第3章

杏奈の視点

 裸足のままカーペットを踏み、私は彼の前まで歩いていった。

 けれど、彼は座れとも言わない。ただ顎を上げて、じっと私を見上げてくる。

「なんで髪、乾かさないんだ」眉間に皺。

「面倒くさい」私は胸を張る。

 ため息。彼はグラスを置いた。

「ソファに座ってろ」

 数分後、政司はドライヤーを手に戻ってきた。

 私は大人しくロングソファに腰を下ろす。背後に立った彼がスイッチを入れると、ぶぉん……という低い唸りと一緒に、温かな風が流れた。長い指が髪を梳き、するりと隙間を抜けていく。

 意外なほど、優しい手つき。

「鈴原家のこと、どうするつもりだ」

 ドライヤーの音に紛れて、唐突に訊かれる。

「出ていく」目を閉じたまま答える。

「もともと、あそこは私の居場所じゃない。理恵が戻ってきたんだし、あいつら……私が消えてくれるのを待ってる」

 ぶつり。

 ドライヤーの音が止んだ。

 政司が私の前へ回り込み、見下ろす。

「なんで早く出なかった。貴利のためか?」

 嘲るような口ぶり。その奥に、ほんの少し――酸っぱいものが混じっている。

 私は目を開け、強張った彼の顎のラインを見た。胸の奥から、悪戯心がふっと湧く。

 立ち上がるや否や、私は彼の膝の上に跨り、そのまま首に腕を回した。

 政司の身体がびくん、と固まる。反射的に両手が私の腰を支えた。掌が熱い。薄い布越しでも伝わってきて、思わず肩が小さく震える。

「なに、嫉妬?」吐息が絡む距離で、私は囁いた。

 喉仏が大きく上下する。

「煽るな、杏奈。降りろ」

 押し退けようとする手は、情けないほど弱い。押すというより、引き留めているみたいだ。

「やだ」

 降りるどころか、私はさらに近づいた。鼻先が触れそうな距離。

「政司。私に何も感じてないって言える? じゃあ、なんで今夜迎えに来たの。なんで私に自分の服を着せたの」

 彼の目が、危険な色に変わる。追い詰められた狼みたいに。

「俺が……頭おかしくなったからだ」

 噛み殺すような声。

 次の瞬間、彼は私の後頭部を掴み、乱暴に唇を奪った。

 ――くそ。

 唇をこじ開けられ、容赦なく侵入される。まるで、私という存在ごと飲み込むみたいに。

 喉の奥から、かすかな甘い声が漏れた。

 彼の腕がきつく回り、腰を抱え込む。隙間なく押し付けられて、逃げ場がない。

 息ができない。私は彼の肩に縋るしかなく、ただ奪われるままになった。

 ようやく唇が離れる。額と額が触れ合い、乱れた呼吸がぶつかった。

「自分が何してるか、わかってんのか」

「わかってる」

 喘ぎながら、指先で彼の硬い顎のラインをなぞる。

 呼吸が一気に荒くなる。

「杏奈……」警告。

 止めない。指はさらに下へ。熱い喉仏を、そっと撫でる。

 彼の身体のあちこちが張り詰めているのがわかる。この支配感が、癖になる。

 そのとき、テーブルの上のスマホがぶるるっと震えた。

 画面に浮かぶのは、貴利の名前。

 政司が一瞥し、眉を寄せる。

「出ないで」私は彼の手を押さえる。

「出ないほうが面倒になる」彼は私を見た。

「静かにしろ」

 彼は通話に出て、スピーカーを入れる。

「貴利」

「政司!」受話口の向こうから、貴利の怒鳴り声が飛んできた。

「杏奈見たか!?」

「クソ女がシャンパンぶっかけやがって! みんなの前でだぞ!」

 政司の片手は私の腰に添えられたまま、もう片方でスマホを持つ。声は淡々としている。

「知らない。飲みすぎたんじゃないのか」

「飲みすぎてねえ!」貴利はさらに声を張り上げた。

