第二章 水無瀬蒼介
羽田空港、国際線出発ロビー。
保安検査を抜け、一葉はスーツケースを引いて搭乗口へ向かった。
スマートフォンが震えた。
守人からだった。
通路の端に立ち、電話に出た。
守人の声はいつもより低く、意図して抑えたような焦りが滲んでいた。「一葉、まだ行かないでくれ。戻っておいで、話がある」
一葉はすぐに答えなかった。
「梨花が、昨夜おかしなことを言っていたと言っている」守人は続けた。「東京へ行くというのも——家族として心配している。戻って、直接話し合おう」
言葉は散漫で、脈絡がなかった。その場しのぎで継ぎ合わせたような話し方だった。
一葉には聞き取れた——これは守人が言いたい言葉ではない。梨花に言わされている言葉だ。
それを指摘はしなかった。ただ待った。
電話の向こうでざわめく気配があり、受話口を持ち替えるような音がした。
珠恵の声が聞こえてきた。守人より鮮明で、守人よりずっと力がこもっていた。
「一葉、梨花がやっと帰ってきたのに、あなたはあんな態度をとるの。昨日どれほど泣いていたか、わかってるの。あなたは昔からそう、誰も受け入れられない——」
一葉はスマートフォンを耳から少し離し、その声を小さくした。
珠恵はまだ続けていた。二十年も育ててやった、実の子と同じように扱ってきた、それがこの仕打ちか。梨花がどこで何をしたというのか、なぜあんなにいじめるのか。
一葉は最後まで聞いた。
それからスマートフォンをまた耳に当て、口を開いた。声は静かだった。
「あなたが病気で寝込んでいたとき、枕元で世話をしていたのは私です。梨花が戻ってきたから運気が上がったとおっしゃっていましたね——あの日々の看病で、養育の恩は十分返したと思っています」
電話の向こうが、二秒間沈黙した。
それから珠恵の声が変わった。
罵声が受話口から流れ出してきた。
一葉はスマートフォンを耳から離し、画面を見つめたまま、彼女が言い終わるのを待った。
通話はまだ繋がったままだった。
ふと顔を上げ、出発案内の電光掲示板を見た。
予約していた便の搭乗締め切り表示が、すでに点灯していた。
乗り遅れた。
焦りはなかった。後悔もなかった。ただ、そういうことになったのだと確認した。
スーツケースをその場に止め、立ったままでいた。珠恵はまだ喋っていた。声が受話口から漏れ続けている。スマートフォンを耳に当てたまま、出発ロビーを行き交う人の流れに目を走らせた。
迎えに来る人がいることは知っていた。
でも、どんな顔をしているかは知らなかった。
どこを見ればいいかも、わからなかった。
片耳で珠恵の罵倒を聞きながら、もう一方の目で見知らぬ顔を探す——二つのことを同時にこなしていたが、どちらにも力は入っていなかった。どちらの答えも、もう出ていたから。
視界の端に、到着口の方向から人混みを横切ってくる人影があった。
足が速かった。長い時間をかけて急いできた、そういう速さだった。
濃い色のトレンチコート。裾と袖口に、薄いグレーがかった茶色の土埃がついていた。長いあいだ野外にいなければつかない種類の色だった。目鼻立ちが鮮明で、眉の稜線が高く、鼻筋が通っていた。人混みの中でも自然と目が止まる類の顔だったが、風雪を経てきたような疲れがその輪郭をいくらか覆い隠していた。靴はトレッキング用で、靴底はひどく摩耗し、靴の甲にはまだ乾いていない泥の跡が何本かあった。バックパックのサイドポケットに、丸めた防水バッグが差し込まれていた。
一葉の視線が、一秒だけその人物の上で止まった。
珠恵はまだ話していた。
一葉は顔を伏せ、電話を切った。
男は一葉の前で立ち止まり、数秒の間を置いてから、少しかすれた声で言った。
「……一葉さん、ですか」
一葉は彼を見た。
彼は表情を整えてから続けた。「水無瀬蒼介です。あなたの……兄です。三番目の」
「三番目の」という言葉は、わずかに間があった。その呼び方が目の前の人間にとって何か意味を持つのかどうか、確かめかねているような間だった。
一葉はすぐには答えなかった。コートの裾についた土埃を見た。靴の甲の、まだ乾いていない泥の跡を見た。
「外から直接来たんですか」
蒼介は自分の靴に目を落とし、少し居心地が悪そうな顔をした。
