第4章
どうしてあの女と相沢千尋が結びつくというのか。
普段の相沢千尋は、地味で堅苦しく、化粧ひとつしない。ひと目見れば興味を失うような女だ。
それに対して、あの女は眩しいほど華やかで、人の視線を根こそぎ奪っていく。
似ても似つかない。
「やばい、綺麗すぎる! 相沢エリカより上じゃね?」
と、宇佐美拓海が興奮気味に叫んだ。
ちょうどその時、相沢エリカが彼らのそばへやって来て、その言葉を耳にした。足がぴたりと止まり、顔色が変わる。
「連絡先さえ分かったら、もう人生悔いないわ!」
宇佐美拓海は人混みの中の相沢千尋に見入って、今にも涎を垂らしそうな勢いだ。
相沢エリカの姿に気づいた周囲の何人かが、慌てて彼の袖を引いた。
だが彼は鬱陶しそうに振り払う。
「何だよ、邪魔すんな。美人見てんだよ!」
「拓海、誰が来たか見ろって……」
ぼそぼそとした忠告が飛ぶ。
彼は不機嫌そうに振り返った。
「誰だよ、そんなの俺に関係――」
言いかけたまま、彼の目がかっと見開かれた。
「え、エリカさん? なんでここに。いや、すごい偶然ですね!」
慌てて咳払いし、必死に取り繕う。
「さっきのは全部冗談ですって。エリカさんが一番です! 誰より綺麗です!」
相沢エリカは淡く唇を吊り上げた。
「そんなに魂を抜かれるほどの美人って、ちょっと気になるわね」
彼女は彼の視線を追い、人混みの中の相沢千尋を見つけた。
その瞬間、相沢エリカの表情が変わり、驚きが走る。
――相沢千尋?
雰囲気を変えたの?
まさか、一ノ瀬律を誘惑するつもり?
彼女は思わず隣の一ノ瀬律を見た。だが彼の表情は冷えたままで、特に反応は見えない。
相沢エリカは密かに胸を撫で下ろした。
やっぱり、彼が好きなのは自分なのだ。
最近二人が離婚でもめていると聞いた。だからこそ今日ここへ来たのだ。この話を、完全に決定的なものにするために。
光り輝く相沢千尋を一瞥し、相沢エリカの口元に冷たい笑みが浮かぶ。
彼女はゆっくりと一ノ瀬律のそばへ寄り、わざと弱々しい声で言った。
「へえ……拓海って、ああいう露出の多い、外で男の目を集めるような女が好きなのね?」
「いや、俺は……」
宇佐美拓海は言葉に詰まる。
彼からすれば、あの女の服装は別に普通だ。あれだけのスタイルなら見せたくもなるだろう。
だが相沢エリカにそう言われては、慌てて言い直すしかない。
「そんなわけないって。やっぱエリカさんみたいな人のほうが魅力あるよな? なあ、律?」
見事な火の粉返しだった。
一ノ瀬律はわずかに眉を寄せたが、何も答えない。
空気がまずいと察した宇佐美拓海は、さっさと友人たちを連れて退散した。
相沢エリカは潮時だと見て、わざと少し声を張り、大袈裟に驚いてみせる。
「あの人、お姉ちゃんにそっくり……」
次の瞬間、さらに目を丸くした。
「え、やっぱりお姉ちゃんだ! どうしてあんな格好を? あなたの顔に泥を塗る気なの? 少しは慎みってものがないのかしら」
一ノ瀬律はゆっくり顔を上げた。
沈んだ眼差しが相沢千尋へ落ちる。よく見れば――確かに、あれは彼女だった。
その瞬間、彼の顔色は一気に悪くなった。
あの赤が、妙に目に刺さる。
離婚を切り出したばかりで、もう遊び歩いているのか。
今までの深情けも、全部演技だったわけだ。
一ノ瀬律はあの赤い影をじっと睨みつけた。喉仏がごくりと上下し、瞳の奥では荒々しい感情が渦巻いている。
その頃、相沢千尋は浅野清美と一緒にすっかり盛り上がっていた。場の空気に飲まれ、二人とも完全に羽目を外している。
浅野清美に煽られ、相沢千尋は音楽に合わせて体を揺らした。赤いドレスが翻り、精巧な目元口元がきらめく。その美しさに、誰も視線をそらせない。一曲終わるころには、歓声が天井を吹き飛ばしそうなほどだった。
そこへ何人かの男子大学生風の青年が相沢千尋を取り囲み、目を輝かせて甘く呼びかける。
「お姉さん!」
「お姉さん、綺麗すぎる。今夜、俺と帰らない?」
「お姉さん、俺、忠犬になるよ。東向けって言われたら絶対西向かないから」
次々に飛んでくる「お姉さん」に、相沢千尋はあっという間に酔わされていった。
「今夜のここのお会計、全部私が持つわ!」
気分がよくなった彼女がそう宣言する。
「姉さん最高!」
歓声がさらに爆発する。
人混みの中で、相沢千尋は心から楽しそうだった。
一方で、一ノ瀬律のスマホはひっきりなしに震えている。
すべて利用明細の通知だった。
酒類支出――80000。
ホスト支出――5000000。
表示を追うたび、一ノ瀬律の顔はどんどん沈んでいく。今にも水が滴りそうなほど暗い。
ふと、今朝の相沢千尋の言葉が蘇った。
――一ノ瀬律は駄目。体力もないし、生活も不満。だから他の男が好きになったの。
他の男?
