第2章

その見下ろすような口調を聞いた瞬間、相沢千尋はたまらず皮肉を返した。

「夫が私の妹の誕生日を祝って、自分の妻のことはきれいさっぱり忘れてたのよ? それで不満を持つなっていうの?」

一ノ瀬律はネクタイを外しかけた手を止め、それから口元だけで薄く笑う。

「当然だ。お前は自業自得だろう。この結婚は、お前が手を回して盗んだものだ。不満を言う資格がどこにある? 相沢エリカの結婚を奪っただけでは飽き足らず、今度は誕生日まで奪うつもりか」

その言葉は一つひとつ毒を含んでいて、相沢千尋の胸をじわじわ締めつけた。

彼女は彼を睨みつける。

「一ノ瀬律、何が“奪う”なの? 最初に私を家から追い出して、路頭に迷わせかけたのは誰よ。あの時だって、もし……」

「黙れ!」

いつも冷静な彼の顔に、あからさまな怒りが走った。上着を執事に放り、相沢千尋を見た目には嫌悪しかない。

「相沢千尋、お前は本当に反吐が出る」

相沢千尋の顔から、さっと血の気が引いた。

反吐が出る。

彼は、彼女に対してそう言ったのだ。

一ノ瀬律は気にも留めず、さらに言葉を重ねる。

「嘘ばかり並べ立てて、相沢エリカのものを奪うのに味をしめたか。今度は彼女の記憶まで盗むつもりか」

「私はやってない!」

相沢千尋は即座に否定した。奪ってきたのは、いつだって相沢エリカのほうだ。

「お前みたいに心の汚い人間は、日の当たらない場所で生きるのがお似合いだ」

一ノ瀬律は冷酷に言い放つ。

胸の痛みはますます強くなる。相沢千尋は心口を押さえた。

彼は知っているはずなのに。彼女と相沢エリカの過去も、相沢慧子が愛人だった事実を隠すため、相沢エリカの誕生日をわざと伏せていたことも。

どうして、それでもなお彼女の傷口に塩を塗り込むのか。

昔、彼は言ってくれたではないか。いつか必ず、お前のために筋を通してやると。

……本当に、馬鹿みたい。

あの約束に取り残されていたのは、自分だけだったのだ。

もういい。

この五年は、あの時匿ってくれた恩を返したと思えばいい。

そう思ったら、不思議とこれ以上言い争う気も失せた。

「お互い顔を見ればうんざりするなら、私はあなたを相沢エリカに“返す”わ」

相沢千尋は静かに言い切る。

「これで、おあいこよ」

ちょうど水の入ったグラスを手に取った一ノ瀬律は、その言葉に指先を強くこわばらせた。握る力が増し、節が白く浮く。

彼は横目で相沢千尋を見た。ぞっとするほど冷たい視線だった。

「その言葉は、二度と聞きたくない」

吐き捨てるように言い、グラスを重く置くと、彼は彼女を見もしないまま二階へ上がっていった。

相沢千尋は追わなかった。

ただ目の中の嘲りが、いっそう深くなる。

結婚してから今まで、彼女と一ノ瀬律はずっと別々の部屋で寝てきた。以前はどうにか彼に近づこうと必死だった。でも、もう決めた。

この結婚は、絶対に終わらせる。

翌朝早く、相沢千尋は自分の荷物をまとめていた。

五年住んだわりに、スーツケースひとつでちょうど収まる程度しかない。宝石も、不動産も、ひとつも持っていかなかった。

最後に結婚指輪を外し、ドレッサーの上に置く。

それからスーツケースを引いて外へ出ると、ちょうど階段を下りてきた一ノ瀬律と鉢合わせた。

彼は相沢千尋を見、次にスーツケースへ目をやり、あからさまに眉をひそめる。

「まだ騒ぎ足りないのか」

自分が少し甘い顔を見せすぎたせいで、彼女はどこまでも増長した――そう言わんばかりだった。

相沢千尋は足を止め、見上げて、ふっと笑った。

淡い笑みだった。目元に届く前に、すぐ消えるような。

「騒いでるんじゃないわ。一ノ瀬の妻の座は、もともと私のものじゃなかったって思っただけ。だから、ちゃんと空けるの」

そう言い残し、彼女はそのままスーツケースを引いて歩き出した。

「奥様、どうなさったんですか」

執事が慌てて追ってくる。

「お話ならきちんと――どうか、そんなに急いで出ていかないでください」

相沢千尋は彼を見た。その胸に、少しだけ酸っぱいものが込み上げる。