「絶対学校の近くにいる! 政司、お前も見張っとけ。見つけたらすぐ電話しろ!」

「今日こそ跪かせて、泣いて頼ませてやる!」

 貴利の喚きを聞きながら、私は思わず笑ってしまった。

 前の私は、本当にそうした。跪いて、泣いて、許してくれって縋った。

 でも今は違う。私はその親友の腕の中にいて、貴利の滑稽な怒号を子守唄みたいに聞いている。

 私は俯き、政司の首筋にそっとキスを落とした。

 政司の身体がびくりと跳ね、腰を支える手がぎゅっと強くなる。

 彼がこちらを睨み、声にならない警告を飛ばす。

 それでも止めない。

 唇を首筋から上へ。耳朶を軽く噛む。

 政司の呼吸が一気に乱れ、低い呻きが漏れた。

「政司?」電話の向こうで貴利が言葉を止めた。

「……おい、何してんだよ。なんで息荒いんだよ」

 政司の目が、さらに危険に光る。

 片手で私の後頭部を掴み、無理やり止めさせる。もう片方でスマホを握ったまま、声を整えようとする。

「別に。トレーニングしてただけだ」

「トレーニング?」貴利が疑う。

「この時間に?」

「文句ある?」

 政司が気を取られた隙に、私は首筋に頬を擦り寄せ、そして喉仏の盛り上がりを口に含んだ。

 政司の身体が弓みたいに張り詰め、指が私の腰に食い込む。

 痛い。

 でも、やめたくない。

 舌先でゆっくり舐め、喉仏が激しく上下するのを感じ取る。

「……まあな」貴利の声が少し落ち着く。

「お前、筋トレ狂だもんな。で、今夜寮戻る? 俺、理恵連れて帰るかもしれねえ……」

 その瞬間、私はわざと力を強め、歯を立てた。

 政司が堪えきれず、喉の奥で低い声を漏らす。

 小さいのに、静かな部屋ではやけに鮮明だった。

 電話の向こうが、すっと静まり返る。

「政司」貴利の声が沈む。

「お前の部屋、誰かいるだろ」

「今の声……まさか、マジでやってんのか?」

 政司の身体はますます硬くなる。

 私を見つめる瞳には、抑え込んだ衝動と、言葉にしにくい欲が絡み合っている。

 私は彼の耳元へ寄り、私たちにしか聞こえない声で囁いた。

「私、いないって言って」

 政司の喉仏が大きく動く。

「考えすぎだ」彼は言った。

「映画観てるだけ」

「映画?」貴利はまだ疑っている。

「……まあいい。邪魔したな。杏奈は見つけたら連絡しろよ」

「わかった」

 通話が切れる。

 政司はスマホを放り、私の後頭部を掴んで、また乱暴に口づけた。

 下唇を噛まれ、痛みに目尻がじわりと濡れる。

「わかってんのか。お前、火遊びしてる」唇が離れ、声がしゃがれていた。

「杏奈……お前、俺を誘惑してる」

「うん」私は息を整えながら、深くて危ない目を見返す。

「それで?」

 彼の視線は、むき出しの欲望と、必死の自制で揺れている。

「後悔するぞ」歯を食いしばるみたいに言った。

「しない」私は首に腕を回す。

「政司。私、こんなに冴えてるの初めて」

 彼がまた口づける。

 今度はもっと荒く、もっと制御を失って。

 腰にあった手が上へ滑り、薄いTシャツ越しに、熱い掌が胸を覆った。

 ――くそ。

 身体の力が抜けていく。

 彼の脚の間の硬い熱が、いちばん敏感な場所に当たっているのがはっきりわかる。

 ……なに、この大きさ。

 空気がますます熱を帯び、理性が溶けかけた、そのとき――

 バンッ!

 バンッ、バンッ、バンッ!

 玄関の外で、荒々しいノックが響いた。

「政司! 開けろ! 杏奈が中にいるの分かってんだ!」

 貴利の声だった。

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