第6章 お前 どうして他の男の物を持っているんだ
相馬寧はむしろ怪訝そうに眉をひそめた。
「どうしてここに?」
「何度電話してもつながらなかったから、位置情報を見た」
「位置情報……?」
そこでようやく思い出す。自分のスマホは、守屋蒼河の端末と位置共有をしたままだった。
まだ熱に浮かされるように恋をしていた頃、二人で設定したものだ。名目は――安全のため。
あの頃の相馬寧は、それを甘いものだと思っていた。こうしてつながっていれば、いつだって守屋蒼河がそばにいてくれる気がしたから。
けれど今は違う。
ただの枷にしか思えない。
「もう片づいたから。あなたが気にする必要はないわ」
相馬寧は差し出された彼の手を避け、そのまま車のドアを閉めようとした。
だが次の瞬間、守屋蒼河が鋭く声を上げる。
「それ、何だ?」
相馬寧が目を瞬かせた、その一拍の隙だった。手にしていたハンカチを、守屋蒼河が乱暴に奪い取る。
淡い水色のハンカチ。そこには、ごくかすかに男物の香水の匂いが残っていた。
風がひゅっと吹き抜け、その香りが狙いすましたように守屋蒼河の鼻先へ忍び込む。
彼の表情が、みるみる変わった。
「どうしておまえが、ほかの男の物なんか持ってるんだ?」
声が一気に吊り上がる。守屋蒼河は相馬寧の腕をつかみ、そのまま半ば引きずるように車外へ引っぱり出した。
「まさかこれが俺のだなんて言うつもりじゃないよな? 俺がハンカチなんか使わないことも、こんな香水をつけないことも、おまえは知ってるはずだ」
「相馬寧、おまえ……俺に隠れて、外で男でも作ったのか?」
「いい加減にして」
相馬寧はぴしゃりと言い切った。声は氷みたいに冷たい。
「これは、私にぶつかってきた車の持ち主が、血を拭けって貸してくれたものよ。信じないなら、ドライブレコーダーでも確認すればいいでしょう」
「確認して何になる。裏で何もないって、どうしてわかる?」
守屋蒼河はまるで聞く耳を持たない。奥歯を噛みしめたかと思うと、両手で力任せにハンカチを引き裂いた。
びりっ――
上質な布は、あっけないほど簡単に真っ二つになる。
守屋蒼河はそれを、そのまま地面へ叩きつけた。
ひらりと落ちていく布切れを見つめながら、相馬寧の胸にかろうじて残っていた最後のぬくもりまで、すっと冷え切っていった。
それでも守屋蒼河の怒りは収まらない。
「相馬寧、よく聞け。おまえの心は、俺のところにしかあっちゃいけない」
その声音は、ほとんど呪詛だった。
「もし俺の知らないところで別の男とつるんでるとわかったら、おまえもその男も必ず殺す。裏切ったことを後悔させてやる」
相馬寧は聞こえていないみたいにしゃがみ込み、破れたハンカチの切れ端を拾い集めた。そっと埃を払い、丁寧に重ねてポケットへしまう。
その仕草が、守屋蒼河には挑発にしか見えなかったらしい。
「相馬寧、聞いてるのか!」
「聞いてるわ」
相馬寧は何の感情も浮かばない目で彼を見上げた。
「これは、私が血を拭くために借りたもの。信じるかどうかはあなたの勝手よ。だから、そんな目で見ないで」
その静けさが、かえって守屋蒼河の胸をざわつかせた。
自分は間違っていないと証明するような言葉を探しても、何を言えばいいのかわからない。いったん押し殺したはずの不安が、胸の奥でじわじわと膨れ上がってくる。
相馬寧は背を向け、そのまま運転席へ乗り込んだ。
「この状態だもの。病院へ行くわ。じゃあね」
一切ためらわずアクセルを踏む。
車はそのまま走り去り、守屋蒼河の伸ばした手は舞い上がる土埃の中へ虚しく消えた。
しばらくして埃が晴れても、守屋蒼河はなおその場に立ち尽くしていた。心臓だけが、嫌なほど速く脈打っている。
相馬寧は……いつからあんなふうに冷たく、あんなふうに迷いなくなった?
