第8章 お前はいったい誰だ?
芽衣は眉をひそめ、身体を奥へとずらして、相手にする気もなくそっぽを向いた。
だが男は立ち去るどころか、図々しく芽衣の肩に手を回してきた。
芽衣は弾かれたように立ち上がり、その手を乱暴に振り払う。
「触らないで!」
男は鼻で嗤い、指を突きつけたまま酒臭い息で吐き捨てた。
「クソ女! いい顔させといて調子に乗りやがって……覚えとけよ!」
酒が回っているせいもあって心臓が飛び出しそうだった。男の背中が人混みに紛れて消えていくのを見届けて、ようやく少しだけ息がつける。
芽衣はテーブルに残っていたグラス半分の酒を一気にあおり、立ち上がった。
……ふらり。
足元がぐにゃりと歪む。身体の芯が抜けたみたいに力が入らず、一歩踏み出すたび綿の上を歩いているようだった。
おかしい。芽衣は、こんなにすぐ酔うようなタイプじゃない。
はっと顔を上げた瞬間、少し離れた場所に潜む下卑た男が目に入った。こちらを見ながら、薄気味悪く笑っている。
――さっきの酒に、何か入れたんだ。
頭の中がぶわっと鳴った。
次の瞬間、脂ぎった大きな手が芽衣の手首をがっちり掴む。いつの間にか男は目の前にいた。黄ばんだ歯をむき出しにして笑う。
「美人さん、行こうぜ。今夜ひと晩、気持ちよくしてやるよ」
引きずられるようにして外へ連れて行かれる。芽衣は奥歯を噛み、意識を繋ぎ止めた。
バーの入口がすぐそこに見えた、その時。
芽衣は全身の力をかき集めて男の手を振りほどき、本能のままに階段口へ駆けた。身体はふにゃふにゃで、走るというより、転がるみたいに。
背後で男の罵声が飛ぶ。振り返る余裕などない。必死に逃げた。
バーの二階はクラブになっていて、個室がいくつも並ぶフロアだ。
身体の奥から熱が波のように押し寄せ、思考をかき乱していく。どれだけ曲がり角を曲がったか分からない。ふらついたまま飛び込んだ先で、芽衣は硬い胸板にぶつかった。
鼻先を掠めたのは、冷たい雪松みたいな匂い。
その香りに包まれた瞬間、芽衣の視界がぱっと開ける。
顔を上げると、そこには――ずっと、ずっと好きだった顔があった。
髙野拓海。
彼は腕の中の、骨のないみたいに崩れかけた芽衣を見下ろし、複雑な色を瞳に落とす。
「芽衣?」
「はやく……」
言葉を最後まで紡ぐ暇もなく、芽衣は髙野拓海の背を押し、彼の後ろにあった空き個室へ無理やり押し込んだ。
ドアの外を走り去る足音が遠ざかっていくのを聞いて、張りつめていた神経がようやく少しだけ緩む。芽衣はそのまま、髙野拓海の胸にずるりと凭れた。
熱い。
身体が勝手に彼へすり寄り、冷たい気配に縋る。消火してほしくてたまらない。
腕の中でくねる女。白く細い肩。胸元に覗く艶やかな線――暗い照明の下でも、いやに鮮やかだった。
髙野拓海の喉仏が上下する。呼吸が、わずかに乱れた。
芽衣の手が落ち着きなく、彼のシャツのボタンを外していく。指先が布の奥へ潜り込んだ。
「やめろ!」
髙野拓海は芽衣の手を掴み、押さえ込む。瞳の底に危うい光が揺れていた。
「芽衣。自分が何をしてるか、分かってるのか」
芽衣は頷く。灼けた息が彼の首筋にかかり、わざとらしく擦れた。
「髙野拓海……助けて」
一度だけでいい。三年前、本当はするべきだったことも、するべきじゃなかったことも――全部、今夜だけ。
きっと、答えてくれる。そう信じたかった。
けれど髙野拓海は、芽衣を乱暴に押しやった。
「触るな」
「私……薬、盛られたの……」
言いかけた芽衣の声は、彼の薄い視線に触れた瞬間、喉の奥で折れた。
そうだ。
彼は昔から、芽衣が嫌いだった。