一ノ瀬家で彼女に優しかったのは、執事くらいのものだった。彼女が一ノ瀬律を大切に思っていることも知っていて、何かと取り持とうとしてくれた。

でも、もう気持ちは決まっている。

「話すことなんてないの」

相沢千尋はあっさりと言った。

「私、まだ若いし。一ノ瀬律はあっちは駄目、生活は不満だらけ。だから他の男に目が向いたのよ」

執事は目を丸くし、その場で固まった。

食卓の前に腰を下ろしかけていた一ノ瀬律は、その言葉に一瞬で顔色を変えた。

大股で歩み寄り、相沢千尋のスーツケースを脇へ弾き飛ばすと、彼女を壁に押しつける。

「その男は誰だ」

あまりにも際どい体勢に、相沢千尋の表情がぴくりと揺れた。だが、すぐに平静を取り戻す。

「あなたには関係ないでしょ。どうせ離婚するんだから」

一ノ瀬律の目が、すっと暗く沈む。

彼の親指が相沢千尋の唇に当てられた。なぞるように、ゆっくりと擦っていく。どこか試すようで、どこか挑発的だった。

「新しい手か?」

相沢千尋は息が詰まり、顔を背ける。

「勝手に思えば」

親指に触れていたやわらかさが消えた。

一ノ瀬律は一瞬だけ目を止め、次の瞬間には再び彼女の顎をつかんでこちらへ向けさせた。指の下の肌は白くてなめらかで、妙に癖になりそうだった。

彼のまなざしがいっそう深く沈む。

「そんなに男が欲しいのか? だったら俺に頼め。満たしてやる」

不意に近づいた端正な顔に、相沢千尋の頬は思わず熱を帯びた。心臓まで速くなっていく。

「放して!」

彼にとっても、相沢千尋が怒る姿を見るのは初めてだった。

これまでの彼女は、鈍くさくて、生真面目で、つまらない女だと思っていた。だが怒った今の彼女は、驚くほど生き生きとしている。目立たなかった顔立ちまで、一枚の名画から埃を払ったように鮮やかだった。

少し、目を奪われるほどに。

「動くな」

自分でも気づかないうちに、彼の声はかすかに掠れていた。

熱を帯びた吐息が、少しずつ絡みついてくる。

相沢千尋は戸惑い、思わず顔を上げた。

その瞬間、深い彼の瞳に真っ直ぐぶつかる。

胸が、ふわりと揺れた。

こんなふうに真剣に見つめられたのは、初めてだった。

さらに一ノ瀬律が少しだけ身を寄せる。

互いの息遣いまで感じられそうな距離。

相沢千尋は無意識に息を止める。言葉にできない熱が、胸の奥からじわりと広がっていった。

まさか、彼――

そう意識した瞬間だった。

一ノ瀬律は突然、汚いものでも放り捨てるように手を離し、彼女を突き放した。

「離婚を言い出したのはお前だ。あとで後悔しても知らないぞ」

目の前の影が消え、冷たい空気が流れ込む。

相沢千尋はそこでようやく我に返った。

一ノ瀬律が立ち去るのを見て、彼女もスーツケースを引こうとする。

「奥様、お坊ちゃまは今、腹を立てておられるだけです。どうか、もう少しだけお待ちください」

「執事さん、もう決めたの。止めないで」

何度も引き留められ、相沢千尋は荷物を持ち出せないと悟った。

ならば、と彼女はスーツケースから手を離す。

「人だけ出ていく。荷物はここに残す。それなら文句ないでしょう」

執事はそれ以上止められず、ただ彼女が去っていくのを見送るしかなかった。

その夜。

一ノ瀬律が帰宅すると、家の中が妙に静かだった。

相沢千尋がまだ拗ねているのだろうと、彼は大して気にしなかった。あのしつこい性格なら、そのうち自分から謝りに来る。いつだってそうだったのだから。

だが、書斎で十時まで待っても、相沢千尋は来ない。

まさか本当に出ていった?

いや、ありえない。あれほど自分に執着していた女が、簡単に離れられるはずがない。

さらに十分待っても、やはり誰も来なかった。

一ノ瀬律は立ち上がり、階下の客間へ向かう。ドアは開いていた。中には誰もいない。

彼の顔色が変わる。

すぐ執事を呼びつけた。

「相沢千尋はどうした」

執事はうつむき、小さな声で答える。

「奥様は……朝、お出になりました」

一ノ瀬律の表情がぴたりと固まった。

いつも冷静なその目に、初めてかすかな愕然が走る。

前のチャプター
次のチャプター