「プロジェクトがまだ片付いていなくて。連絡を受けたとき、駐在先に戻って着替える時間がなかった」
一拍置いた。
「遅くなって、すみません」
一葉はその靴から視線を外した。
蒼介が「行きましょう」と言った。
一葉はスーツケースを持ち上げ、後に続いた。
彼は前を歩き、余分なことは話さなかった。二人は出発ロビーを抜け、一葉がこれまで通ったことのない通路へ折れた。
通路は静かで、外の人混みとは完全に切り離されていた。
歩きながら、頭の中で一通りの見当をつけていた。
実家の事情はよくない、迎えに来たのもこの人一人、おそらく普通の便に乗るのだろう、乗り継ぎもあるかもしれない——そういうことだろうと思っていた。それでも構わないと、とっくに決めていた。
古いコート、泥のついた靴、一人で来た——どの細部も、想定と一致していた。
珠恵に言われ続けていた。あなたの親は貧しい、兄たちはろくでなしで、育てる余裕なんてなかったと。
ずっと前から覚悟はできていた。心の中の見取り図は、完成していた。
通路が折れるところで、廊下は角を曲がっていた。
曲がり角の先に、旧ターミナルが封鎖改修された後に残された鉄柵が見えた。錆が浮き、柵の向こうには色褪せた古い壁があった。
一葉の足が、わずかに鈍った。
二十一年前、あそこだった。
火事があった。混乱があった。
それから二十年の芦屋があり、二十年の浮島家があり、二十年の物置部屋と朝五時の起床があった。
あの火事の記憶はない。でも、あれがすべての始まりだったことは知っていた。
通路の突き当たりに、VIPゲートの入口があった。
係員が丁寧に証明書の提示を求めた。
蒼介はコートの内ポケットから一枚のカードを取り出し、渡した。何気ない動作だった。彼にとって日常の動作で、特別なことは何もないように見えた。
係員はカードを受け取り、一度目を落とした。
表情がわずかに変わった。
驚きではなかった。職業訓練から来る、抑制された敬意だった。
ゲートのドアを押し開け、脇に立った。
「水無瀬様、どうぞ」
一葉は蒼介の隣に立ち、その係員の表情を見ていた。
古いコートに目を落とした。靴の甲の、まだ乾いていない泥を見た。
それから、押し開けられたドアを見た。
何かが、噛み合っていなかった。
ラウンジの中は、光が柔らかかった。
蒼介は一葉のスーツケースを所定の場所に置き、コートのポケットから小さなベルベットの箱を取り出してローテーブルの上に置き、こちらへ押した。
「もともとは、芦屋の養父母のお宅へ持参するつもりでした」
一拍置いた。
「あなたのことを、事前に調べました。許可なく調べたこと——まず謝らないといけない」
また間があった。声がわずかに落ち着いた。
「調べてから、あの家には行きたくなくなりました。だから、渡せなかった」
一葉は顔を伏せ、箱を見た。
蓋の端に、ごく小さな金の型押しがあった。
見覚えがあった。サザビーズだった。
医学研究の資金出所を記したメモの中で、一度このマークを目にしていた——その助成元が、サザビーズのチャリティオークションでブルーダイヤモンドを落札したことがあった。3.17カラット、世界に一つだけ、落札価格は三億二千万円だった。
視線を箱から外し、手を伸ばさなかった。
蒼介はティーカップを持ち上げ、彼女の反応には気づいていないような顔をした。
一葉は椅子の背にもたれ、窓の外の駐機場へ目を向けた。
駐機場の正面に、濃い色の塗装を施したプライベートジェットが停まっていた。機体にはどの航空会社の識別もなかった。尾翼だけに、小さな濃色の紋章があった。
一葉はその紋章を見て、少し間を置いた。
薬物臨床研究の資金提供元を記した説明資料の中で、一度この図案を目にしたことがあった。助成元の説明ページの隅に、小さく印刷されていた。一瞥しただけだったが、形は記憶に残っていた。複数の長期臨床研究を継続的に支援している機関で、拠出額も安定しており、業界内では名の通った存在だった。
まさか駐機場の尾翼で再び目にすることになるとは、考えたこともなかった。
視線を駐機場から戻し、手を膝の上に置いて、少し顔を伏せた。
珠恵に言われ続けていた——事情が苦しい、辺鄙なところだ、育てる余裕はなかったと。
ずっと、この先に何が来るかわかっているつもりでいた。
たぶん、間違えていた。
