第2章

杏奈の視点

 電話の向こうが、二秒ほど沈黙した。

 切られるかと思った、その瞬間。低く、掠れた声が戻ってくる。

「動くな。五分」

 秋雨は勢いを増し、私は街灯の下に立った。薄いカーディガンなんて、冷え込みの前では紙同然。

 それでも軒下には戻らない。いまの私が惨めに見えれば見えるほど、ある種の人間の庇護欲を掻き立てられると知っているから。

 四分も経たないうちに、黒いアストンマーティンが雨を切り裂いて滑り込んできた。低く唸るエンジン音が、目の前でぴたりと止まる。

 水しぶきが派手に散った――のに、不思議と私だけは濡らさない。

 窓が下がり、政司の角ばった横顔が露わになる。彫りの深い眉骨、通った鼻筋、きつく結ばれた顎のライン。

 胸がきゅっと締まった。

 彼は少し離れたところでまだ騒いでいるクラブ併設の別荘には目もくれず、灰色の瞳で私だけをまっすぐ射抜いた。

「乗れ」

 私はドアを開け、助手席に滑り込む。車内には薄いミントとレザーの匂い。暖房はしっかり効いているのに、思わず小さく震えが走った。

 政司は、まだエンジンをかけない。

 濡れた髪から、震える肩へ。視線がゆっくりと移動し、彼の眉が寄った。次の瞬間、後部座席から黒いパーカーを引っ掴み、私の頭に投げる。

「着ろ」

 彼の服だ。彼特有の匂いが、ふっと私を包み込む。私は大きな襟ぐりから顔を出して言った。

「ありがとう」

「貴利は?」

 前を向いたまま、指が気だるげにハンドルを叩く。

「別れた」

 政司の手が、宙で止まった。

 彼が振り向く。目を細めて。

「……本気か?」

「みんなの前で、シャンパンを貴利と理恵の顔にぶっかけた」肩をすくめ、それから身体を傾けて肘掛けに体重を預け、彼に寄る。

「政司、私……行くところがないの。今夜、鈴原家は理恵の祝いでしょ。帰りたくない」

 政司の喉仏が、ごくりと上下した。

 薄暗い車内で、彼が顎を噛みしめるのが見えた。私を見つめる目が、吸い込まれそうなほど深い。

「杏奈」掠れた声で。

「誰に言ってるかわかってんのか」

「わかってる」私は退かない。

「全校でいちばん危ない、竹越政司に」

 政司が鼻で笑い、アクセルを踏み抜いた。

 車は雨夜へ弾けるように飛び出す。

「シートベルト、締めろ」

――

 三十分後。車はS市市立高校の敷地内に入り、最上階のVIP寮棟の地下駐車場で停まった。

 政司が降り、私も続く。

 歩くのが速い。広い肩と引き締まった腰、その背中から、近寄りがたい気配が滲む。

 私はその背を見つめながら、口元を吊り上げた。

 前世の私は本当に目が腐ってた。こんな金山を放って、貴利みたいなゴミを拾うなんて。

 エレベーターは最上階へ直行した。

 指紋認証。ドアが開いた途端、モノトーンのミニマルな空間が押し寄せてくる。冷えたモデルルームみたいに、生活感がない。

「風呂入れ。浴室は左」鍵をテーブルに放る。

「アメニティは棚にある」

 私は動かなかった。

 政司は濡れた黒いコートを脱ぐ。下はタイトな黒Tシャツで、筋肉のラインがはっきり出ている。振り返って、まだ玄関に立つ私に気づいた。

「……なんだ」眉を上げる。

 私は唇を噛んだ。

「着替えが……ない」

 政司は五秒ほど、黙って私を見た。

 それから深く息を吸い、踵を返して寝室へ大股で消える。

 しばらくして戻ってきた手には、大きめの白いTシャツと灰色のスウェットショーツ。私の胸元に押しつけるように渡してくる。

「俺のを着ろ」声が張り詰めている。

「その目で見るな、杏奈。俺は貴利みたいな役立たずじゃない。自制が、お前の思ってるほど強くねえ」

 私は服を抱え、顔を上げ――ふっと笑った。

 背伸びして彼の耳元へ近づき、囁く。

「じゃあ……もし、私がコントロールしてほしくないって言ったら?」

 政司の身体が、瞬間的に硬直した。呼吸が一気に荒くなる。

 彼は乱暴に一歩引いた。

「風呂に行け」背を向ける。

「火遊びすんな、杏奈」

 私はそれ以上言わず、浴室へ向かった。

――

 ぬるいお湯が、冷えと疲れをじわじわ洗い流していく。私はわざとゆっくり、時間をかけた。

 政司のTシャツに袖を通して出ると、裾はちょうど太ももを隠すくらい。がらんとした襟元から鎖骨が大きく覗く。

 淡いボディソープの香りが、空気に残っていた。

 政司はソファに座り、氷を入れたウイスキーを手にしている。物音に気づいて顔を上げた。

 灰色の瞳が私を捉えた瞬間、その色がすっと沈む。

 グラスを握る指が強張り、関節が白く浮いた。

「……こっち来い」命令口調で言った。

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