有名なバーだ。
胡散臭い連中が集まる場所で、どんな人間がいてもおかしくない。
芽衣が駆けつけた時、竹村茜はすでに数人の男に囲まれ、隅へ追い詰められていた。
頬は異様に赤く、目はとろんと虚ろ。
見れば一目で分かる。何かを盛られている。
「茜!」
芽衣は駆け寄り、前を塞ぐ男を強く突き飛ばした。
男たちは振り返り、芽衣の顔を見るなり下卑た笑みを浮かべる。
「おっ、もう一人来たぞ」
「こっちのほうが当たりじゃねえか」
「まとめていける? 今夜ツイてんな」
芽衣は竹村茜を背に庇い、冷えた目で男たちを睨んだ。
「どいて」
「どけ?」先頭の男が吹き出す。「ここがどこか分かってんのか。お前が言ったからって——」
言い終える前に、芽衣はテーブルの上の酒の瓶を掴んだ。
勢いよくテーブルの角へ叩きつける。
バンッ。
鋭い音が響いた。
半分に割れた瓶を握り、尖った切り口を男たちへ向ける。
目は氷みたいに冷たい。
「どいて」
男たちは一瞬、呆然とした。
気の強い女は見たことがある。
だが、迷いなく瓶を割る女はそういない。
見た目はか弱そうなくせに、躊躇なく武器を作ったのだ。
「てめ……っ」
一人が前へ出ようとしたが、仲間に止められる。
「やめとけ。こいつ、イカれてる」
芽衣は相手にせず、片手に割れた瓶、もう片方で竹村茜を支えながら、一歩ずつ出口へ向かった。
このまま個室を出られる——そう思った矢先。
不意に、驚いたような声が飛んだ。
「おや、髙野夫人じゃありませんか?」
