第7章
鼻先をくすぐるのは、どこか覚えのある香り。ひやりとして、酔わせるような匂いだった。
一ノ瀬律はぼんやりとした眼差しで、組み敷いた女を見つめる。赤い布地が目の前で揺れ、その色がやけに視界を乱す。相沢千尋がステージで見せた姿がふと重なり、顔をしかめ、叱責の言葉を吐きかけようとした。
「律……」
耳元で甘えるような声がした。
一ノ瀬律ははっとして視線を定める。
そこにいるのは相沢千尋ではない。相沢エリカだった。
目の奥の揺らぎは瞬時に消え、代わりに冷たい色だけが残る。
相沢エリカがすり寄ってこようとした瞬間、彼は情け容赦なく身を起こした。
相沢エリカはベッドの上で起き上がり、その背中から彼の腰へ抱きつく。声はますます甘ったるい。
「律、一緒にいてくれるって言ったじゃない」
言いながら、指先で彼の腹をくるくるとなぞった。
一ノ瀬律は眉間を寄せ、冷たく言い放つ。
「慎め」
そのまま相沢エリカの手を振りほどき、立ち上がろうとする。
もう引き止められないと悟り、相沢エリカは焦った。
「じゃ、じゃあ、マッサージするね!」
その一言に、一ノ瀬律の動きがわずかに止まる。
ゆっくり振り返ると、相沢エリカは横座りのまま笑顔を作っていた。けれど目の奥には、はっきりとした動揺が浮いている。
「さっきは私、ちょっと慌てちゃって。怒らないで」
そう言って、彼女は膝立ちになり、両手を伸ばして彼の肩を揉み始めた。
だがその手つきは、あまりにも頼りない。力加減も曖昧で、いかにも素人だ。
一ノ瀬律は目を閉じ、指の圧を感じ取ろうとした。
――違う。
あまりにも違和感がある。これまでの感触と、まるで一致しない。
彼は淡々と口を開いた。
「前より、ずいぶん下手になったな」
軽く言っただけのはずのその一言が、針のように相沢エリカの胸へ刺さる。
前より下手?
気づいたの?
相沢エリカの心臓がどくんと跳ねた。手がぴたりと止まり、顔からさっと血の気が引く。
当たり前だ。ここ五年間、一ノ瀬律の世話をしていたのは相沢千尋であって、彼女ではないのだから。
一ノ瀬律はずっと、相沢千尋が成りすましていただけだと思っている。だからこそ彼女を嫌っているのだ。
もし彼が、自分まで相沢千尋の功績を奪っていたと知ったら――どうなる。
「どうした」
目も開けないまま、一ノ瀬律が何気なく問う。
「な、何でもないよ」
相沢エリカは必死に平静を装い、頭を猛烈な勢いで回転させた。
「最近ちょっと感覚が鈍ってて。もし気持ちよくないなら、また練習するから……」
一ノ瀬律が何か言いかけた、その時。
鋭い着信音が鳴った。彼の助手からだった。
相沢エリカは、まるで救いの綱をつかんだようにほっとして、すぐ通話を促す。
「急ぎかもしれないよ」
一ノ瀬律は通話ボタンを押し、低く言った。
「話せ」
相沢エリカは興味ありげな顔で身を寄せていく。今にもまたくっつきそうだった。
その気配を察したのか、一ノ瀬律はスマホをスピーカーに切り替え、二人の間へ置いた。
『一ノ瀬社長、前にご依頼いただいたハル先生と連絡が取れました。明日午前10時、ヨルカフェでお会いしたいとのことです』
「分かった」
一ノ瀬律はそれだけ答えて通話を切る。
相沢エリカは目を輝かせ、満面の笑みで彼を見つめた。
「律、本当にハルに会えるの?」
彼がその話をした後、彼女は自分でもハルを調べていた。すごいデザイナーだということしか分からず、今は名を隠していて、ほとんど消息も掴めない人物だった。
そんな相手に会えるなんて、きっと一ノ瀬律ほどの立場でなければ無理だろう。相当骨を折ってくれたに違いない。
やっぱり、自分が望めば彼は何でも用意してくれる。
そう思うと、相沢エリカは満面の笑みになり、彼に抱きつこうとした。
「律、ありがとう。ほんとに優しいね」
だが抱きついた先には、何もなかった。
一ノ瀬律はいつの間にか立ち上がり、さりげなく彼女を避けていたのだ。
彼は冷えた顔のままベッドの前に立ち、ゆっくりとスーツを整える。振り返って相沢エリカを一瞥した。
「会社に戻る。まだ仕事がある」
そう言い残し、返事も待たずに歩き出す。
相沢エリカは焦ってベッドから飛び降り、裸足のまま追いかけた。だが一ノ瀬律の足は速く、もう階下まで下りてしまっている。
階段口に立ち尽くし、彼女はその冷たい背中を見下ろした。
目の中には悔しさがあふれ、握りしめた拳には憎しみさえ滲む。
なぜ一ノ瀬律は、自分に対してこんなにも温度が低いの。
相沢千尋とだって、もうすぐ離婚するというのに。
――まさか、本当に相沢千尋のせい?
