第2章 彼女はもう彼を要らない
このメッセージを送ってきた相手が誰なのか――もはや言うまでもなかった。
相馬寧は伏し目がちになる。長いまつげの下に隠れた瞳の奥には、かすかな苛立ちが沈んでいた。
長い年月をかけて積み重ねてきた想いを、一朝一夕で手放せるほど、人の心は器用じゃない。
それでも彼女は、何度でも自分に言い聞かせる。
汚れた男は、もう自分の世界にいてはいけない――と。
そのときだった。星野伊希が相馬寧の背後へ視線を向けたまま、はっと目を見開く。
「え、ねえ、寧々。あたしの見間違いじゃないよね。あれって……」
相馬寧は我に返り、彼女の視線を追って振り向いた。
すると、バーの入口から、ひと組の男女が身体を寄せ合うようにして入ってくるのが見えた。
骨の髄にまで刻み込まれたあの顔を、彼女は一生忘れない。
守屋蒼河と、夏目茉莉。
星野伊希の酔いは、その瞬間に半分以上吹き飛んだ。
守屋蒼河は誠実な男だと、誰もが思っていた。もちろん、星野伊希もそのひとりだ。
なのに、浮気――
相馬寧は視線を戻し、あまりに静かな声でひと言だけ告げた。
「見た通りよ」
夏目茉莉も守屋蒼河も、隅の席にいる彼女には気づかない。そのまま真っすぐ二階へ上がっていく。
まさかこんな場所で守屋蒼河と鉢合わせするなんて、相馬寧も思っていなかった。どうやら彼女が家にいないとわかった途端、彼も寂しさを持て余したらしい。
「行こ。もう飲む気しない」
あの二人の顔を見たせいで、すっかり興が冷めた。
そう言って相馬寧は最後の一杯を飲み干し、立ち上がって出口へ向かう。
階段脇を通りかかったとき、中から会話が聞こえてきた。
「蒼河さん? なんでこんなとこにいるんすか。って、あれ……夏目嬢じゃないですか? お二人、これって……」
「見りゃわかるだろ。まあ正直、蒼河さんとこの奥さんじゃ、夏目嬢には敵わないんじゃないか?」
「だよなあ。夏目嬢は若くて綺麗で、そのうえ優しくて上品だし。蒼河さん、さっさと相馬寧と別れて、夏目嬢と一緒になっちゃってくださいよ。俺ら、祝い酒の準備して待ってますから」
……
下卑た笑い声が重なり、相馬寧の足がぴたりと止まった。
守屋蒼河と付き合って五年。彼の周りにいる人間のことなら、彼女もよく知っている。
今笑っている連中は、まさしく彼の友人たちだった。
星野伊希は拳をぎゅっと握りしめ、怒りを押し殺した声で吐き捨てる。
「……あいつら、口ごと引き裂いてやる」
そう言うが早いか、彼女はまっすぐ突っ込んでいった。
相馬寧が止める間もなく、星野伊希は鉄扉を蹴り開ける。
バァンッ――!
激しい音が響き、階段の踊り場にいた全員の視線がいっせいにこちらへ向いた。
相馬寧の姿を認めてもなお、夏目茉莉は守屋蒼河の腕に親しげにしがみついたまま、離そうともしない。
けれど守屋蒼河の顔色は一瞬で変わった。真っ先に夏目茉莉を押しのけると、慌てて階段を下り、相馬寧の前まで来て口を開く。
「どうして君がここにいるんだ?」
その声音には、わずかな苛立ちすら混じっていた。
相馬寧は顔を上げる。美しいその目に、もう甘やかな情はひとかけらも残っていない。あるのは、ただ冷え切った無関心だけだった。
「どうして私がいちゃいけないの? このバーって、守屋社長の持ち物だったかしら」
守屋社長――
その呼び方は細い棘となって守屋蒼河の胸に刺さった。彼は眉をきつく寄せる。
「そういうことじゃない。君が思ってるような関係じゃないんだ。帰ったらちゃんと説明する。だから君は――」
言いながら手を伸ばしてきたが、相馬寧はひらりと身をかわした。
「守屋社長、よしてください。あなたの夏目嬢が、そこで見ているでしょう」
一拍置いて、相馬寧は困ったように肩をすくめる。続けて視線を男たちへ向けた。
「人の価値は、『優しい』『気が利く』『若くて綺麗』なんて、そんな薄っぺらい言葉だけで決まるものじゃないの。まあ、あなたたちの頭で理解できるとは思ってないけど」
