第1章 離婚に同意する
ひっそりとした路地裏に、耳をつんざくブレーキ音が響き、タイヤが地面の埃をぶわっと巻き上げた。
運転席では、女が青ざめた顔でハンドルをきつく握りしめている。力を込めすぎた指先は、じわじわと白くなっていた。
彼女の名は相馬寧。二十五歳。
そして三十分前、彼女は自分の夫――守屋グループ社長、守屋蒼河の浮気現場を、この目で見た。
三年の結婚生活は、彼が甘やかな顔で別の女を腕の中に抱き寄せた、その瞬間に完全な茶番へと成り果てた。
しかも相手の女は、相馬寧にとって見知らぬ存在ではない。
帝都の名家、夏目家の令嬢――夏目茉莉。
あの頃のことを思い出す。大学を出たばかりの彼女に、守屋蒼河は盛大なプロポーズをした。帝都で知らぬ者がいないほどの大騒ぎだった。
守屋蒼河は相馬寧を死ぬほど愛していて、彼女以外は妻にしない――誰もがそう信じていた。
けれど今、彼は別の女を愛している。
あるいは、その心の半分を、ほかの誰かに分け与えたと言うべきか。
騒ぐべきだろうか。
怒るべきだろうか。
それとも、悲しんで泣くべきなのだろうか。
たぶん、どれもできない。
静かに気持ちを整えると、相馬寧はスマホを取り出し、一件の電話をかけた。
コールがつながる。彼女は低く落ち着いた声で告げた。
「……守屋蒼河と離婚する件、承諾します」
電話の向こうで守屋の父が何か言ったのだろう。相馬寧は形のいい眉を寄せ、わずかに苛立ちをにじませる。
「ご安心ください。あの人には、きちんと離婚協議書に署名させます。でも、私に約束してくださったものは、そちらも必ずご用意ください」
それだけ言うと、通話を切った。
スマホをポケットへ戻そうとしたとき、ふと助手席の黄ばんだ紙袋が目に入る。相馬寧はそれを見つめ、何かを思案するように目を細めた。
二時間後。
守屋家の本邸。
守屋蒼河が扉を押し開けて入ってきたとき、彼は反射的にリビングのソファへ視線を向けた。だが、そこに相馬寧の姿はない。
いつもなら、帰宅するたび彼女はそこに座っていて、彼を見つけるなり笑顔で駆け寄ってくる。上着を受け取り、親しげに「疲れてない?」と声をかけてくれた。
けれど今夜は、そのどれもなかった。
守屋蒼河は伏し目がちになり、目の奥をかすめた感情を隠すようにコートを脱いで使用人へ渡した。そのまま靴を履き替え、二階へ上がる。
寝室の前まで来て扉に手をかけた、そのときだった。
隣の書斎から話し声が聞こえてくる。
彼は手を引っ込め、向きを変えて書斎の扉を開けた。
掃き出し窓の前で、相馬寧が電話をしていた。物音に気づいて振り向き、彼を見ると、一瞬だけ目を見開く。だが次の瞬間には、唇をやわらかく持ち上げて、ふっと微笑んだ。
「はい、木村社長。それでは、ご一緒できるのを楽しみにしております。こちら、少し立て込んでおりますので先に失礼しますね。何かありましたらいつでもご連絡ください。ええ、もちろんです。では、失礼いたします」
通話を終えた彼女は顔を上げ、先ほどまでの仕事口調をきれいに消して、ひどくやさしい声音で言った。
「お帰りなさい。どうして先に連絡してくれなかったの?」
その笑顔を見た瞬間、守屋蒼河の胸にあったわずかな違和感は、跡形もなく消え去った。
彼は彼女のもとへ歩み寄りながら、軽く笑う。
「驚かせたかったからな」
驚かせたかった――
相馬寧は心の中で冷たく笑った。
悪夢の間違いでしょう。
そう思っているうちに、彼はもう目の前まで来ていた。ポケットから上品に包装された小箱を取り出し、蓋を開ける。
中に収まっていたのは玉の腕輪。透き通るような艶を帯び、見るからに高価だ。
「出張先で見つけたんだ。君に似合いそうだったから買ってきた。手、出して。つけてやる」
相馬寧は小さくうなずき、手を差し出した。彼に腕輪をはめさせる。
――明らかに、サイズが大きい。
「……少し大きいのね」
