第7章 性機能障害

芽衣はしばらく無言のまま、その友達申請を開き、そのまま承認を押した。

高野拓海がどこで自分のこのアカウントの連絡先を手に入れたのかは分からない。結婚してからというもの、新しくしたLIMEで芽衣が高野拓海にメッセージを送っても、返事が来たことは一度もなかった。

不意に携帯の着信音が鳴り、芽衣の思考を断ち切った。画面には登録のない番号が表示されている。

「今、忙しい?」

受話口の向こうから聞こえてきたのは、聞き覚えのある声だった。

川村亜矢子先輩だ。

携帯を変えてから、先輩たちの番号は一件も登録していなかった。まさか向こうがまだ自分の番号を持っていたなんて。

「川村先輩、どうしたんですか?」

「明日、病院に来てくれない? ちょっと厄介な症例があってね。一緒に検討したいの」

幼い頃から大好きだったこの分野に、彼女はもう長いこと触れていない。三年ぶりだというのに、いきなり難しい症例を任される――その事実だけで、芽衣の胸は一気に熱を帯びた。

「川村先輩、もちろんです」

芽衣はきっぱりと答えた。

翌日、芽衣が病院へ行くと、川村亜矢子から患者は106号特別病室にいると告げられた。

106号室へ向かおうとした、その時だった。高野拓海の執事、鈴木からメッセージが入る。

――奥様、本日は若様の健康診断の結果をお受け取りいただく日でございます。

芽衣はふと顔を上げた。すぐ近くに健診センターがある。なら先に受け取ってしまおうと、踵を返した。

そして、薄い検査結果の束に指先が触れた瞬間――芽衣は思わず目を見開いた。

高野拓海、性機能障害と診断確定。

……高野拓海って、本当にダメなんだ。

まあ、もう自分には関係のないことだ。

芽衣は胸に浮かんだ波を素早く押し殺し、報告書を適当に鞄へしまい、そのまま106号特別病室へ向かった。

「拓海、私、すごく緊張してるの。飛鳥なら、この手……治してくれるかな?」

その声に、芽衣ははっと顔を上げ、足を止めた。

二メートルも離れていない前方に、林谷由佳と高野拓海がいた。二人はぴたりと寄り添い、まるで離れがたい恋人同士のように身を寄せ合っている。

「気にするな。俺がついてる」

高野拓海は短くそう言った。簡潔な慰め。なのに、その声色には珍しくやわらかな温度があった。

「飛鳥が手術してくれたら、私の手、治るんだよね。そしたら、あなたにふさわしいように、ちゃんと完璧になれるのに」

林谷由佳は嬉しそうに彼の胸元へ額を擦り寄せた。

芽衣はその場に凍りついたまま、二人の会話を聞き取ってしまう。川村亜矢子が言っていた厄介な症例の患者――それがまさか林谷由佳だったなんて。

互いに寄り添うその姿が、芽衣の胸を鋭く抉った。

次の瞬間、高野拓海が何かを感じ取ったように振り向いた。そして、その視線がまっすぐ芽衣の顔に落ちる。

避ける間もなかった。

冷え切ったその瞳と、正面からぶつかる。

芽衣は反射的に顔を背け、そのまま立ち去ろうとした。だが、高野拓海はすぐに立ち上がり、長い脚で数歩詰めると、あっという間に彼女の前へ回り込んだ。

「芽衣、お前……俺をつけてきたのか?」

「違うわ」

芽衣は一瞬、どう説明すればいいのか分からなかった。

106号室の患者が林谷由佳だと知っていたなら、そもそもここへ来たりしない。

スーツ姿の男は、見下ろすように彼女を睨み、唇の端に皮肉な笑みを引っかける。声量は大きくも小さくもない。ただ、周囲にきっちり聞こえる程度だった。

「また新しい男の健康診断結果でも取りに来たのか?」

林谷由佳が、さも何気ない顔で口を挟む。

「ここ、入院棟ですよ~?」

その一言で、空気がぴたりと止まった。

辺りは一瞬で静まり返り、好奇と詮索のこもった視線がいくつも芽衣へ突き刺さる。

芽衣はゆっくり顔を上げた。瞳はひややかに澄みきっている。ほんの少し顎を持ち上げ、言った。

「今回は、あなたの健康診断結果を取りに来たの」

そう告げると、鞄からあの薄い書類の束を取り出し、口元に淡い笑みを浮かべたまま差し出した。

「医師からはっきり言われたわ。あなた、性機能障害で確定ですって。家族の署名が必要だから、受け取りに来てくださいって」

その言葉が落ちた瞬間。

廊下は三秒ほど、死んだように静まり返った。

そして次の瞬間、抑えきれないざわめきが一気に広がる。

「え、あんなに立派そうなのに……」