相沢千尋の変化を思い出し、相沢エリカはぎりっと唇を噛んだ。指先にさらに力がこもる。
「相沢千尋……しつこくまとわりつけば勝てるとでも思ってるの? でも明日、私がハル先生の弟子になったら、あんたなんて簡単に踏み潰してあげる。覚えてなさい」
その頃、相沢千尋は退屈しのぎにピンク色のスマホを手に取り、助手から届いた予定を眺めていた。
【ハル、復帰したばかりなんだから露出は必要よ。ちょうどいい案件が来たの。絶対つかんで! 相手はすごく金も力もある人だから、くれぐれも怒らせないで!】
――彼女こそが、そのハルだった。
かつて最も輝いていた時期に、自ら名を消した。掴もうとしていたのは、実体のない恋だったからだ。
五年。
彼女は牙も光も全部隠し、一ノ瀬律のそばで彼を看病し続けた。ただ一度でいい、自分を見てほしかった。
でも返ってきたのは、冷たさと疑いだけ。
彼が本当に選び続けたのは、結局いつだって相沢エリカだった。
やはり恋など当てにならない。
自己陶酔した恋愛脳なんて、もっと早く捨てておくべきだったのだ。人は結局、自分の仕事を握っている時だけ後悔しない。
何年空いていても、彼女に連絡を取りたがる相手、組みたがる相手は多い。相沢千尋は助手にいくつか選ばせ、復帰の足がかりにしようとしていた。
メッセージを見ながら、相沢千尋は冷たく唇を吊り上げる。
この世に、自分が怒らせてはいけない相手なんている?
一ノ瀬律にだって喧嘩を売れるのに、ほかに誰がいるというのだ。
そう思ったちょうどその時、もう一台のスマホが鳴った。
画面に映る名前が、ひどく目障りだった。
――一ノ瀬律。
以前なら、彼から電話が来るだけで飛び上がるほど喜んだだろう。
今はただ、皮肉にしか思えない。
何の用だろう。説教でもしに来たのか、それとも別の理由か。
どちらにせよ、聞きたくない。
相沢千尋は指先を滑らせ、そのまま通話を切った。
ついでに、何の迷いもなく彼をブラックリストへ放り込む。
それからピンクのスマホを手に、助手へ返信した。
【了解。明日午前10時、ヨルカフェね。時間どおり行く】
その頃、電話の向こうで一ノ瀬律は眉をひそめていた。
相沢千尋が、彼の電話を切った。
今までならどんな時だって、相沢千尋は秒で出ていた。彼が何を言おうと従い、彼のことを自分のこと以上に優先してきた。
それが今では、平然と通話を切る。
胸の奥に、理由の分からない苛立ちが生まれる。
彼は顔を沈め、もう一度かけた。
返ってきたのは無機質なアナウンスだけ。
何度か続けてみて、ようやく理解する。
――ブロックされている。
