第4章

和泉祭りの当日、和泉神社の門前には、夜明け前から長蛇の列が形成されていた。

直哉は眠い目をこすり、目の前の光景に我が目を疑った。参拝客の数は予想をはるかに上回り、その列は神社の石段から麓の商店街まで、まるで大蛇のようにうねりながら続いている。

「こ……こんなに人が?」

呆然と呟き、直哉は慌てて自身の神職服の襟を正した。

その頃、社務所の一室では千夏が興奮を隠しきれない様子でいた。くるくるとその場で回りながら、自分の身にまとった紅白の巫女装束に見惚れている。これは直哉が彼女のために特別にあつらえたもので、裾には精緻な狐の刺繍が施されていた。

「どうじゃ?似合っておるか?」

千夏がふわりと一回転すると、緋色の袴が優雅に舞った。

「あ、ああ……いいんじゃないか」

直哉は照れくさそうに答え、すぐに窓の外へ視線を逃がす。

「けど、今はそんなこと気にしてる場合じゃないぞ!外はもう大変なことになってる!」

やがて、桜が大学のボランティア仲間を大勢引き連れて駆けつけてくれた。彼らは慣れた様子で屋台の設営や提灯の飾り付け、特設舞台の準備まで手際よく進めていく。町の住民たちも自ら料理や飾りを持ち寄って祭りに参加し、境内はあっという間に熱気に包まれていった。

「神社がこんなに賑わってるの、初めて見ました!」

桜は感嘆の声を漏らしながらも、ボランティアたちに的確な指示を飛ばし、合間を縫って今日の盛況を記録しようとカメラを構えた。

一方、当日の主役である千夏は、神社の裏庭にこもり、奉納する舞の最終練習に励んでいた。しかし、朝食に好物の油揚げを食べ過ぎたせいで、お腹が張ってげっぷが止まらないという非常事態に陥っていた。

「げぷっ!うう……げぷっ!」

千夏は悔しそうに自分の胸をぽすぽすと叩く。

「なんでよりによって今日なのじゃ!げぷっ!」

そこへ、直哉がコップ一杯の水と胃薬を手にやってきた。

「緊張するな。お前の舞は誰より上手いんだから」

彼はそっと水と薬を差し出す。

「これを飲めば、その……げっぷも止まるはずだ」

千夏は少し感動した面持ちでそれを受け取った。

「お主は優しいのう……げぷっ!たまに間抜けじゃがな」

「おい、人が親切にしてやってるのに、間抜けは余計だろ」

直哉はやれやれと首を振った。

薬をこくりと飲み干した千夏は、悪戯っぽく微笑む。

「今日は奇跡が起こるぞ」

彼女の瞳が、春の陽光を浴びて金色にきらめいた。

昼過ぎ、祭りは正式に始まった。神社の境内は黒山の人だかりで、参拝客は予想をはるかに超え、隣町からわざわざ足を運ぶ人までいる始末だった。

直哉は正式な狩衣を身にまとい、拝殿の前に立って開会式を執り行う。

「本日は和泉祭りにお集まりいただき、誠にありがとうございます。わたくしは和泉神社の神職、和泉直哉と申します。これより、和泉の神様に皆様の――」

極度の緊張から、直哉は祝詞の冒頭を噛んでしまい、声がわずかに震えた。

すかさず、隣に控えていた千夏が小声でささやく。

「『五穀豊穣、家内安全を祈念し』じゃ。『豊穣五穀、安全家内』ではないぞ、間抜け」

「……っ!」

直哉は気まずそうに一つ咳払いをすると、千夏の助言通りに祝詞を続けた。そこからの二人の息はぴったりで、どうにか無事に開会式を終えることができた。

祭りの会場は、まさにお祭り騒ぎだった。占いの屋台には長蛇の列ができ、お守りの授与所は幾重もの人垣に囲まれている。絵馬掛けには願い事が書かれた小さな木の札がびっしりと吊るされ、様々な屋台から漂う香ばしい匂いが境内を満たしていた。

桜は記録係としてカメラを構えながら、ふとレンズ越しに直哉と千夏の微笑ましいやり取りを捉えていた。千夏が直哉の汗を拭うために手ぬぐいを渡し、直哉が千夏のために風で乱れた髪を優しく直してやる。その光景ににじみ出る自然な親密さに、桜は知らず知らずのうちに見入っていた。

「こんなに賑やかな和泉祭りは、何十年ぶりじゃろうか」

白髪の老人が、懐かしそうに目を細める。

「前回こうじゃったのは、わしがまだ洟垂れ小僧だった頃じゃよ」

直哉は、忙しそうに立ち働く千夏の横顔を見つめた。

(全部、千夏のおかげだな……)

