紹介
しかし浮島家が知らなかっただけで、一葉はとっくに自分の世界を持っていた。複数の顔を持ち、誰にも気づかれないまま、静かに頂点に立っていた。
追放された日、一葉の前に現れたのは水無瀬財閥だった。彼らにとって一葉は探し続けていた存在——迎え入れられた瞬間、初めて「家族」というものを知った。
そして鷹司家の彼と出会い、運命が動き始めた。
浮島家が一葉の本当の価値に気づいた頃には、もう遅すぎた。
「戻ってきてくれないか」
——戻る理由が、もうどこにもありません。
チャプター 1
シャンデリアの光が降り注ぎ、宴会場はざわめきに満ちていた。
一葉は片隅に立ち、ミネラルウォーターのグラスを手にしていた。
二十年。
ここで電球を三度替えた。あの姿見は大阪のオークションで探し出した。毎朝五時に起きてあの蘭に水をやり、二年かかってようやく最初の一輪を咲かせた。
この家のどの角よりも、彼女はここを知っていた。
それでも、ここに属したことは一度もなかった。
浮島守人が近づいてきた。スーツはきっちりと着こなされ、声は低く押さえられていたが、音量はちょうど隣の二テーブルまで届くように計算されていた。
「一葉、東京のご両親のところへ行ったら……少し自分を抑えなさい。お前は甘やかされて育ったんだから、恥をかかせないようにしてくれ」
一葉はグラスに目を落とした。
彼が口にするすべての言葉は、彼女に向けられたものではなかった。
何も答えなかった。
浮島珠恵は今夜、華やかな訪問着をまとい、首元にはカルティエのネックレスが輝いていた。サファイアの主石が灯りを受け、細かな光を散らしている。
あのネックレスは、一葉が十八歳のとき、京都の老舗に頼んで探し出したものだった。お守りになりますようにと、そういう気持ちで。
珠恵は受け取り、一言の礼も言わなかった。
彼女が歩み寄ってきて、小さな礼箱を差し出した。口調はそっけなかった。
「これ、持って行きなさい。旅行用のコスメよ。向こうの生活に合うかどうか……まあ、なんとかなるでしょう」
言い終えると、さっさと別の客の方へ向かった。その背中はすっきりと潔かった。
一葉は箱を受け取り、開けなかった。
隣の椅子の上に置いた。
浮島梨花——浮島家がようやく取り戻した本物の宝——は今夜、淡いピンクの振袖を着て、髪には桜の金箔の簪を挿していた。目元がほんのり赤く染まっていた。
彼女は近づいてきて、一葉の向かいに腰を下ろし、ちょうどいい具合の嗚咽を帯びた声で言った。
「お姉様……東京、遠いですね。何かあったら、すぐ連絡してください。お小遣いも……毎月送りますから」
近くのテーブルから誰かがそっとつぶやいた。「本当に優しい子ね……」
梨花の目元がもう少し赤みを増した。
彼女はひと呼吸置いて、何気なく付け加えた。
「御園さんのこと……お姉様は心配しなくていいですよ。婚約のことは、私がちゃんと対応しますから」
一葉は一度だけ彼女を見た。
静かな視線だった。怒りも、涙もなかった。
ただ一瞬見て、それから目を逸らした。
梨花の瞳の奥で、何かが一瞬光った。
心配ではなかった。
それは——思い通りになった、という光だった。
一葉は急くことなく立ち上がった。
「御園さんのことは、ご自由に」
少し間を置いて、付け加えた。
「どうせろくでなしだから」
梨花の目に浮かんでいた涙が、一瞬凝固した。
珠恵が反対側から歩み寄り、声を低く抑えながらも鋭く言った。
「一葉、何を言ってるの。梨花が好意で——」
一葉は振り返り、静かに彼女を見た。
「浮島さん」
お母さん、ではなかった。
「私はこの家で二十年、誰にも迷惑をかけたことはありません」
一拍置いた。
「今日もそのつもりです」
珠恵は口を開き、また閉じた。
取り繕っていた笑顔が、少し崩れた。
一葉は礼箱を手に取り、茶卓の上に戻した。
そのまま宴会場の中央へと歩いていった。
守人が乾杯の挨拶に立った。
「皆さん、今夜は一葉のために……」
客たちが一斉にグラスを持ち上げた。
一葉も目の前のワイングラスを手に取った。
グラスを傾け、そっと液体を揺らした。
一秒、止まった。
——おかしい。
ほんのわずかな違和感だった。普通の人には気づかない程度の。液体の流れ方、表面張力のかすかな変化——何かが溶け込んで、本来の質感を変えているような感覚。
何なのかはわからなかった。
ただ、祖母の介護を始めてから三年が経っていた。毎日様々な薬剤を扱い、手の感触や気配で微細な異常を見分けることを覚えていた。この感覚には覚えがあった。以前、祖母の薬剤の配合が誤っていたとき、グラスを持ち上げた瞬間に何かがおかしいとわかった。
あのときと同じだった。
何が入っているかは、検査しなければわからない。でも、飲まない。
グラスを唇に近づけ、乾杯に応じているように見せかけた。皆が一斉に仰いで飲む一瞬、注意が逸れたその隙に、ナプキンで手元を隠しながら、酒液をバッグの中の空のサンプル瓶へ静かに移した。祖母の介護をしていたころに身についた習慣で、薬剤の小分けや検体採取のために常に持ち歩いていたものだった。
空になったグラスを置き、わずかに顎を上げて、飲み終えた素振りを作った。
梨花を見なかった。
でも、梨花が自分を見ていることはわかっていた。
挨拶が終わり、宴はまだ続いていた。
梨花は客の輪の中に座り、行儀よく微笑みながら、視線の端をずっと一葉に向けていた。
