第4章

杏奈の視点

 くそ……。

「政司! 開けろ! 日村がおまえが杏奈を連れてくの見たってよ!」扉の向こうで貴利が怒鳴り散らす。

 私は政司の腕の中から跳ね起きた。心臓が暴れて、息が詰まる。

「寝室」彼は大きく息を吸い、腫れた私の唇を親指でなぞった。

「クローゼットに隠れろ。俺が呼ぶまで、絶対に声を出すな」

 うなずくと、私は裸足のまま寝室へ駆けた。

「おまえ、頭いかれてんのか?」政司がドアを開ける。

「誰の許しで俺のドア叩いてんだよ」

 ウォークインクローゼットに滑り込み、扉を少しだけ残して閉めた。

「とぼけんな!」貴利が踏み込んでくる。

「日村が言ったんだ、杏奈がおまえの車に乗ったって! どこだ!?」

「それがどうした」政司の声は鼻で笑うみたいに冷たい。

「人を送ったくらいで、おまえに報告しなきゃなんねえのか」

「杏奈は俺の女だ!」貴利が吠える。

「へえ?」政司が嘲るように笑う。

「振ったって話、俺は聞いてるけど。理恵と寝てるときは、杏奈が『俺の女』だなんて思い出しもしなかったくせに」

「てめぇ……!」貴利は荒い息を吐く。

「あいつは拗ねてるだけだ。政司、出せ。今日のことはなかったことにしてやる」

「なんで俺が」

「兄弟だからだろ!」貴利の声が跳ね上がる。

「政司、俺はおまえを兄弟だと思ってた。それで背中から刺すのかよ!」

 一瞬、沈黙。

「兄弟?」政司の声はさらに冷えた。

「貴利。先に裏切ったのがどっちか、ちゃんと考えろ」

 裏切り……? 何のこと――。

 私はクローゼットの内壁に背を押しつけた。心臓が太鼓みたいに鳴る。

「くそっ!」貴利が完全にキレた。

「あのクソ女に何飲まされてんだよ!?」

 鈍い音。

 扉の隙間から見えたのは、政司の拳が壁にめり込む瞬間。貴利の顔から数センチの距離だ。

「もう一回言ってみろ」政司が低く脅す。

 貴利は数秒、政司を睨み――ふっと冷笑した。

「……ああ、わかった」口元を拭い、「竹越政司も女で狂うってわけか。じゃあ今日は、そいつがどこに――」

 足音が寝室へ向かって突っ込んでくる。

「貴利!」

 取っ組み合う音。どん、と何かが壁にぶつかる。

「どけ!」貴利が怒鳴った。

 寝室の扉が乱暴に押し開けられる。

 入口に立った貴利の目が、狂ったように部屋を舐め回し――最後にクローゼットへ突き刺さった。

 手のひらが冷や汗でびっしょりになる。

 そのとき、横に掛かっていた特大の黒いフードパーカーが目に入った。

 反射的にそれを掴み、頭からかぶる。フードを深く引き下ろし、しゃがみ込んだ。扉に背を向け、身体を小さく丸める。

「杏奈! いるのはわかってんだ!」貴利が大股で近づく。

「貴利!」政司が飛び込んできて、貴利の肩を掴んだ。

「いい加減にしろ!」

「離せ!」貴利が振りほどき、勢いよくクローゼットの扉を引き開けた。

 光が差し込む。

 私は背を向けたまま、隅で縮こまっていた。背中だけ見れば、痩せた男の子みたいに見えるはずだ。

 貴利が固まった。

 空気が、凍る。

「……は?」貴利の声が妙に裏返る。

「政司、おまえのクローゼットに……なんで人がいるんだよ」

 私は唇を噛みしめ、微動だにしない。

 政司が前に出て、私を隠すように立った。

「おまえに関係ねえだろ」

「くそ……」貴利が一歩退く。政司と私を見比べ、顔色がぐちゃぐちゃに歪む。

「おまえ……おまえ、政司……男が好きなのか!?」

 危うく笑い声が漏れそうになった。

「出てけ」政司の声は氷みたいだ。

「いや、待て……」貴利は完全に混乱している。

「兄弟、いつから……俺、マジで知らな――」

「出てけって言ってんだ」政司が噛み砕くように言う。

「わ、わかった。帰る」貴利は両手を上げて後ずさる。

「俺、何も見てねえ……」

 扉のところで立ち止まり、ふと思い出したように言った。

「……待てよ。じゃあ杏奈は? 日村が――」

「アルファ・シグマの前を通ったら、雨ん中に立ってた」政司が遮る。声は妙に落ち着いていた。

「だからバス停まで送った。それだけだ」

「それだけ?」貴利が疑う。

「他に何がある」政司が冷たく見下ろす。

「おまえみたいに、女見たらベッドに引きずり込むと思ってんのか」

 貴利が言葉に詰まり、顔を真っ赤にする。

「それに」政司は畳みかける。

「おまえが捨てた相手を、誰かが助けたらダメなのかよ。貴利、おまえ人として終わってるぞ」

「俺は……」貴利は口を開けたまま黙り、クローゼットに一度視線をやってから政司へ戻した。喉仏がごくりと動く。

「政司、その……おまえのこと、俺は言わねえ。兄弟だし、わかる」

「わかんなくていい」政司がドアを開ける。

「消えろ」

「……はいはい」貴利は気まずそうに笑い、足早に出ていった。

 バタン、と扉が閉まる。

――

 部屋はまた、死んだみたいに静かになった。

 私はクローゼットの中でしゃがんだまま固まっていた。脚が痺れて感覚がない。

 しばらくして、政司が寝室に戻り、クローゼットの扉を開けた。

 もう我慢できなくて、私は吹き出した。

「ははははっ……やばい……!」涙が出るほど笑いながらフードを脱ぐ。

「あいつ、政司がゲイだと思った!」

「笑ってる場合か」政司が私を睨む。

「笑うでしょ!」私は彼の手を掴んで立ち上がる。膝がまだふらつく。

「竹越政司。学校一人気のアイスホッケー部のキャプテンが、男好きだと思われたんだよ?」

 私は顔を寄せ、意地悪く笑った。

「名誉、終わったね」

「……そうか?」政司が目を細める。危ない光が走った。

「そうだよ」私は彼の胸を指でつつく。

「貴利が言いふらしたら、S市中が――あっ」

 言い終える前に、政司が私の後頭部を掴み、乱暴に口づけた。

 下唇を噛まれ、痛みが走る。舌先が歯の隙間をこじ開け、奪い取るみたいに入り込んでくる。

「笑い足りたか?」唇の隙間で、低く甘い息が落ちた。

「杏奈。今ここで泣くまで抱いてやろうか?」

 喉がからからなのに、私はそれでも挑発をやめない。

「笑っただけ……どうするの、ゲイ先生――」

「じゃあ今、証明してやる」政司が私を抱き上げ、ベッドへ大股で向かう。

「俺が男と女、どっちが好きか」

「待って――政司――」

 ベッドに放り投げられ、彼の身体が覆いかぶさった。

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