その喧騒の片隅で、椿川明日香が数人の部下と共に参拝客に紛れ込み、人混みの中から千夏の一挙手一投足に鋭い視線を送っていた。

夕刻、祭りはついにクライマックスを迎える。千夏による奉納舞『狐の舞』の時間だ。

特製の赤い舞衣をまとい、金色の扇子を手にした千夏は、舞台裏で緊張しながら出番を待っていた。

「どうした?顔色が悪いぞ」

直哉は彼女の異変に気づいた。

「ま、またげっぷが……!げぷっ!」

千夏は真っ青になって訴える。

「わ、妾、もう舞台に出られぬ!げぷっ!」

直哉はすぐさま彼女のそばに駆け寄り、その小さな背中を優しくさすった。

「落ち着いて、千夏。お前ならできる!いいか、観客がみんな油揚げだと思え!」

「油揚げが妾の舞を見るわけなかろう!げぷっ!」

千夏はぷんすかと彼を睨みつけたが、それでも言われた通りにゆっくりと深呼吸を繰り返した。

やがて、舞台袖にまで響く太鼓の音を合図に、千夏はすっと息を吸い込むと、優雅な足取りで舞台へと歩み出た。彼女の動きは流れるようにしなやかで、まるで本当に数百年を舞い続けてきたかのような洗練された美しさがあった。

しかし、舞の途中、大きくターンしようとした瞬間、千夏は自身の着物の裾に足を取られ、体勢を崩してしまう。観客席から、小さなどよめきが起こった。

だが、彼女は転ぶ寸前で機転を利かせ、その失敗を即興のコミカルな『狐ステップ』へと昇華させてみせた。その愛らしい動きに、観客席からは温かい笑いと拍手が沸き起こる。

観客たちはこれを新しいパフォーマンスの一部だと思い込んだらしく、その拍手は千夏を励ますように続いた。

それに勇気づけられたのか、千夏は次第に落ち着きを取り戻し、その舞姿はますます優美になっていく。まるで、何か見えざる力が彼女を導いているかのようだった。

舞が最高潮に達したとき、千夏はトランス状態にでも入ったかのようだった。彼女のつま先がふわりと地面を離れ、月光の下、その背後に九本の黄金の尾の幻影が揺らめいたように見えた。その光景は、この世のものとは思えぬほど幻想的だった。

観客たちは息を呑んでその奇跡を見つめ、年寄りの中にはひざまずき、「狐神様がお姿を現された……」と拝み始める者さえいた。

突如、強い風が吹き抜け、千夏の袴の裾を大きく舞い上がらせた。その風に、彼女ははっと恍惚状態から目覚める。千夏は宙からふわりと舞い降りると、舞台にしっかりと立ち、観客に向かって深々と頭を下げた。

観客たちはこれも巧妙に設計された特殊効果だと思い込み、割れんばかりの拍手を送った。興奮した人々がこぞって賽銭を投げ入れ、スマートフォンで写真を撮る。その喧騒の中、千夏の瞳に一瞬よぎった金色の光と、彼女の顔に浮かんだわずかな疲労の色に気づく者はいなかった。

奉納舞が終わり、祭りが終盤に差し掛かった頃、スタッフが打ち上げ花火の準備を始めていた。そのとき、風向きが急に変わり、いくつかの火の粉が神社の本殿へと飛んで、古い木造建築の壁に燃え移ってしまった。

「火事だ!」

誰かの叫び声をきっかけに、人々はパニックに陥る。直哉はすぐに避難誘導を始めたが、乾燥した木材に火が回るのは早かった。

「妾の神社を壊させはせぬ!」

千夏は直哉の制止を振り切り、燃え盛る炎の中へと飛び込んでいった。

「千夏!危ない!」

直哉の悲鳴も、もう彼女には届かない。

周囲に人がいないことを確認すると、千夏は両手で印を結び、古めかしい祝詞を唱え始めた。彼女の瞳が金色の縦長の瞳孔へと変わり、指先から赤い霊力が放たれる。彼女の制御の下、炎はみるみるうちに小さくなり始めたが、極度の緊張のせいか、炎はなぜか鮮やかなピンク色に変わり、あろうことか巨大なハートの形を描き出してしまった。