何気ないふうを装ったその一言に、守屋蒼河の表情がかすかに揺れた。その変化を、相馬寧が見逃すはずもない。
ついさっき、夏目茉莉のSNSで見たのだ。彼女の手首には、これとまったく同じ腕輪があった。ただし向こうは鮮やかな翠色で、サイズもぴったりだった。
つまり――
自分のこれは、おまけということなのだろうか。
「このサイズしかなかったんだ。問題ないさ。小さいよりは、大きいほうがいいだろ」
守屋蒼河は笑ってそう言うと、すぐに話題を変えた。
「さっき、誰と電話してたんだ?」
相馬寧は手を引っ込め、彼に触れられた箇所を無言でそっと拭う。
「星月エンタテインメントの木村社長よ。次の企画がもうすぐ始まるらしくて、制作陣もいいし、主演も今伸びてる若手同士。ヒットの見込みがありそうだったから、守屋グループで衣装班と出資枠を取れないか掛け合ってみたの。ほら、契約書も届いてるわ」
そう言いながら、彼女は机の上の黄紙の封筒を手に取り、中から書類を抜き出した。
「ちょうど帰ってきたところでよかった。サインしてくれる? 明日、公証に回したいの」
守屋蒼河は疑いもせず、すぐにうなずく。
「いいよ」
そう言って書類を受け取ろうとした彼を見て、相馬寧はさっと彼をデスクチェアへ押し座らせ、契約書を署名欄のページに開く。さらにペンまで取って、目の前に差し出した。
「安心して。内容は全部確認済みよ。うちにとって損のない話だから」
その言葉に、守屋蒼河は考えることすらやめてしまった。
「……わかった」
彼は迷いなく名前を書き込む。
その瞬間、相馬寧の胸の中でひとつ、大きな石が音もなく落ちた。
彼女の目が一瞬だけ沈み、そのまま静かに書類を閉じて封筒へ戻す。
「もう気にしなくていいわ。あとは私が手配しておく。出張帰りで疲れてるでしょう? 先にお風呂に入ってきたら?」
守屋蒼河は立ち上がり、相馬寧の腰を抱き寄せると、その額に軽く口づけた。
「寧々。君がいてくれて、本当によかった」
ここまで守屋グループが大きくなれたのは、ずっと傍で彼を支え、策を授けてくれた相馬寧がいたからだ。
――それでも、彼は浮気した。
滑稽だ、と相馬寧は思う。
同じ空間にいるだけでも吐き気がするのに、親しげに触れられるなど耐え難い。それでも顔には何事もないふりを貼りつけ、平然としていなければならない。
本当に、虫唾が走る。
「じゃあ、先に入ってくる」
「ええ、いってらっしゃい」
守屋蒼河は本当に疲れていたのだろう。そのまま背を向けて出ていった。だから気づかなかった。振り返った瞬間、相馬寧の顔からぬくもりがすっと消えたことに。
やがて彼が浴室から出てきた頃には、もう相馬寧は家にいなかった。
残されていたのは、二十分前に届いたLINEだけ。
【伊希が失恋しちゃって。今夜は一緒にいてあげるね。あなた、先に休んでて】
それと、ほぼ同時に別のメッセージが一通。
【蒼河お兄ちゃん、会いたいよ。Starにいるの。来てくれる?】
気を取られた彼は、相馬寧の文面に潜む違和感にさえ気づかなかった。
彼女は普段、こんなふうにあからさまに「あなた」などとは呼ばない。
一方その頃――
Starバー。
少し奥まったボックス席で、星野伊希は向かいに座る相馬寧を見つめ、ふうっとため息をついた。
「男ってさ、ほんとみんな同じよね。そう思わない?」
ひとつだけ、相馬寧は守屋蒼河に嘘をついていない。
星野伊希が失恋した――それは事実だ。
ただし、長年の親友である相馬寧は、彼女が失恋するたびの惨状を何度も見てきた。
「その通りね。男なんて、みんな同じ」
相馬寧は皮肉っぽく笑い、グラスを手に取って一気にあおった。
ブブッ――
ポケットの中でスマホが震える。
彼女はグラスを置き、画面を確認した。差出人は知らない番号。本文はなく、添付された写真が一枚だけ。
薄暗い空間の中、きつく絡み合う男女の体。その影が壁に映っている。
誰が見てもわかる。
そこにあるのは、紛れもなく、ひどく親密な行為の気配だった。
