第1章

香椎柚葉視点

ピピピッ、ピピピッ――

空港の出発ラウンジに、スマートフォンの着信音が鋭く響き渡った。画面に表示された『道谷法律事務所』の文字を一瞥し、私はためらうことなく拒否ボタンを押した。

十三回目の着信。今日の午後だけで、十三回目。

スーツケースを引きずって隅の席に腰を下ろす。周りには、これから向かう旅先への期待に顔を輝かせた、足早な旅行者たちが行き交っている。

どこへ向かうにも、期待なんてひとかけらも抱いていないのは、私だけだった。

「ご搭乗のお客様にお知らせいたします。この便は悪天候のため、出発に2時間ほどの遅れが生じております。お客様にはご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません」

「構いません」

顔も上げず、私は不気味なほど落ち着いた声で囁いた。

「どうせ、どこへも急いでいませんから」

スマートフォンが再び震えた。メッセージだ。

『日向様、財産分与合意書へのご署名をお願いいたします。――道谷法律事務所』

日向。なんて突き刺さる呼び方だろう。昨日までは、心を甘さで満たしてくれたその響きが、今では氷柱のように胸を貫く。

震える指で、フォトアルバムを開く。表示されたのは、去年のクリスマスの写真――ミサキホールの前で撮った、日向和彦と私のツーショット。彼は私の腰に腕を回し、私はまるで甘やかされた子供のように満面の笑みを浮かべていた。

共に老いていくのだと信じていたあの頃の私は、なんて無邪気だったのだろう。

でも今は、すべてが終わってしまった。この手で、終わらせたのだから。


一ヶ月前のあの夜の記憶が、波のように押し寄せてくる。

投資家向けのパーティーは、シャンパンと笑い声でホール全体が満たされていた。日向和彦はステージに立ち、会社の目前に迫ったIPOについて雄弁に語っていた。私が選んだネイビーのスーツを身にまとった彼は、会場中の女性が振り返るほど素敵だった。

そして私は、隅の方に立ち尽くし、愛する人がキャリアの頂点に立とうとする姿を見つめていた。

「準備はいいか?」

風間真が、ためらいを滲ませた瞳で近づいてきた。

「覚悟はできてる」

私は平静を装った。

「忘れないで。彼にちゃんと見せつけるのよ」

「柚葉、他に方法はないのか?」

「ないわ」

私は目を閉じた。

「知ってるでしょ、私には長くて半年しかない。苦しみながら死んでいく私を見るより、憎んでくれた方がいい。憎しみは、悲しみよりずっと乗り越えやすいから」

風間真は私を深く見つめ、そして頷いた。彼は手を伸ばし、そっと私の腰に手を置いた。

その瞬間、日向和彦が顔を向け、私たちのいる隅に視線を落とすのが見えた。

時が止まったかのようだった。

私はつま先立ちになり、風間真にキスをした。

遠くで、日向和彦が持っていたシャンパングラスが床に落ち、甲高い音を立てて砕け散った。

決壊したダムのように、涙が目から溢れ出した。あの時の日向和彦の表情を、私は決して忘れないだろう。

驚愕。不信。胸が張り裂けるような痛み。そして、骨の髄まで達するほどの憤怒。

「柚葉!」

彼はよろめきながら駆け寄ってきた。

「一体どういうことだッ!?」

彼の声は震え、全身がわなないていた。瞳には涙が浮かんでいるのが見えたが、すぐに怒りがすべてを覆い隠した。

「和彦、私……見られるなんて……」

私はパニックを装った。

「いつからだ?」

彼は拳を握りしめ、こめかみに青筋を浮かせていた。

「言えッ!」

「三ヶ月だ」

風間真が私の代わりに答えた。

「日向和彦、こんな形で知ることになってすまない」

その瞬間、日向和彦の世界が崩壊するのを、私は見ていた。

彼は胸を打ち抜かれたように、二、三歩よろめき後ずさった。見ていた招待客たちが、ひそひそと囁き始めた。

「この……裏切り者めッ!」

その言葉は刃となって私の心臓を貫いた。彼が誰かに対して、あんな汚い言葉を使うのを聞いたのは初めてだった。

「八年だぞ、柚葉!八年もだ!君のことを分かっていたつもりだったのに!」

彼の声はどんどん掠れていった。

「終わりだ!もう、完全に終わりだ!」

私は深く息を吸い込み、フォトアルバムの『すべて削除』ボタンの上で指を彷徨わせた。この百二十七枚の写真には、私たちの八年間の愛と、三年間の結婚生活が記録されている。

私たちの痕跡を、すべて完全に消し去るのだ。

『削除』をクリック。

削除を確定。

ついに、涙がこぼれ落ちた。この世界で最も私を愛してくれた男性を、救うためだけに、この手で破壊してしまったのだ。

「あなた、何か物語を抱えていそうですね」

不意に、優しい声がした。顔を上げると、三十代前半くらいの女性がコーヒーカップを片手に、心配そうな瞳で私を見ていた。彼女は蜂蜜色の髪をして、楽そうな旅行着を身につけ、プロ仕様のカメラバッグを提げていた。

「何か特別な旅に出るところ、というお顔をされていますね」

彼女は私の向かいに座った。

「私は汐見海璃。トラベルブロガーをしています。女性の一人旅をテーマにした連載を書いているんです」

彼女はスマートフォンを取り出し、自身のブログ画面を見せてくれた。

「もしよろしければ、あなたの物語を取材させていただけませんか?」

私の物語? 私は乾いた笑いを漏らした。

「きっと、あなたの読者には重すぎますよ。自ら結婚生活を破壊した女の物語なんて」

海璃の目に驚きがよぎったが、彼女は引かなかった。

「あなたの表情は、何かを見つけるための旅ではなく、何かにさよならを告げるための旅なのだと語っています」

空港のアナウンスが流れる。

『――まもなく搭乗を開始いたします……』

「B市です」

私は呟いた。

「私たちが初めて出会った場所。八年前、上野広場にあった小さなカフェで」

「相手は?」

「元夫です」

一言一言が、鋭い痛みを伴う。

「昨日、離婚しました」

海璃は、核心を突くように尋ねた。

「何があったんですか?」

私は窓の外に目を向けた。夜の闇の中、着陸してくる飛行機の灯りが点滅している。

その問いには答えず、私は彼女の方を向き直って、無理に微笑んでみせた。

「すべてが終わる前に、いくつか残しておきたいものがあるんです」

「どういう意味ですか?」

海璃の声に、不安の色が混じった。

「かつて、二人で一緒に行こうと計画した場所を巡るんです」

私は立ち上がった。

「B市、M市、C市、S市……」

その地名を口にするたびに、胸が少しずつ痛んだ。

「私の物語を書いても構いません。でも、正体は明かさないでください」

海璃が手を差し出した。

「どんなに特別な物語でも、大切に記録します」

私はその手を見つめ、三秒間ためらった後、握り返した。

手が触れ合った瞬間、久しぶりに人の温もりを感じた。

でも、その温もりも、私の心の氷を溶かすことはもうできない。

「行きましょう」

私はスーツケースのハンドルを握った。

「物語は、今ここから始まります」

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