待っていた。
一葉の意識がぼやけ始めるのを、場にそぐわない言葉を口にするのを、この場で醜態を晒すのを——そのときに歩み寄って、一番やわらかな声で言うつもりだった。「お姉様、大丈夫ですか?」と。皆に見せるのだ。梨花は優しく、一葉は不安定だと。
二十分が経った。
一葉は新しいミネラルウォーターを手に、客の間を静かに行き来していた。表情は変わらず、足取りも乱れていなかった。
梨花の笑みが、一瞬固まった。
——おかしい。
待っていた反応が、一向に現れなかった。一葉はもうふらついているはずだった。言葉が鈍くなり、どこかのタイミングで取り乱すはずだった——でも、そうならなかった。ミネラルウォーターを手に客の間を静かに行き来し、足取りは乱れず、表情も変わらず、むしろ宴が始まったときより落ち着いて見えた。
梨花はそっとワイングラスを置き、さりげなく視線を動かした。
ミネラルウォーター。いつ替えたのか。
思い出した。挨拶が終わった後、一葉は部屋の隅のドリンクテーブルへ行っていた。動作はごく自然で、ただ一杯取っただけのように見えた。何もおかしなところはなかった。
でも、あのワインは——なくなっていた。
梨花の胸が、一拍だけ乱れた。
宴はほどなくして終わりを迎えた。
客たちが次々と帰り、宴会場の話し声が静かに引いていった。一葉は空のミネラルウォーターのグラスをトレイに置き、隅の椅子に置いていたスーツケースの取っ手を手に取った。
守人と珠恵のところへ歩いていき、挨拶をした。守人は軽く肩を叩いて「気をつけてな」と言った。客に向ける言葉より、よほど素っ気なかった。珠恵はうなずき、もう隣の客の方を向きながら「早く休みなさい」と言った。
一葉はお礼を言って、向き直った。
梨花の横を通り過ぎるとき、足を止めなかった。ただ、すれ違う一瞬だけ、誰に向けて言うでもない声でつぶやいた。
「今夜のお酒、おいしかったです」
梨花の体が、三秒間、固まった。
一葉はもう通り過ぎていた。振り返らなかった。宴会場の扉が閉まった。梨花はその場に立ち尽くし、顔には笑みを貼りつけたまま——ドレスの横で、手が静かに、拳を作った。
浮島家の近くに二十四時間営業のコンビニがあった。
一葉はそこで緩衝材と保冷袋、それから小さな段ボール箱を買った。サンプル瓶を丁寧に包んで箱に入れ、しっかりと封をした。セルフ発送機を操作し、東京の住所を入力した。
宛先:桐谷澄子。
澄子は一葉の古い仕事仲間だった。薬剤師の資格を持ち、今は後方支援と調査を担っている。薬の分析も、人の素性も、帳簿の裏も——澄子が手をつけて解けないものはなかった。
成分が何なのかはまだわからなかった。でも、あの異常な質感には覚えがあった。澄子なら、どう動くべきかわかるはずだった。
封筒を投函口に入れると、機械が静かな通知音を立てた。
一葉はコンビニの入り口に立ち、スマートフォンで時刻を確認した。
明朝七時のフライト。
荷物は中型のスーツケースひとつと、肩掛けバッグひとつ。二十年間で、それだけだった。
スマートフォンが震えた。知らない番号からのメッセージだった。
「一葉。羽田にいる。——蒼介」
その一行をしばらく見つめた。
タクシーがコンビニの前に停まり、運転手が窓を下ろした。
「羽田空港ですか?」
一葉はスマートフォンをポケットに仕舞い、スーツケースを引いて車のドアへ歩いた。
「はい」
ドアが閉まった。
バックミラーの中で、コンビニの明かりが少しずつ遠ざかっていった。
振り返らなかった。
最新チャプター
#108 第一百零八章 すべて、記録済み
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最終更新: 10/4/2026#105 第一百零五章 身代わり
最終更新: 10/3/2026#104 第一百零四章 深夜の迎撃
最終更新: 10/2/2026#103 第一百零三章 養元
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最終更新: 9/28/2026#99 第九十九章 駐車場・夜
最終更新: 9/27/2026
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父は無実のまま出所し、母は健康を取り戻し、廃人同然だった長兄は再び己の足で歩き出し、残る五人の兄たちもまた紅蓮の導きによって各々の才覚を花開かせ、やがて各界を牽引する大物へと成り上がっていく。
しかし、そんな彼女を指さして嘲る者がいる。
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神医の令嬢も彼女なら、国画の大家も彼女。
伝説のハッカーも彼女なら、正体不明の謎の女優も彼女。
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そんな折、頂点に君臨する名門の若様が、彼女をそっと腕のなかに抱き寄せた。
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さあ、復讐劇の始まりよ。私を「可哀想な犠牲者」だと思っていた報い、その身に刻ませてあげる。













