第3章 それはすべて彼女の当然の報いだ
相馬寧は、一瞬、自分が笑うべきなのか、泣くべきなのかわからなくなった。
離婚はしたくないと言いながら、夏目茉莉とは夫婦同然に寄り添い、平然と甘い空気を纏っている。
愛していないくせに、手放す気もない。
――もういい。
今は、彼と真正面から決裂する時じゃない。
どうせ三十日後には、すべて終わるのだから。
「好きにして。私、疲れた。休むわ」
彼女の態度が少しだけやわらいだせいか、拘束していた手の力も、じわじわと緩んでいく。
相馬寧はその隙に手を引き抜いた。白い肌には、すでに赤い痕がくっきり浮かんでいる。もともと肌が敏感で、こういう跡はなかなか消えない。
けれど――もう、どうでもよかった。
守屋蒼河を避けるようにして二階へ向かう途中、物陰に控えていた使用人たちが、遠慮がちに、そして驚いたようにこちらを見ているのが目に入る。
きっと彼らの目には、自分たちは喧嘩ひとつしない仲睦まじい夫婦に映っているのだろう。
相馬寧はシャワーを浴びてからベッドに入った。
しばらくして寝室の扉が開き、足音が近づく。ベッド脇で一度止まって、それから浴室へ向かう気配。
ざあざあと流れる水音が、静まり返った夜に、初秋の最後の湿った熱を運んできた。
心も身体もくたくたで、眠れるはずなのに。
守屋蒼河と同じ空間にいる――それだけで、呼吸の仕方すら窮屈になる。
やがて冷気をまとってベッドに入ってきた彼の気配に、相馬寧は耐えきれず、抱いていた布団ごとそっと端へ寄った。あからさまに距離を置く。
「寧々。俺の心の中にいるのは、最初から最後まで君だけだ。夏目茉莉とは、夏目家の資源が欲しいだけ。提携が取れたら、きっぱり縁を切る。二度と関わらない」
「それから、寧々。結婚してもう三年だろ。落ち着いたら子どもを作ろう。君は家で子どもを見てくれればいい。ほかのことは何も気にしなくていい。子どもがそばにいれば、君だって少しは安心できるだろ?」
背後から届く声に、返事はない。
次第に、時計の針が刻む微かな音が呼吸を呑み込み、寝室の隅々にまで静寂が染みていった。
そのとき、着信音が鳴る。
守屋蒼河はすぐにスマホを手に取り、消音にして立ち上がると、寝室の外へ出ていった。
扉が閉まる音。
闇の中で、相馬寧はそっと目を開けた。
――戻ってこない。
そう思った通り、守屋蒼河はそれきり寝室へ戻らなかった。
考えるまでもない。あれだけ人前で夏目茉莉を置き去りにしたのだ。今頃は、あの小娘の機嫌取りにでも走り回っているのだろう。
かつて、守屋蒼河も自分にあんなふうにやさしかった。
今は、そのすべてが別の女のものになっている。
二十歳の頃から心の中に住みついていたあの少年は、結局、彼が二十五になったこの年に「死んだ」。
時は巡り、歳月は容赦なく擦り減らしていく。
あの灼けるような恋が、いったいいつ腐ってしまったのか。どの瞬間に土へ埋まり、誰かの養分へと変わったのか。
相馬寧には、もうわからない。
目を閉じても眠気は一欠片も訪れなかった。
やがて彼女は身体を起こし、ベッドサイドのスマホを手に取る。守屋父のLINEを開き、長い指で素早く文字を打ち込んだ。
【以前お約束いただいた条件についてですが、念のため、守屋蒼河と離婚後の件は契約書にしておきたいです】
そう。
一週間前、守屋政安はすでに彼女へ接触してきていた。守屋蒼河と付き合い始めた頃から、守屋政安は彼女を気に入っていなかった。
権力も後ろ盾もなく、守屋蒼河の仕事の助けにもならない。家柄の釣り合う令嬢たちと比べれば、話にならない――そう思っていたのだろう。