「若いのに性機能障害って、見かけ倒しじゃない」

「うわ、気まず……」

囁き声は針のように、高野拓海へ突き刺さった。

みるみるうちに彼の顔が赤く染まり、全身から凶暴な気配が噴き上がる。

林谷由佳は横で立ち尽くし、どうしていいのか分からないといった顔をしていた。

芽衣はもう二人を見る気にもなれず、その報告書を林谷由佳に押しつけた。

「大事な人の検査結果よ。ちゃんと持ってて」

そう言い残し、彼女はくるりと背を向けた。ためらいなど、ひとかけらもない。

高野拓海は脇に垂らした手をぎりっと握りしめる。顎の線は硬く強張っていた。

――芽衣、あいつ……よくも大勢の前であんな出鱈目を。

林谷由佳は周囲から向けられる雑多な視線に耐えられず、居心地悪そうに身を縮める。

「拓海、芽衣の言うことなんて気にしないで。とりあえず病室に戻ろ?」

病室の扉が重たく閉まり、廊下の喧騒を遮断した。

林谷由佳は芽衣から渡された報告書を、そのままゴミ箱へ放り込む。

三年前、一度だけ高野拓海を誘惑したことがある。結局うまくはいかなかった。でも、あの時、確かにそこに硬い反応を感じたのだ。

なら、あれは絶対に偽造された報告書だ。芽衣がどこかででっち上げたに違いない。

「拓海……飛鳥、まだ来ないのかな……」

林谷由佳は空気を和らげようとするように、弱々しく声をかけた。

高野拓海は腕時計へ目を落とす。もう一時間以上過ぎている。それなのに、飛鳥はまだ姿を見せない。

その時、コンコンとノックの音が響き、看護師が慌ただしく入ってきた。

林谷由佳の目がぱっと明るくなる。

「飛鳥先生、来たんですか?」

看護師は二人を見て、申し訳なさそうに頭を下げた。

「高野社長、林谷様、申し訳ありません。飛鳥先生ですが、この手術はお引き受けできないとのことです」

林谷由佳の顔が強張る。

「……え?」

高野拓海は眉を寄せた。

「なぜだ?」

本人の姿すら見せずに手術を断るなど、冗談では済まない。

看護師は困ったように答える。

「飛鳥先生、先ほど一度はこちらへいらしたそうなんですが、手術は担当しないとだけおっしゃって……理由までは伺っておりません」

そう言い残し、看護師は出ていった。

林谷由佳の顔は見る間に真っ白になり、力が抜けたように椅子へ座り込む。

「拓海……どうしよう……」

やっと見えた希望だった。この手が治るかもしれないと、そう思えたのに。どうして飛鳥は急に翻したのか。

高野拓海は眉間を押さえた。

「落ち着け。俺が事情を聞いてくる」

それだけ言い残し、彼は大股で病室を出て、川村亜矢子のもとへ向かった。

「星野後輩が手術を断った、ですって?」

川村亜矢子は目を丸くした。

――星野。

その姓を聞いた瞬間、高野拓海の脳裏にある考えがよぎる。だが、その可能性は一秒で自ら打ち消した。

芽衣は、ごく平凡な女だ。

飛鳥であるはずがない。

川村亜矢子は顎に手を当て、二秒ほど考え込む。

「理由を何も言わなかったのなら……たぶん、報酬の条件が合わなかったんじゃないかしら」

その夜、芽衣のもとに再び高野拓海から友達申請が届いた。

――手術料は5000万まで上げられる。

芽衣の指先が、ぴたりと止まる。

そして、小さく嗤った。目の奥に浮かぶのは、失望だけ。

高野拓海がこれまで彼女にくれたものは、イヤリング一組だけだった。

あの時は嬉しくて仕方なかった。けれど後になって西田圭介から聞かされたのだ――それは買い物のついでについてきた景品だったと。

高野拓海は、それをただ彼女へ投げてよこしただけ。

それなのに今は、林谷由佳のたった片手のために5000万。

胸の奥が重く塞がり、息苦しささえ覚える。

芽衣はタクシーを拾い、ハイヒールを鳴らして外へ出た。

ランシーバー。

音楽が鼓膜を揺らし、濃密な灯りが肌にまとわりつく。芽衣は店の隅の席へ腰を下ろし、グラスを一杯、また一杯と傾けた。

どれくらい経ったのか。

酒の匂いをぷんと漂わせた男がひとり、ふらふらと近づいてくる。上から下まで舐めるように彼女を見回すその目には、露骨な下心がべったり張りついていた。

男はにやにやと笑いながら身を寄せてくる。

「ひとりで飲んでるの? だったら俺が付き合ってあげようか?」

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