その光景を目にした参拝客たちは、またしてもこれを祭りの特別な演出だと思い込み、感嘆の声を上げる。

「うわぁ!ロマンチックなピンクの花火!」

「このエフェクトすごすぎ!」

「和泉神社って、意外とクリエイティブなんだな!」

人々は次々とスマートフォンを向け、その「サプライズ演出」を写真に収めていた。

やがて火は完全に鎮火し、神社は外壁の一部が焦げただけで済んだ。千夏は霊力を使い果たし、その場に崩れ落ちそうになったところを、駆けつけた直哉に力強く支えられた。

「大丈夫か、千夏!」

直哉が心配そうに覗き込む。

千夏は弱々しく微笑んだ。

「言うたであろう……今日は奇跡が起こる、と」

椿川は、千夏が炎を操る一部始終を遠くから目撃し、彼女がただの人間ではないと確信していた。調査のために近づこうとしたが、その足元にどこからともなく現れた一匹の狐がじゃれつき、彼女はバランスを崩して盛大に祭りの池へと転落した。

「きゃっ!」

椿川は無様な姿で水の中から這い上がる。念入りにセットしたウィッグはずり落ち、完璧だったはずのメイクは完全に崩れ落ちていた。

部下たちが慌てて彼女を助け起こす中、椿川は素早く茂みへ逃げていく狐の背中を睨みつけた。

「あの狐……わざとね!」

遠くで、千夏が椿川の方へ向かって意味ありげに微笑む。その瞳に、一筋の金色の光が宿ったのを、椿川は見逃さなかった。

彼女は部下に後を任せると、急いでその場を離れ、スマートフォンを取り出して電話をかける。

「ターゲットの正体を確認。次の計画の準備を急いで」

桜は、その一部始終に気づいていた。千夏と椿川の間に流れる不穏な空気を、彼女は密かに写真に収め、物思いに耽るように二人を見つめていた。

祭りが終わり、参拝客が去った神社に静けさが戻った。桜は今日撮影した写真を整理していると、千夏が能力を使った際の不鮮明な写真を数枚見つけた。しかし、どの決定的な写真も、千夏の動きが速すぎるせいでコミカルなブレ写真になってしまっており、証拠としては全く役に立たないものばかりだった。

「もう!どうしていつも肝心な時にちゃんと撮れないのよ!」

桜は悔しそうに小さく唸った。

社務所では、直哉が今日の賽銭と授与品の売り上げを数え、驚きの声を上げていた。

「すごい……これは神社にとって、ここ十年で最高の収入だ!」

千夏は疲れながらも満足げにその傍らに座り込み、ご褒美の油揚げを幸せそうに頬張っている。

「妾、なかなかやったであろう?」

直哉は真摯な眼差しで彼女を見つめた。

「ああ。お前のおかげだ。この神社に、また賑わいが戻ってきた」

千夏は少し恥ずかしそうに俯く。

「これは本来、妾がすべきことじゃったからの……」

その声はとても小さく、どこか遠い昔を懐かしむような響きがあった。

深夜、直哉はふと千夏が部屋にいないことに気づき、心配になって境内を探し回った。最終的に、神社の裏山で月光を浴びる千夏の姿を見つける。彼女は満月に向かい、自身の能力を制御する練習をしていた。

月明かりの下、千夏は狐火――青白い炎を手のひらに灯そうと試みていたが、制御が不安定なのか、炎は大きくなったり小さくなったりと、頼りなく明滅を繰り返している。

「集中……集中じゃ……」

千夏は小声で呟き、額には玉の汗が滲んでいた。

そのとき、ふとした気の緩みから、炎が近くに干してあった直哉の洗濯物へと飛んでいき、ボヤ騒ぎを引き起こしてしまった。

「あっ!」

千夏が素っ頓狂な声を上げる。

「俺のお気に入りのパンツが!」

物陰に隠れていた直哉が、思わず飛び出した。

二人は慌てて火を消そうとするが、千夏が能力で水を操ろうとして失敗し、うっかり二人ともずぶ濡れになってしまった。

びしょ濡れで情けない状況の中、直哉は月光に照らされた千夏の横顔が、息を呑むほど美しいことに気づいた。水滴が彼女の白い頬を滑り落ち、月の光を浴びてきらきらと輝いている。

千夏は彼の視線に気づき、悪戯っぽく首を傾げた。

「なんじゃ、そんなに見つめて。妾に見惚れたか?」

「ち、ちが……!」直哉は慌てて首を振る。「ただ……お前は一体、何者なんだって、改めて思ってな」

千夏はミステリアスに微笑んだ。

「妾も、それを知りたいのう」

彼女の瞳に一抹の迷いと憂いが浮かぶ。千夏は月を見上げ、ぽつりと呟いた。

「時々、自分がとても大切な何かを忘れてしまったような……そんな気がするのじゃ」

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