一人どころじゃない。
ざっと見ただけで、なんと八人ものホストがいる。どいつもこいつも元気そうで、大学生じみた若さまで漂わせていた。
しかも相沢千尋は、その若い男たちに囲まれて頬を上気させている。
こんな顔、彼は今まで見たことがなかった。
胸の奥で、何かがどん、と爆ぜる。骨ばった指がぎしりと力を込めた。
ぱきっ。
手にしていたグラスが、そのまま握り潰された。
隣の相沢エリカがびくっと身をすくめる。
「律、どうし――」
言い終わる前に、一ノ瀬律はもう立ち上がっていた。長い脚でさっさと歩き出し、一階へ向かう。
言葉はすべて喉の奥に詰まったまま。相沢エリカはその冷たい背中を見つめ、目の奥に悔しさと嫉妬をにじませた。
一ノ瀬律がここまで反応するのは、まさか相沢千尋のせい?
――そんなはずない。
きっと、ただ面子を潰されたと思っているだけ。
彼女はそう自分に言い聞かせるしかなかった。
一階。
相沢千尋は目隠しをされ、周囲に囃されながらゲームに参加していた。
――目隠し腹筋当てゲーム。
目の前は真っ暗だ。相沢千尋は慎重に手を伸ばし、服越しに固く熱い筋肉へ触れる。調子に乗って、そのまま裾の内側へ手を滑り込ませた。しなやかで引き締まったライン。触り心地まで抜群で、思わず二度三度と摘まんでしまう。
「すごい、いい体……!」
思わず漏れた感嘆。
その瞬間、周囲で一斉に息を呑む音がした。さっきまでの喧騒が、嘘みたいに静まり返る。
だが相沢千尋は気づかない。夢中で触っていた。
次の瞬間。
手首を乱暴に掴まれた。骨ごと握り潰されるかと思うほど強い力に、相沢千尋は痛みに顔をしかめ、勢いよく目隠しを外す。
文句を言おうとした、その前に。
真っ黒な怒りをたたえた目と、真っ向からぶつかった。
一ノ瀬律。
目の前に立つ彼は、顔色がひどく悪い。炎のような怒気を秘めた目で、相沢千尋を死ぬほど睨みつけている。
どうして彼がここに?
――待って。
じゃあ、今さっき触っていた腹筋って……。
相沢千尋はそこでようやく、自分が触っていたのが他人ではなく、一ノ瀬律の腹筋そのものだったと気づいた。
思わず目を丸くし、反射的に逃げ出そうとする。だが次の瞬間、ぐいと引き寄せられ、身体が前のめりに傾いた。硬い胸板へそのままぶつかる。
鼻先をかすめるのは、よく知った冷たい木の香り。相沢千尋は二度ほど身をよじり、唾を飲み込んでから口を開いた。
「奇遇ね、元・旦那さん」
それを聞いて、面白がっていた宇佐美拓海は思わずまじまじと見直した。一ノ瀬律の腕の中の美女が、まさか相沢千尋だったなんて。
「相沢千尋に、こんな綺麗で色っぽい面があったのか?」
「相沢エリカより綺麗じゃないか?」
「一ノ瀬社長、もしかして後悔してる?」
周囲のざわめきなど耳にも入らず、相沢千尋はただ逃げたかった。だが一ノ瀬律の力が強すぎて、手首がじんじん痛む。
「放してよ!」
苛立った声で叫ぶ。
「ホストを八人も呼ぶとは、俺が死んだとでも思ってるのか」
一ノ瀬律の声は氷みたいに冷たい。
相沢千尋はおかしくてたまらなかった。
「もう離婚するんだから、何人呼ぼうが私の勝手でしょ。あなたに関係ある?」
その開き直りきった態度に、一ノ瀬律の顔色はますます悪くなる。彼は相沢千尋をそのまま抱き上げると、近くの個室へ放り込んだ。
ばん、と重い音を立てて扉が閉まり、外の喧騒は一気に遮断される。
相沢エリカはそのぴたりと閉ざされた扉を見つめ、鍋底のように黒い顔をした。目の奥では嫉妬が今にも溢れそうだった。
