第3章
驚きの次に来たのは、怒りだった。
一ノ瀬律の顔が完全に翳る。唇を固く結び、瞳の奥にはじわじわと嵐が集まっていく。
「本当に出ていったのか……!」
執事は彼の剣幕に、息すら潜めるしかない。
その時、部屋の中で何かがきらりと光った。一ノ瀬律が近づいてみると、それは相沢千尋の結婚指輪だった。その隣には、すでに彼女が署名を済ませた離婚届まで置かれている。
彼はそれを手に取り、目を落とした瞬間、視線が凍りついた。
離婚理由の欄には、こう書いてある。
――体力不足により、安定的かつ健全な夫婦生活を維持できないため。
この女、正気か。
一ノ瀬律はスマホを取り出し、相沢千尋に連絡しようとした。するとその前に、友人の宇佐美拓海からメッセージが飛び込んでくる。
【律、早く相沢千尋のSNSを見ろ。あいつ頭おかしくなったぞ!!】
怒りを押し殺しながら、一ノ瀬律はLINEで相沢千尋を探した。だが、連絡先リストのどこを探しても出てこない。削除されたのだと気づいた瞬間、彼の顔はさらに険しくなる。電話をかけても、返ってくるのは無機質な話し中の音だけ。
相沢千尋、お前……今回は度が過ぎる。
彼はすぐ宇佐美拓海に電話をかけた。
「相沢千尋のSNS、スクリーンショットを送れ」
送られてきた画像には、写真が一枚と短い文が添えられていた。
写真は、署名済みの離婚届。
そして文は――
――クソみたいな過去とはおさらば。あたし、新しい人生に向かうわ。
一ノ瀬律はスマホをぎりっと握りしめた。全身から冷気が立ちのぼる。
自分との日々が、クソみたいな過去だと?
では彼女は、これまでずっと芝居をしていたというのか。
……
その頃、相沢千尋は親友の浅野清美と買い物をしていた。
SNSの投稿を見た清美は、腹を抱えて笑っている。
「千尋、やっと吹っ切れたのね! あの思い上がったクズ男を蹴っ飛ばしたなんて、あたし感動しちゃう!」
かつて自分がどれほど卑屈だったかを思い出し、相沢千尋は苦笑するしかない。何もかも、ほんとうに割に合わなかった。
清美はまだ止まらない。
「それにしても、一ノ瀬律があそこまでクズだとは思わなかったわ。相沢エリカなんて、あいつが駄目になった時に見捨てて逃げたくせに、今さらまた拾い食いとか気持ち悪すぎるでしょ」
その通りだ、と相沢千尋も思う。
吐き気がするほどに。
「でもまあ、今気づけただけまだ遅くないわよ」
「そうそう!」
清美は彼女の腕を引いて服屋へ入っていく。
「独身復帰祝いよ。今日は欲しいもの、何でもあたしが買ってあげる! 夜はサプライズだって用意してるんだから」
そう言ってから、改めて相沢千尋の顔をじっと見た。
「それと、その顔もどうにかしなさい。こんな美人なのに、なんで今まであんな地味な感じにしてたのよ」
そう言われて、相沢千尋は思わず自分の頬に触れた。
以前、一ノ瀬律は派手に化粧する女が嫌いだと言っていた。そして彼女はもともと華やかな顔立ちをしている。だからこそ、彼の好みに合わせて、本来の自分を隠していたのだ。
今思えば、本当に馬鹿だった。
……
クラブ・ミューズ。
一ノ瀬律は数人の友人たちとソファに座っていた。指先をグラスにかけたまま、どこか上の空だ。
宇佐美拓海が身を乗り出してくる。
「律、お前まさか相沢千尋のこと考えてる?」
一ノ瀬律は手を引き、ソファに深くもたれて淡々と答えた。
「考えすぎだ」
「だよな。お前があんな犬みたいな女のことで悩むわけない」
宇佐美拓海は笑いながら続ける。
「俺に言わせりゃ、これもどうせ相沢千尋の駆け引きだろ。あいつ、お前と結婚するために実家の何もかも捨てたようなもんなんだぞ? それで本当に離婚するわけないって」
