第6章
あんなにも俺と離婚したいのか。
彼女の言葉は一字一句、余さず彼の耳に届いていた。
一ノ瀬律の顔は沈みきっている。唇にはまだ、あの女の甘い味が残っているというのに、当の彼女は今や氷のように冷たく、必死に自分との関係を断ち切ろうとしていた。
ついさっきまで、あれほど自分を愛しているように振る舞っていたくせに。
すべて、演技だったとでもいうのか。
「もういい」
声そのものは淡々としていた。だが、逆らう余地のない威圧がそこにあった。
全員の視線が一斉に向く。
一ノ瀬律は長い脚で人だかりへ歩み寄った。
たったそれだけで、場はしんと静まり返る。
相沢エリカの取り巻きがすぐさま駆け寄って告げ口した。
「一ノ瀬社長、相沢千尋がエリカをいじめてるんです! 相沢家のこともずっとでたらめに悪く言ってて、私たちだって聞いていられませんでした。ちゃんと叱ってくださいよ!」
「そうです、この人、性格悪すぎます。エリカに嫉妬してるだけなんです!」
口々に相沢千尋を責め立てる声が飛ぶ。
一つ残らず、一ノ瀬律の耳へ入った。
彼は表情を変えないまま、視線だけを相沢千尋へ向ける。
彼女はそこに冷たく立っていた。顔色ひとつ変えず、まるで自分には関係ない話だと言わんばかりに。
――そういえば。
彼女がこんなふうに大勢から責められているのを、前に見たことがあっただろうか。
いや、もしかしたらあったのかもしれない。
ただ、自分が気にも留めていなかっただけで。
だから、彼女がどう立ち向かうのかも知らない。
喉仏が小さく動く。何か言おうと口を開きかけた、その時だった。
相沢千尋は親友の手を引き、そのまま立ち去ろうとした。
取り巻きの何人かが追いかけようとする。
一ノ瀬律の顔が一気に冷えた。
「これ以上騒ぎを起こすなら、一ノ瀬家を敵に回すと思え」
たった一言で、足が止まる。
取り巻きたちは顔を見合わせ、気まずそうに相沢エリカへ視線を向けた。
相沢エリカは信じられないものを見るように一ノ瀬律を見つめていた。
まさか彼が、相沢千尋を庇うなんて。
「律……」
涙目のまま甘えようと一歩出る。
「帰れ」
その声は淡々としているのに、有無を言わせぬ力があった。
相沢エリカは喉まで出かかった言葉を飲み込むしかない。
誰の目にも分かる。
今の彼は、相沢千尋を庇ったのだ。
離婚寸前だという噂ではなかったのか。
それなのに、どうして。
まさか一ノ瀬律が好きなのは、相沢エリカではない?
そんな憶測が一気に場へ広がり、空気は凍りついた。
無数の視線にさらされ、相沢エリカの顔はみるみる強張る。目の奥には屈辱が滲んだ。今すぐ慰めてほしいのに。
だが顔を上げた時には、一ノ瀬律はすでにホールを出ていくところだった。
彼女は慌ててその後を追う。
二人が去ったあと、ざわめきはむしろ大きくなった。何を言われているのか聞き取れなくても、相沢エリカにはその視線だけで十分だった。悪意ある噂話が耳元で鳴り響いているように感じる。
前を歩く一ノ瀬律の背中を見つめながら、相沢エリカは悔しさに唇を噛んだ。
追いつくと、嫉妬を押し隠してそっと尋ねる。
「律、いつお姉ちゃんと正式に離婚するの?」
声音はやわらかい。けれど瞳の奥には探る色がびっしり詰まっていた。
先ほど相沢千尋が個室から出てきた時の、あの不自然な唇。疑いは、蔓みたいに心の中で絡まり続けている。
まさか、律が相沢千尋に――
「祖父の身体がよくない。離婚を知れば、刺激になるかもしれない」
彼の声は淡々としていて、感情が読めない。
相沢エリカはほっと息をついた。
なるほど。理由は老人のため。
けれど、相沢千尋の唇の赤みを思い出した途端、また胸がざわつく。
恐る恐る、さらに踏み込んだ。
「一緒にいる時間が長いと、情が移るっていうじゃない? まさか……お姉ちゃんを好きになったりしてないよね?」
好きになる?
大胆すぎる仮定だった。
彼自身、その問いを考えたことはなかった。
そもそも相沢千尋は、他人の名を騙って彼のそばへ来た女だ。
自分がそんな相手に心を動かされるはずがないと、ずっと思っていた。
だが何故か、今日は胸のどこかに引っかかるものがある。
けれど、それは絶対に愛なんかじゃない。
一ノ瀬律は目を伏せ、黙り込んだ。
相沢エリカの顔色が変わる。目の奥に、はっきりとした焦りが浮かんだ。
本当に――?
