第5章
個室の中。
相沢千尋は容赦なくソファへ投げ出された。
振り向きざまに文句を言おうとした、その時。
「一ノ瀬律、あなた正気……」
言葉は途中で止まった。一ノ瀬律の動きを見て、相沢千尋は目を見開く。
彼は不機嫌を隠しもせず、苛立たしげにシャツのボタンに手をかけていた。
ひとつ。
ふたつ。
外されていくたび、相沢千尋の脳裏にさっきの腹筋の感触が蘇る。表情がぴくりと固まった。
……何をする気なの?
密室に、男と女。
ほかに何があるというのか。
一ノ瀬律は彼女に興味がないはずだった。
結婚してから今まで、一度だって手を出したことはない。
なのに離婚を切り出した途端、どうしてこんなふうに変わるのか。
そう考えているうちに、一ノ瀬律はもう目の前まで来ていた。長身が冷たい気配をまとって迫り、影が覆いかぶさる。次の瞬間、彼はふっと身をかがめ、そのまま相沢千尋をソファと自分の胸のあいだに閉じ込めた。
鋭い目が、真っ直ぐ彼女を射抜く。瞳の底には、押し殺せない怒りが渦巻いていた。視線が少し下へ落ちる。いつの間にか彼のシャツは二つボタンが外れ、形のいい鎖骨が覗いている。さらにその下には、引き締まった腹筋までうっすら見えた。
相沢千尋はごくりと唾を呑む。その直後、ふと頭をよぎったのは、こんな身体を相沢エリカには見せてきたのだろう、という嫌悪だった。目の中に露骨な嫌気が走り、きつく眉を寄せる。
「近づかないで。汚い」
一ノ瀬律の動きが止まる。次の瞬間、彼は上着を脱ぐと、いきなり相沢千尋の身体に巻きつけた。煽情的な赤いドレスが、上からすっぽりと隠される。そのまま片手を彼女の肩に置いた。
鼻先に満ちるのは、心地よい冷たい木の香り。相沢千尋は反射的にそのジャケットを引き剥がそうとした。
「動くな」
彼の声はかすれていて、低く、逆らわせない圧があった。
「今後、こんな格好で俺に恥をかかせるな」
その声は刃のように冷たく、相沢千尋の胸をすっぱり切り裂いた。
怒りと可笑しさが一緒にこみ上げる。相沢千尋は顔を上げ、目いっぱいの皮肉を返した。
「恥をかかせる? 自分が見ないくせに、他の人が見るのも駄目なの? あの人たちはちゃんと目があるもの。どこぞの盲目男より、よっぽど見る目があるわ」
「他の人たち」――その一言に、一ノ瀬律の表情は一気に険しくなった。
さっき彼女が男たちの中を楽しげに渡り歩いていた姿を思い出し、眉間が深く寄る。
「自分の立場を忘れるな。まだ離婚は成立していない。正式に手続きが終わるまでは、お前は依然として一ノ瀬の妻だ。どれだけ男に飢えていようと、一ノ瀬家の面子くらい考えろ」
怒りを押し殺すように、わざと声を落としているのが分かる。だからこそ、その警告はなおさら容赦がなかった。
けれど相沢千尋には、滑稽な冗談にしか聞こえない。
こんな真顔で説教してくる一ノ瀬律を見て、かえって笑いそうになる。
結婚してから今まで、彼が彼女にこんなに長く話しかけたことなんてなかった。
もう離婚するのに、今さら何が一ノ瀬家の面子だ。
次の瞬間、相沢千尋はふいに身体を前へ倒した。
しなやかな手が、一ノ瀬律の首筋に絡みつく。彼が眉をひそめる間もなく、両腕はそのまま彼の首に回された。
喉仏がわずかに動く。何か言おうとした、その直後。相沢千尋は足を持ち上げ、彼の腰へ大胆に絡みつかせた。
「お前……」
「どうして私がホストを呼んだか、本気で分からないの?」
相沢千尋は口元をつり上げた。目尻には妖しい色気さえ宿っている。片手を伸ばし、彼の眉、目元をなぞる。指先にはほのかな香りが乗っていて、嗅ぐだけで酔わされそうだった。
「あなたが駄目だからよ。そういう意味で、私たち、ずっと不一致だったでしょう? もう離婚するんだから、ちゃんとできる男を探したっていいじゃない」
言い終わるより早く、手首をつかむ力が強まった。痛みに相沢千尋が眉を寄せた、その次の瞬間。男が身をかがめ、冷たい唇が彼女の唇を塞いだ。
相沢千尋の目が大きく見開かれる。信じられない、という色がそのまま浮かんでいた。無意識に両手を彼の胸へ押し当て、押し返そうとする。
けれど彼のキスは怒りを孕み、侵略的で、長く抑え込まれていたものが一気に溢れ出したように乱暴だった。荒々しく、切羽詰まっていて、まるで彼女を丸ごと呑み込もうとするみたいに。
相沢千尋は何度か抵抗したが、次第にその強引な口づけに飲み込まれていく。全身の力が抜け、呼吸を奪われながら、ただ彼に蹂躙されていった。
どれほど経ったのか分からない。鋭い着信音が鳴り響き、室内の甘く危うい空気を断ち切った。
部屋の中は異様なほど静かで、乱れた二人の呼吸だけがやけに大きい。