助けてくれるはずがない。
三年前のあの事故みたいな一夜がなければ、芽衣はこの人の指先にすら触れられなかったのに。今さら、命の危険があるからといって気に掛けるような男じゃない。
髙野拓海は眉を寄せる。
――本当に、面倒な女だ。
その時、スマホが鳴った。髙野拓海は通話に出る。
「拓海、トイレ行ってから長すぎだろ。どこいるんだ?」西田圭介の声だ。
髙野拓海は苛立たしげに眉間を揉む。
「ちょっと厄介なことに巻き込まれた。女が薬やられてる。どうすりゃいい」
「は? 誰だよ!」西田圭介の声が跳ね上がる。「そんなの簡単だろ。お前が相手してやりゃいいじゃん」
髙野拓海は黙り込む。
「無理なら冷水浴びせろ。ただしキツいぞ。下手すりゃ死ぬ」
答えを得ると、髙野拓海は通話を切った。
「歩けるか」
芽衣は口元をわずかに上げ、ふらりと近づくと、まるでオクトパスみたいに彼へ絡みついた。
髙野拓海の身体が強張る。声は硬い。
「離れろ」
芽衣の意識は濁っていた。指先が彼の襟元をなぞり、布越しに引き締まった筋肉へ触れる。濡れた瞳で見上げ、甘ったるい挑発を落とす。
「どうして離れなきゃいけないの?」
「もしかして……ほんとに、ダメなの?」
押しのけようとしていた髙野拓海の手が、ぎゅっと強くなる。
「もう一回言ってみろ」
芽衣は調子に乗って、彼の胸をつん、と押した。
「あなたって、検査結果に書かれてた通り……ほんとにダメなの?」
健康診断の結果を見たとき、芽衣は病院の誤診だと信じたかった。髙野拓海がそんなはずない、と。
でも今の拒絶を見て、迷いが生まれる。
――この三年、何もなさすぎて、本当におかしくなったんじゃ……?
髙野拓海の瞳が沈む。
大きな手が芽衣の腰を掴んだ。折れそうなほど細いくびれ。
そのまま芽衣はつま先立ちになり、固く結ばれた薄い唇へ目を落とし……ゆっくり重ねた。
魔が差したのか、髙野拓海は避けなかった。逆に芽衣の後頭部を押さえ、体勢を返してソファへ押し倒す。主導権を奪い返すように。
――その瞬間。
「プルルル——」
ポケットのスマホが突然、狂ったように震えた。静かな個室に、やけに耳障りな着信音が響く。
髙野拓海の動きが止まる。苛立ちの陰が目の奥をよぎった。
画面に表示された名前は――林谷由佳。
その瞬間、身体を駆け上がっていた熱が、無理やり押し潰される。
……今、自分は芽衣に乱されていた?
どうして芽衣に、そんな気持ちになれる。
髙野拓海は自嘲し、悔しさを噛み殺す。芽衣が好きなわけじゃない。ただ誘惑に負けかけただけだ。釣られそうになった自分が情けない。
だからこそ、通話に出た声はいつもより柔らかくなった。
「由佳、どうした」
「拓海、会いたい。今から来てくれない?」林谷由佳が甘える。
髙野拓海は返事をしない。
芽衣は、彼の顔にいつもの無表情が戻っていくのを見た。さっきまでの欲の影なんて、どこにも残っていない。
熱に灼かれて頬が真っ赤だった。まるで火に炙られているみたいに苦しい。
芽衣は起き上がろうとする男を掴み、耳元へ唇を寄せる。声はとろけるほど柔らかい。
「置いていかないで……」
一度だけでいい。薬を盛られた女として、彼に縋ってみる。
林谷由佳のところへ行かないで、と。
髙野拓海は眉をひそめ、振り払おうと手を上げ――ふと、芽衣のうなじに視線が落ちた。
暴れたせいか、コートがずり落ちていた。
肩の後ろ、白い肌に覗く小さな茶色い痣。形が、あまりに特徴的で――。
その瞬間、時間が止まったみたいに。
髙野拓海の指が宙で固まり、全身が、完全に凍りついた。