それでも守屋蒼河が命がけで反発したせいで、守屋政安と松本明霞はしぶしぶ結婚を認めるしかなかった。
今になって思えば、守屋政安は彼女より前から、守屋蒼河と夏目茉莉の関係を知っていたに違いない。
そうでなければ、あれほど高額な条件を提示してまで、彼女に離婚を迫るはずがない。
時価二十億の別荘一棟。
百億の基金。
さらに現金百億。
合計二百二十億。
断れと言うほうが難しい条件だ。
もっとも、一週間前の相馬寧は、それを断った。
守屋蒼河の裏切りをこの目で見るまでは。
彼への愛が死んだ、その瞬間になってようやく、彼女は受け入れた。
良心が痛むかと問われれば、答えは否だ。
たしかに彼女は、守屋蒼河に権力や家柄を与えたわけじゃない。けれど長年そばで支え、自分の力でひとつ、またひとつと提携を勝ち取り、進んで彼の影に徹してきた。
その価値が、金額で測れるはずもない。
けれど何になろう。
見る気のある者には見えるが、見る気のない者は決して見ない。
この金は、彼女が受け取って当然のものだ。
翌朝早く、守屋政安から返信が来た。
離婚に応じるなら、条件は何でも話せる、と。
ほとんど眠れないまま夜を明かした相馬寧は、簡単に身支度を整えると、守屋本家へ向かった。
守屋本家は西郊外にあり、車で一時間ほどかかる。
着いた頃には、もう午前十一時を回っていた。
契約を済ませたらすぐ帰れるよう、彼女は車をそのまま別荘の前へ停める。
書斎で、守屋政安は用意していた書類を彼女の前に差し出した。
守屋蒼河によく似た面差しに、年齢相応の老いが刻まれた顔。その表情にあるのは冷えた無感情だけだ。瞳の奥には、相馬寧への露骨な不満が沈んでいる。
相馬寧は気にも留めない。契約内容を一通り確認し、問題がないと確かめると、ペンを取って署名しようとした。
その瞬間、守屋政安が口を開く。
「契約書を交わし、条件を渡すことには同意しよう。だが、お前はどうやって、蒼河と必ず離婚すると保証するつもりだ?」
相馬寧は冷たく笑った。
「それは、あなたが気にすることではありません。約束したものだけ、きちんとご用意ください。一か月後、期日通りに渡していただければいい。それ以降、私はあなたの息子と一切の関わりを持ちません」
わざわざ説明してやる気はなかった。
もうすでに手は打ってある、あとは一か月後を待つだけだ――などと話す必要もない。
守屋政安はじっと彼女を見つめたあと、結局それ以上は何も言わず、自分も書類に署名した。
二通作成し、一通は彼が保管し、もう一通を相馬寧が受け取る。
バッグに収めると、彼女は立ち上がってそのまま部屋を出た。
扉を開けて廊下へ出たとき、背後から守屋政安の不快げな声が飛んでくる。
「やはり小市民の女だな」
聞き飽きた侮蔑だった。腹も立たないし、足取りも鈍らない。
ただ、相馬寧も思わなかった。
この世にはどうしてこうも、妙な偶然が重なるのだろう。
昨夜は彼女と守屋蒼河が前後してスターバーへ行き、今日は今日で、同じく時間差で守屋本家に戻ってきた。
そしてやはり、守屋蒼河の隣には夏目茉莉がいる。
一階のリビングで、彼らはまだ二階にいる相馬寧に気づいていない。
夏目茉莉は楽しそうに笑いながら松本明霞と話し、守屋蒼河はその傍らに座って目尻を甘く緩めていた。
――機嫌は直ったみたいね。
守屋蒼河が夏目茉莉を宥めたのはもちろん、夏目茉莉のほうも金で松本明霞の機嫌をしっかり取ったらしい。
テーブルの上に並べられた一式の宝飾品は、ここからでも石の煌めきがわかるほど眩く、ひと目で高価な品だと知れた。