目の前の整った顔を見て、相沢千尋はようやく、自分たちが今しがた何をしたのかを理解した。頬が一気に熱くなる。彼女は力いっぱい男を押しのけ、顔をそむけた。
「一ノ瀬社長って、キスまで下手なのね。相沢エリカは知ってるの?」
その嘲るような一言に、一ノ瀬律は一瞬で我に返った。自分が何をしたのか、その認識が遅れて押し寄せる。
瞳に浮かんでいた欲はすっと引き、代わりにごくわずかな苛立ちと後悔がよぎった。顔色はみるみる冷えていく。
彼は身を起こし、二人の距離を取った。目はもう氷そのものだ。
「相沢千尋。くだらない小細工はやめろ」
声が低く落ちる。
「相沢エリカは、お前とは違う」
違う。
そうだ、違う。
相沢エリカみたいなやり方なんて、相沢千尋には真似できないし、真似する気もない。
彼の心にいるのは、最初から最後まで相沢エリカだけだと、ずっと知っていたはずなのに。
滑稽なのは、たった今のキスひとつで、自分の心が少しでも揺れてしまったこと。
その冷たく薄情な目を見つめるうち、相沢千尋の頬に残っていた紅はすっと消えた。残ったのは、完全な無表情だけ。
彼女は一ノ瀬律のジャケットを投げ捨て、そのまま出ていった。
廊下では親友が相沢千尋を見つけ、キスで赤くなった唇を見て怒鳴る。
「あのクズ男! あいつ何しやがったのよ!」
そのまま一ノ瀬律のところへ殴り込みに行きそうな勢いだったが、相沢千尋は慌てて腕をつかみ、引っ張って外へ向かった。
「大丈夫だから」
無理に笑って見せると、親友はようやく少し落ち着いた。
その代わり、今度は得意げに笑う。
「でも見た? あんたが連れていかれた時の相沢エリカの顔。まるで苦虫を噛み潰したみたいな顔だったわ。ほんと傑作!」
相沢千尋は苦く笑うしかなかった。相沢エリカとの戦いなら、彼女はとっくに完敗している。
家族も奪われ、恋までも失ったのだから。
ちょうどその時、個室から出てきた相沢千尋の前に、相沢エリカが歩み寄ってきた。視線は真っ先に彼女の唇へ落ちる。そして顔色がさっと青ざめた。
「あなたたち、離婚するんじゃなかったの? なのにどうしてまだ彼にまとわりつくの? どれだけしがみついても、彼の心は絶対あなたには向かないのに」
親友は聞いた瞬間、噛みつこうとしたが、相沢千尋がそっと引き止める。
相沢千尋は気にもしていない顔で、相沢エリカを見た。まだ何を言うつもりなのか、少し聞いてみたくなったのだ。
「律から離れたら、食べさせてくれる人がいなくなるのが怖いなら、お父さんに頼んであげてもいいわ。相沢家に戻れるようにって」
「相沢家に戻る?」
相沢千尋は嗤った。
「私に家なんて、もうとっくにないわ。それをこうしたのは誰だと思ってるの?」
「どういう意味よ?」
相沢エリカの取り巻きがすぐさま前に出て、彼女をかばう。
「ただの田舎者のくせに、相沢エリカと比べられるわけないでしょ」
一ノ瀬律の「違う」という言葉と同じだ。結局みんな、相沢エリカを守り、相沢千尋を貶める。
事情も知らないくせに、勝手な正義感で彼女だけを責める。
相沢千尋は相沢エリカを見据え、冷ややかに問い返した。
「相沢家は金も地位もある名家なんでしょう? そのくせ相沢エリカの実の姉は田舎に追いやるのね。子どもの頃、私があなたの部屋を使っただけで使用人部屋へ移された。試験であなたより上の成績を取ったら、今度は田舎へ捨てられた。相沢家はあなたの家であって、私の家じゃないのよ!」
周囲は騒然となった。まさか相沢家がここまであからさまに姉妹を差別していたとは、誰も思っていなかったのだろう。ひそひそと囁きが広がっていく。
まずいと察した相沢エリカは、すぐに目を赤くして泣き出した。
「お姉ちゃんが家に不満を持ってるのは分かる。でも、だからって相沢家をそんなふうにでたらめに貶めるのは酷いわ。お父さんだって傷つくのに……」
取り巻きたちも、相沢エリカが泣いたのを見て一斉に相沢千尋を攻撃する。
「顔だけはマシでも、それ以外全部、相沢エリカの足元にも及ばないくせに。一ノ瀬律にふさわしいわけないでしょ」
「離婚したら俺が引き取ってやってもいいぜ。その顔ならな」
下品な言葉がどんどん飛び交い、周囲もそれを面白がって囃し立てる。
親友は怒りで相沢エリカに殴りかかりそうになったが、相沢千尋が止めた。
そして、いかにも傷ついたように泣く相沢エリカを見て、冷たく笑う。
「一ノ瀬律の正式な奥さんの肩書きが欲しい?」
相沢エリカの目が、ぱっと輝いた。
相沢千尋の口元の笑みは、さらに冷たく深くなる。
「だったら、さっさと一ノ瀬律に離婚届へサインさせなさいよ」
