第5章 キスして

男は飾り気のない白いシャツ姿で、眉目は穏やか。その顔は――何年も会っていなかった先輩、江口俊也だった。

芽衣は髙野拓海のために自分の仕事を手放し、それ以来、先輩たちとも少しずつ疎遠になっていた。

江口俊也の視線が駐車場をさっとなぞり、最後に正確にそのマイバッハへ落ちる。彼は一瞬だけ足を止め、すぐに早足で近づいてきた。

次の瞬間、パッと音を立ててドアが引かれる。

竹村茜はシートの上で小さく身を縮める芽衣を見て、わずかに息を呑んだ。すぐに手を取る。

「芽衣、大丈夫? 手、こんなに冷たい……」

芽衣は首を振り、口元だけでかすかな弧を作る。

「平気」

竹村茜は、赤く腫れた芽衣の唇を見た途端、すべてを察した。立ち上がって芽衣の前に身を入れる。

「すみません、先に芽衣のこと少し整えていいですか」

「はい」

江口俊也は察して一歩退き、礼儀を保った距離を取った。

竹村茜は肩に掛けていた毛布を慌てて外し、芽衣の肩へふわりと被せる。抱きしめるようにして言った。

「あのクソ野郎、ほんと人間じゃない……よくもこんなこと! 行くよ、芽衣。あんなクズとは縁を切る。二度と関わらない」

芽衣は何も言えなかった。歯を食いしばって怒る竹村茜を見ていると、鼻の奥がつんとして、また目が熱くなる。

「……まだ、あのクズ男に期待してるの?」

竹村茜はため息をつき、声のトーンが沈む。

芽衣は静かに言い切った。

「意地でも、勢いでもない。この結婚は、絶対に終わらせる」

一方、髙野拓海はホテルの近くで、手首を擦りむいた林谷由佳を見つけていた。

林谷由佳は涙目のまま彼の胸に飛び込む。

「拓海、怖かった……手も痛い……」

髙野拓海は反射的に引き離そうとして、細い傷口に目が止まり、動きを止めた。

「かすり傷だ。なんで大人しく待ってなかった」

林谷由佳が顔を上げる。照明が彼の横顔を縁取り、滑らかで鋭い輪郭が浮かぶ。視線を奪われるほどに整っていた。

彼女の瞳は熱に濡れている。

「拓海、みんなが言ってた。拓海と芽衣が一緒に出ていったって……まさか、何かあったの?」

三年前、髙野家が突然破産の危機に陥らなければ、彼女だって夜逃げみたいに海外へ逃げたりはしなかった。

彼女が身を引いたからこそ、芽衣が髙野夫人の座に収まったのだ。

けれど今、髙野家は持ち直した。

髙野拓海は彼女のものだ。芽衣なんかに奪わせない。

「妻なんだ。何かあって悪いか?」

髙野拓海の言葉は、どこまでも気だるい。

「拓海……まだ私を責めてるの……」

林谷由佳の睫毛が小さく震え、声が委屈に滲む。

「三年前、手の怪我がぶり返して……もうダメになるところだったの。この先、二度とヴァイオリンが弾けなくなるかもしれなくて……」

幼い頃から優秀なバイオリニストとして生きてきた。誰よりも、この手に執着している。

髙野拓海は冷えた目のまま返す。

「タイミングが良すぎる。出ていくのも急すぎる。ひと言くらい言う時間もなかったのか」

「……信じてくれないの?」

林谷由佳は勢いよく身を引こうとして、目を赤くした。

「ヴァイオリンは大事。でも、拓海だって大事よ。じゃなきゃ私の手だって、拓海のために……!」

傷ついたほうの手をぎゅっと握り、意地を張るように言い放つ。

「私のこと憎いなら、いいよ。じゃあもう、別れよう!」

次の瞬間、男の腕が強く締まった。

林谷由佳の柔らかな身体が、逞しい胸にすっぽり抱き込まれる。

頭上から、少しだけ柔らかくなった声が落ちてくる。

「悪かった。言い方が悪い。怒るな」

林谷由佳は満足げに唇を吊り上げ、彼の胸に頬をすり寄せた。

「拓海……やっぱり私のこと、好きなんだよね」

個室。

扉が開いた瞬間、視線が一斉に林谷由佳と髙野拓海へ突き刺さる。

「拓海、やっと戻ったか。みんな待ってたぞ」

西田圭介はニヤつきながらテーブルのグラスを取り、二人の分の酒を注いだ。

「遅れた罰だ。まずは3杯な」

林谷由佳は恥ずかしそうに髙野拓海の腕へしがみつき、甘えた声を出す。