前は違った。
もっとやさしくて、自分の前ではいつも話が尽きなかった。毎日、花がほころぶみたいに笑っていた。
自分と一緒にいるときの相馬寧は、いつだって幸せそうだったのに。
それが今はどうだ。
最初から最後まで、一度だってやわらかな顔を向けてくれなかった。
……。
相馬寧が病院を出た頃には、空はもうほとんど夜の色に染まっていた。
医師によれば、額の傷自体は大したことはない。ただ血が多く出たのは血管に当たったからで、傷は深くないため縫う必要もないらしい。医療用の絆創膏を貼って、数日おとなしくしていれば治るとのことだった。
相馬寧は外で軽く食事を済ませてから、ようやく家へ戻った。
守屋蒼河との新居――いわゆる婚家だ。
本当は来たくもない。自分のいないあいだに、守屋蒼河が夏目茉莉をここへ連れ込んでいたとしても、何ひとつ不思議じゃない。
それでも、まだ自分の荷物が残っている。
家に入ると、守屋蒼河はすでに戻っていた。
相馬寧は彼に視線ひとつくれず、そのまま寝室へ直行する。背後で扉を閉めると、ほどなくして中から物を探る音がし始めた。
「相馬寧、何をしてる?」
返事はない。
寝室で、相馬寧は荷物をまとめていた。
彼女の私物は多くない。その大半は守屋蒼河が買い与えたものだ。
けれど、ブランド物の服も限定バッグも、ひとつとして持っていかなかった。自分で買った服を数着選び、あとは本当に自分のものと言える日用品だけをスーツケースへ詰めていく。
実のところ、数日前から相馬寧は少しずつ、目立たないように守屋蒼河にまつわる品を処分していた。
彼から贈られたアクセサリーは、中古サイトで全部売った。多少値は下がったが、それでもそれなりの金にはなった。
守屋蒼河が買ってくれた服――とくに季節外れのものは、まとめて慈善団体へ寄付した。必要としている人の手に渡るなら、そのほうがまだいい。
リビングに飾られていた大きなウェディングフォトでさえ、三日前にはもう業者を呼んで外させ、そのまま処分している。
だが、それらに守屋蒼河は何ひとつ気づかなかった。
ずっと夏目茉莉にかかりきりだったからだ。
この家に帰ってきて、リビングにも入っていた。それでも、結婚写真が消えたことにさえ気づかない。
守屋蒼河は昔、こんなに粗雑な男ではなかった。むしろ誰より細やかだったはずだ。
気づかない理由はひとつしかない。彼の関心が、全部夏目茉莉に向いているのだ。
まあ、無理もないのかもしれない。
新しい女ができれば、古い女なんてどうでもいいのだろう。
スーツケースひとつで、相馬寧の荷物はすべて収まった。
外からのノックも、いつの間にか止んでいる。
相馬寧はベッドの端に腰を下ろし、長いことひとりで座っていた。
窓の外は、もうすっかり夜の色だ。
ふと、五年前のある夜を思い出す。
あのときも、こんなふうに静かな夜だった。守屋蒼河は意味ありげに彼女の手を引き、大学のグラウンドの隅にある一本の桐の木の下まで連れていった。そして、この先妻にするのは君だけだ、と告げたのだ。
あの頃の自分は、それを本気で信じていた。
けれど今になって振り返れば、若い日の誓いなんて、しょせんは熱に浮かされた一時の衝動にすぎない。
熱が冷め、現実が押し寄せれば、ああいう約束は砂浜に書いた文字みたいなものだ。波がひとつ打ち寄せただけで、跡形もなく消えてしまう。
あまりにも脆い。
それでも、気づくのが遅すぎなかったことだけは救いだった。
自分と守屋蒼河のあいだに、子どもはいない。
ひとりで生きていけないほど、自分は無力でもない。
あとは守屋蒼河が離婚に応じさえすれば、きれいさっぱり終われる。
ドンドンッ!
寝室の扉が、再び強く叩かれた。
守屋蒼河の声には、さっきまでよりはっきりと焦りが滲んでいる。
「相馬寧、出てこい。聞きたいことがある」
しばらくして、扉が開いた。
相馬寧は入口に立ったまま、彼を中へ入れるつもりはないらしい。
「ウェディングフォトは?」
守屋蒼河は一階のリビングのほうを指さす。
「あの大きな写真、どこへやった?」
「捨てたわ」
「捨てた!?」
守屋蒼河は一瞬言葉を失い、それからこめかみをひくつかせた。
「俺たちの結婚写真だぞ? どうして勝手に捨てるんだ。どこへ捨てた!」
「ごみ処理場」
そこで初めて、相馬寧はまっすぐ彼を見た。
「そんなに惜しいなら、自分で拾いに行けば?」