周りも次々とうなずいた。
「そうそう。相沢千尋がお前にぞっこんなのなんて、誰でも知ってるしな。昔だって、お前があんな状態なのにどうにか婚約まで取りつけたくらいだ。治った今、手放せるわけがない」
「前なんて、お前が骨付き肉を食いたいって何気なく言っただけで、夜中に起きて作ってたじゃん。そんな女が離婚だなんて、冗談だろ」
「律少、賭けるか? あの相沢千尋なら、せいぜい三日だ。絶対戻ってきて泣きつく」
「いや、三日も持たないな。十分後には電話してくるに一票」
個室の中に、くすくすと押し殺した笑いが広がる。
けれど一ノ瀬律だけは笑わなかった。
今、彼らが口にした情景が、次々と脳裏をよぎる。
たしかに相沢千尋は、いつも彼の望みに応えていた。いつしか彼が何も言わなくても、何を考えているか察するようにまでなっていた。前にも拗ねたことはあったが、最後には彼が何も言わなくても、自分から元に戻っていた。
ぶるぶる、と。
テーブルの上のスマホが震えた。
一斉に全員が静まる。
一ノ瀬律は我に返り、画面を見た。
宇佐美拓海がすぐ言う。
「相沢千尋じゃね? 早く出ろよ。何て言うか聞かせてくれ」
表情は変えないまま、一ノ瀬律はスマホを手に取った。
だが表示されていたのは見知らぬ番号。
彼の目にかすかな揺らぎが走る。それでも通話を取った。
「もし――」
声を出した瞬間、その目はすっと冷えた。
相沢千尋じゃない。
彼は一言も続けず、そのまま通話を切った。
宇佐美拓海が慌てて取り繕う。
「今回はちょっと我慢してるだけだって。大丈夫、そのうち絶対折れるから」
周りも口々に同調する。
一ノ瀬律は無表情のままスマホを置き、低く言った。
「何をしようが、俺には関係ない」
あんな偽善的な女には、もううんざりしている。この五年は、彼にとって苦痛でしかなかった。向こうが離れたいなら、むしろ望むところだ。
宇佐美拓海は慌てて場を盛り上げた。
「そうそう。せっかく集まったんだ、つまらない奴の話はやめようぜ。ほら、飲もう!」
皆がグラスを掲げる。
だが一ノ瀬律は、どうにも興が乗らなかった。帰ろうかと思った、その時。
個室の外が急に騒がしくなる。
宇佐美拓海が立ち上がり、窓際へ駆け寄った。
「おい、見ろ! 超絶美人が来たぞ!」
他の連中もぞろぞろと窓辺へ集まり、一ノ瀬律にも見るようせがむ。彼自身は興味がなかったが、あまりに皆が騒ぐので、少しだけ気になった。
窓の前に立ち、何気なく下を見下ろす。
――視線が、ぴたりと止まった。
あの女……どこかで見た気がする。
一階。
相沢千尋は赤い背中開きのドレスをまとい、歩くたび裾が揺れて、まるで炎のようだった。生まれつきの華やかな顔立ちは、移り変わる照明の下で夜の真珠みたいに艶めき、見る者の目を奪って離さない。
騒がしかったバーが、一瞬しんと静まり返る。
次の瞬間、感嘆と口笛があちこちで弾けた。
相沢千尋は目を瞬かせた。
……そんなに大げさ?
「ほらね、言ったでしょ。あんたはこうしてれば全員を黙らせられるの。怖がらないで、褒められるのを楽しみなさい」
清美が彼女の手を引き、奥の個室へ向かっていく。
相沢千尋は笑った。
「確かに、その通りかも」
「うわ、あの美女誰だよ? 見たことねえ!」
宇佐美拓海も見惚れ、近くの友人をつかまえる。
「この店、お前んちの系列だろ。三分やる。あの美人の情報、全部調べてこい!」
一ノ瀬律の視線は、そのしなやかな後ろ姿に釘づけだった。
妙な既視感がある。
脳裏には、今朝、怒って生き生きとしていた相沢千尋の顔がよぎった。