「拓海、私、お酒弱くて……」

すると誰かが手の傷に気づき、囃し立てる。

「拓海もさ、由佳の手こんななのに飲ませるなよ。代わりにお前が飲め」

その一言で、テーブルはどっと笑いに包まれた。

髙野拓海は眉を少し上げただけで、何も言わない。林谷由佳の前のグラスを取り上げ、自分の前へ置く。

指先で杯の縁を軽く叩き、そのまま喉へ流し込んだ。

酒が回り、個室の熱気が上がった頃。

始まったのは王様ゲームだった。

「お前の負けだな――」

西田圭介の目がくるりと回り、ハートの7を持つ林谷由佳へぴたりと止まる。

林谷由佳の頬が一気に紅に染まる。隣の髙野拓海をちらりと見て、すぐ伏し目になった。

「罰ゲームで……」

今までの罰ゲームはダンスだの芸だの、その程度だった。できる範囲のはずだったのに。

次の瞬間――

「この場の異性に、キス」

西田圭介が言い終えた途端、個室の煽り声が弾ける。

「キス! キス!」

「拓海、ぼさっとすんな! ほら、いけいけ!」

「ほっぺでいいだろ! 減るもんじゃねえ!」

林谷由佳は予想外の内容に息を呑み、それでも期待を隠しきれない目で髙野拓海を見た。瞳の奥が跳ねる。

男は椅子にもたれ、肩は緩く開き、肘を肘掛けに預けたまま、指先でグラスを弄んでいる。気だるげで、視線すら上げない。

林谷由佳の身体が、わずかにこわばった。

拓海がひと言言えば終わる。

それでも――彼は、自分にキスすることすら嫌なの?

「拓海……」

林谷由佳はそっと袖を引いた。

髙野拓海は赤くなった頬を一瞥し、さっき怯えていたこと、手首を傷つけたことを思い出す。胸の奥で、小さな罪悪感がむくりと起き上がった。

しばらくして、彼は身体をわずかに傾ける。

横顔を寄せ、薄い唇が彼女の頬に、浅く触れた。

その瞬間――

暗がりのカメラが、素早く正確にシャッターを切った。

誰も、気づかない。

24時間営業のコンビニ。

芽衣は窓際に座り、ぼんやりと何もない空を見ていた。スマホをテーブルに放ったまま、画面は点いたままロックもしていない。

江口俊也が牛乳を芽衣の前へ置き、何気なく視線を落とす。

竹村茜も芽衣の顔色を覗き込もうとして、二人の目が同時に止まった。

髙野拓海が林谷由佳の頬へキスしている写真。

画面いっぱいに、くっきり映っている。

芽衣は数秒それを見つめ、指先がかすかに震えた。小さく、笑い声が漏れる。

さっきまで自分にあんなことをしておいて、振り向けば林谷由佳とべたべた。

吐き気がするほど、薄汚い。

「そんな男のために仕事捨てたのかよ」

江口俊也が彼女の腕を軽く小突き、呆れたように舌を鳴らす。

「また恋愛したくなったら、いくらでも紹介してやる」

「私も紹介できるし!」竹村茜もすかさず乗った。「あんなのよりマシな男なんて山ほどいる。芽衣、一本の木にぶら下がって死ぬことないって!」

芽衣はただ、ゆるく首を振った。

窓の外、車の流れが途切れない通りを見つめる。瞳の奥は、どこまでも空っぽだった。

「……もう、興味ない」

髙野拓海ひとりで十分だ。

この3年、仕事を捨てていなければ、今頃もっと上へ行けていたかもしれないのに。

翌日。

芽衣は第一病院を訪れ、先輩たちと近況を交わしたあと、帰ろうとしていた。

エレベーターを降りた、その時。

入口からボディーガードがぞろぞろと流れ込み、まるで道を作るように人を押し分けていく。大袈裟な動きに周囲もざわつき、足を止めた。

芽衣は人波に押されて端へ寄せられ、そして――人の中心にある見慣れた背を見た。

すらりと伸びた体躯。

長い腕が林谷由佳の肩を抱き、優しい表情で何かを囁いている。

芽衣の呼吸が、ひゅっと止まった。

髙野拓海……それに、林谷由佳。

次の瞬間――髙野拓海が何かを感じ取ったように、鋭く芽衣のいる場所へ視線を向けた。

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