そうでなければ、どうして否定しないの。
「律……」
さらに探ろうとした彼女に、一ノ瀬律は唐突に話題を変えた。
「お前、昔からデザイナーになりたかったんだろう。ハルにはもう連絡を取らせた。本人が直々に指導する。どうだ」
相沢エリカの表情がわずかに固まる。
デザイナーになりたい。それはもともと相沢千尋の夢だった。
何年も田舎へ押しやられても、彼女はその執着だけは捨てなかった。
相沢エリカにとって、デザイナーなんてどうでもいい。
そんなものより、一ノ瀬律の女になることのほうが、ずっと価値がある。
あと一歩。
一ノ瀬律と相沢千尋さえ離婚すれば、自分はこの街のどの女より羨まれる存在になれる。
そう思うと、彼女はすぐに笑みを作り、一ノ瀬律の腕へしなだれかかった。
「もちろん嬉しいよ。夢を叶えてくれるなんて、本当にありがとう」
目と目が合う。
二人は微笑み合った。
「そうだ、お父さんたちがあなたに会いたがってるの」
甘えるように見上げながら、相沢エリカは言う。
「前にも誘いたがってたけど、忙しいって分かってたから、私がずっと断ってたの。でも今日は、絶対断らないでね」
一ノ瀬律はわずかに眉を寄せた。だが、相沢エリカに何度もねだられては断り切れず、結局小さく頷く。
同意を得た相沢エリカはぱっと顔を輝かせ、彼が気を変えないうちにと急いで助手席へ乗り込んだ。
夕暮れが濃くなるころ。
相沢家は明るく灯り、ひどく温かな家族のように見えた。
一ノ瀬律が現れたことで、その空気はいっそう和やかになる。
食卓では、相沢夫妻がこれでもかとへつらいながら、相沢エリカを褒めそやし、二人の仲を取り持とうとしていた。
相沢エリカは終始にこやかに笑い、一ノ瀬律は表面上穏やかな顔でそれを受け流す。
彼の機嫌があまりよくないと察したのか、相沢エリカはこっそり両親に目配せした。二人は空気を読んで席を外す。
そのあと彼女は、服を取ってほしいと口実をつけ、一ノ瀬律を二階の自室へ連れていった。
ばたん、と扉が閉まる。
一ノ瀬律は眉を寄せて振り返った。
ドアの前に立つ相沢エリカが、にこやかに彼を見ている。
「どうした」
声音は柔らかい。
相沢エリカは微笑んだ。
「ううん、ただ……こうしてあなたを見てるの、久しぶりだなって。もう少し一緒にいてくれない?」
そう言って近づき、彼の腕に手を回そうとする。
けれど一ノ瀬律は、ごく自然に一歩退いた。
「いいだろう。ちょうど仕事も片づけたい」
言い終わるや否や、彼はソファに座り、スマホを取り出して仕事を始める。
あからさまに興がない様子に、相沢エリカの目に悔しさがよぎった。
だがすぐに、いつもの笑顔を取り戻す。
彼がここにいる限り、やりようはいくらでもある。
今まで邪魔だった相沢千尋も、もうすぐいなくなるのだ。離婚さえ成立すれば、一ノ瀬律は自分のものになる。
そう思うと、相沢エリカの口元は自然と上がった。
彼女はすぐ寝室へ戻り、いちばん煽情的なネグリジェを選び出した。
鏡の前で何度も合わせ、ようやく満足して身につける。
ドアの隙間から、外で真面目に仕事をしている一ノ瀬律を覗き見て、笑みを深めた。
そして抜き足差し足で近づき、後ろからそっと彼の腰へ腕を回す。
声は甘く、ねっとりと絡みつく。
「律、一人で寝るの、怖いの。今夜ここにいてくれない?」
強い香水の匂いが鼻を突く。
答えを聞く前に、相沢エリカは彼の手を引いて寝室へ連れていった。
ばたん、と寝室の扉が閉まる。
「エリカ――」
一ノ瀬律は眉をひそめ、相沢エリカの名を呼ぼうとした。
だがその直後、ふっと動きが止まる。
目の前の相沢エリカは、真っ赤なナイトドレスをまとっていた。妖しく、艶やかに。
一ノ瀬律の視線がその顔に落ち、一瞬だけ恍惚と揺らぐ。
別の顔が重なったのだ。
宴会場で赤いドレスを纏い、まばゆく輝いていた相沢千尋。
個室で彼に閉じ込められながらも、冷たく彼を拒んだ相沢千尋。
やわらかな手が、彼の胸元へ這い上がる。
一ノ瀬律は反射的にその手首をつかみ、そのまま相手をベッドへ押し倒した。