それから、ふっと笑う。
「ついでにひとつ訂正しておくわ。守屋蒼河が私を捨てるんじゃない。私が、この人をいらないと思ったの」
もう、いらない。
愛のない結婚も。
守屋蒼河という男も。
そして、彼を愛していた自分の気持ちさえ。
相馬寧は一歩下がると、そのままきっぱりと背を向けた。歩みに、ためらいも未練もない。
バーを出た瞬間、体裁という薄皮を自分の手で引き裂いたような気がして、胸の奥が妙にすっとした。空気さえ、さっきより澄んで感じられる。
――守屋蒼河が追ってこなければ、なおよかったのに。
「相馬寧!」
背後から、彼の声が近づいてくる。
ほどなくして守屋蒼河は彼女の前に回り込んだ。その整った顔には、珍しく焦りが滲んでいる。
「もうやめてくれないか」
相馬寧はふっと笑った。
「私が騒いでるように見えるの? じゃあ、どうすればよかったの。外で女を作るあなたを黙って見過ごして、世間知らずの籠の鳥みたいにしていれば満足だった? 守屋蒼河、あなたは私にそうしろって言うの?」
守屋蒼河は口を開きかけた。けれど反論の言葉は結局出てこず、最後に絞り出せたのはぎこちないひと言だけだった。
「……違う」
彼はちらりと相馬寧の後ろを見た。誰も追ってきていないことを確かめるようにしてから、声を潜める。
「夏目家はこの前、アメリカの大手企業と提携したんだ。知ってるだろ、俺には足がかりが必要なんだよ。夏目茉莉の機嫌を取っておけば、向こうとの橋渡しができる。だから俺は――」
「もういい」
相馬寧はぴしゃりと遮った。
「人を口説くやり方にしては、ずいぶん斬新ね。ベッドまで持ち込んでご機嫌取りだなんて」
あからさまな皮肉に、守屋蒼河の眉間の皺がさらに深くなる。
「家に帰ってから話そう」
彼は強引に相馬寧の手をつかみ、そのまま駐車場へ引っ張っていこうとした。
かつて彼女の指に指輪をはめたその手は、たった今ほかの女に触れ、さらにもっと汚らわしいことまでしてきた手だ。
生理的な嫌悪感がこみ上げる。
吐き気をこらえながら、相馬寧は自分でもどこから湧いたのかわからない力で、その手を振りほどいた。
「触らないで。離して」
守屋蒼河は振り返り、再び彼女をつかもうとする。
手を伸ばし、彼女が避ける。そのもみ合いの最中――
パァンッ!
乾いた音が、夜の通りに鋭く響き渡った。
ちょうどその場へ追いついた夏目茉莉、星野伊希、それに守屋蒼河の友人たちが、その一幕を目撃する。
相馬寧は背を向けていて見えなかった。ただ、守屋蒼河の顔色が一瞬で鍋底みたいにどす黒くなったのだけはわかった。
次の瞬間、彼は相馬寧の手首をつかむ。その力は骨ごと砕きそうなほど強かった。
抵抗する力も奪われたまま、彼女は半ば引きずられるように駐車場へ連れていかれ、そのまま車内に押し込まれる。
帰り道、守屋蒼河はひと言も発しなかった。
ただ、首筋に浮き上がる血管だけが、彼の感情がすでに限界寸前まで膨れ上がっていることを物語っていた。
別荘の扉が開く。
守屋蒼河は先に中へ入り、振り返るや否や、相馬寧の両手を壁へ押さえつけた。瞳の奥では怒りが燃え盛っている。
「説明するって言っただろ。どうしてあんな大勢の前で、いつまでも騒ぎ立てるんだ」
「騒いでなんかないわ」
痛みに耐えながら、相馬寧は口元に皮肉な笑みを浮かべた。
「私、あなたと離婚する」
離婚――
その二文字が相馬寧の口から出た途端、守屋蒼河の顔に浮かんでいた怒気は、絵の具をぶちまけたみたいに揺らぎ、別の感情が混じり込んだ。
「だめだ」
相馬寧は理解できないとでも言いたげに小さく首をかしげる。
「もう愛してないなら、あなたのご友人たちが言った通り、守屋夫人の席を空けてあげればいいでしょう? そのほうが都合がいいんじゃないの」
守屋蒼河は険しい顔のまま、けれど無意識に声音だけをやわらげた。
「よくない。寧々、簡単に離婚なんて言わないでくれ」
