第1章

杏奈の視点

 川澤貴利が、私の「妹」――理恵の口の中へ舌をねじ込んでいた。

 アルファ・シグマクラブの別荘。EDMの重低音が床を揺らし、靴底までビリビリ震わせる。

 私は二階、階段の踊り場に立ったまま、一階のリビング中央で繰り広げられる吐き気のする光景を見下ろしていた。

 川澤貴利――S市立高校でいちばん人気のクォーターバック。私が三年間追いかけ続けた男――が、鈴原理恵を壁に押しつけてキスしている。

 掌は彼女の尻にべったり張りつき、今にも抱え上げそうな勢いだ。

 理恵。鈴原家から十七年も離れていた本物の娘で、名目上は私の妹。彼女は貴利の首に腕を絡め、発情した猫みたいに身体をくねらせていた。

 取り巻きが悲鳴みたいに歓声を上げ、囃し立てる。

「貴利と理恵、ついに付き合ったんだって!」

「杏奈の貢ぐ係、まだ知らねーだろ? ははは!」

「本物は本物だよな。偽物が勝てるわけないじゃん」

 偽物。

 それが――私のこと。

 三か月前、理恵が見つかった。鈴原家は大騒ぎで、失くした宝物が戻ったみたいに浮かれていた。

 そして私は、十七年この家にいた養女。ある日を境に「席を奪っていた偽物」になった。

 みんなの態度が、一晩で変わった。

 貴利も変わった。

 理恵と「偶然」を装って会う回数が増え、私の目の前で平然と媚びる。問い詰めれば決まって言うのだ。「おまえの妹だろ。もっと大人になれよ」

 前の人生の私は――本当に大人になってしまった。

 二人の生々しいやり取りを耐え、学校中の嘲笑を耐え、養父母の露骨な偏りを耐えた。

 そして卒業パーティーの夜。貴利は皆の前で宣言した。理恵こそが自分の彼女だと。

 私は暗い備品室に一晩閉じ込められ、翌朝ふらふらと校門を飛び出して、制御を失ったトラックにはね飛ばされた。

 死ぬほどの痛みが、いまだ骨の奥にこびりついている。

 三十分前、私はその悪夢から飛び起きた。二階の客室のベッド。全身、冷汗でびしょ濡れ。

 そして階下から、歓声が聞こえた。

 階段へ向かい――この光景を見た。

 前の人生の私なら、泣きながら駆け下りて詰め寄り、貴利の前にひざまずいて縋っただろう。

 でも今回は――

 ふざけるな。

 私はバーカウンターに置かれたシャンパンを掴み、ゆっくり階段を下りた。

 騒がしかったリビングが、すっと静まり返る。視線が一斉に私へ刺さった。

 貴利がようやく理恵を離し、振り向く。

 私を見た瞬間、口元を歪めて得意げに笑い、唇についた口紅の跡を指で雑に拭った。

「杏奈。やっと降りてくる気になったか?」

 両腕を広げ、施しみたいな口ぶりで言う。

「こっち来いよ。理恵に謝れ。今日、おまえが八つ当たりした件はそれでチャラにしてやる」

 私は、彼から三歩離れたところで足を止めた。

 理恵が下唇を噛み、目を赤くする。

「杏奈……私、貴利を誘惑したわけじゃ……貴利が先にキスして……でも、本当に好きになっちゃって……ごめんなさい……」

 周囲でひそひそ声が起きる。

「杏奈、また泣くんじゃね?」

「どうせこのあと土下座だろ」

 貴利が理恵をさらに強く抱き寄せ、額に軽くキスを落とした。

「そんな言い方すんなよ、理恵」

 吐き気がするほど甘い声。

「俺と杏奈は、最初からそういう関係じゃねえんだ。あいつが三年も一方的に追ってきただけ。俺がどうしろってんだよ」

 そして私へ視線を向け、苛立ちを隠しもしない。

「杏奈、おまえもいい加減目ぇ覚ませ。俺、最初からおまえと付き合うなんて言ってねえ。追うのは勝手だが、俺と理恵の邪魔すんな」

 前の人生の私は――この言葉で、ひざまずいた。

 みんなの前で泣いて、もう一度だけチャンスをくれって縋った。

 でも今は――

「貴利」

 私が呼ぶ。

 貴利が眉を上げ、勝ち誇った笑みを深くする。

「なんだよ。やっと自分が悪いって分かったか?」

「うん、分かった」

 私は頷き、彼へ一歩踏み出した。

 貴利の笑みがさらに広がる。

「だったらさっさ――」

 言い終える前に、私はシャンパンを丸ごとぶちまけた。

 黄金色の液体が貴利の頬を伝って滴り落ち、仕立ての白いシャツをぐっしょり濡らす。

 理恵が甲高く叫んだ。メイクが一瞬で崩れ、みすぼらしく濡れ鼠みたいになる。

 場が、凍りついた。

「私が間違ってたのは、三年もあんたを追ったこと」

 空になったグラスを置く。

「それと――あんたを人間扱いしたこと」

 貴利は二秒固まり、次の瞬間、顔の酒を乱暴に拭った。額に青筋が浮く。

「杏奈! てめぇ、頭おかしいのか?!」

 掴みかかろうとする手から、私は半歩だけ退く。

「すごく正気」

 私は目を上げ、怒りで濁ったその瞳を真正面から受け止める。

「今日から、もう追わない」

「……は?」

 貴利が信じられない、という顔で私を睨む。

「言ったでしょ」

 一語ずつ噛みしめるみたいに告げる。

「私たち、ここで終わり。縁を切る。聞こえた? 川澤貴利」

 周囲から息を呑む音が漏れた。

 貴利の顔が真っ赤になる。

「おまえ、自分が何様だと思ってんだ! 今日このドア出たら、あとで土下座して頼んでも――俺は二度とおまえなんか見ねえ!」

「それが理想」

 私は笑った。

「どうぞお幸せに。本物のお姫様と、末永くお似合いで」

 言い捨てて踵を返す。背後の怒鳴り声など気にも留めず、私は深秋の冷たい雨の中へ踏み出した。


 冷たい風が雨粒を連れて顔を叩き、Tシャツを容赦なく濡らしていく。

 なのに、胸は軽かった。こんなにも自由だなんて。

 前の人生の私は、貴利を繋ぎ止めるために、鈴原家から捨てられないために、埃の中まで這いつくばった。

 その結果が、卒業パーティーでの公開処刑と、命を奪った事故。

 もう二度と、同じ道は歩かない。

 私は雨の中でスマホを取り出し、連絡先の奥に眠っていた、これまで一度もかけたことのない番号を選ぶ。

 竹越政司。

 S市立高校アイスホッケー部の主将。校内における、もうひとつの極端。

 冷淡で、荒っぽい。理事ですら顔色を窺うという、財閥の御曹司。

 前の人生で、貴利が私を皆の前で侮辱したとき。政司は氷みたいな顔で、貴利に「出ていけ」と言い放った。

 それから間もなく、仲のいいはずの二人は完全に決裂した。

 理由は――死ぬまで分からなかった。

 ただ、覚えている。

 私の貧相な葬儀に来たのは、たった一人。彼だけだった。

 発信を押す。

 コールが三回。繋がった。

 受話口から、低い男の声。

「用件」

「政司、雨がひどいの」

 一拍置いて、言った。

「アルファ・シグマクラブの外で足止め食らってる。迎えに来てくれない?」

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