第2章
森田浩介は反射的に、胸にまとわりついていた女を押しのけた。涼宮佳奈の表情が、ぴしりと強張る。
「お客様からオーダーのご依頼で、私を指名されたと伺いました。どなたがご連絡を?」
水原茜は森田浩介の問いを黙殺し、会場をひと掃きするように見渡した。
前へ出てきたのは、若い女だった。
「私だよ。今日ね、うちの森田さんの高嶺の花――涼宮お嬢様が帰国したの。何贈ればいいか分かんなくてさ。あなた、手先が器用って聞いたし。腕、見せて?」
木原夕子。涼宮佳奈の取り巻きだ。
「涼宮お嬢様に仕えられるなんて光栄でしょ。ちゃんとやってよね」
木原夕子は水原茜の肩をぽん、と叩く。笑顔のまま、釘を刺す口調。
「森田さんと知り合いだからチャンスあげたの。でも、そのコネで適当に誤魔化したら許さないから」
「佳奈お嬢様は森田さんのいちばん大事な人なの。失敗したら――森田さんが真っ先に許さないよ?」
にこにこと森田浩介を見上げる。
「ね、森田さん?」
森田浩介は冷えた目で木原夕子を見た。その視線だけで、『黙れ』と告げている。
木原夕子は面白くなさそうに唇を尖らせ、涼宮佳奈の隣へ戻ってぶつぶつと小言を漏らす。
「こんにちは。水原茜さん、ですよね?」
涼宮佳奈が自分から歩み寄り、柔らかく微笑んだ。
「私、涼宮佳奈です。昨日のお粥、すごく口に合いました。ありがとう」
「これからも、いろいろお願いすることがあるかも」
それから、さらりと続ける。
「服のことは、あなたの腕を信じてる。浩介が海外に来るたび持ってきてくれた服、どれも好きだったから」
「木原夕子の言うことは気にしないで」
――なるほど。
森田浩介が「お客さまへの手土産」と言って、水原茜の店からせっせと持ち出していった新作は。
全部、涼宮佳奈へのご機嫌取りだったわけだ。
胸の奥が、ぐっと詰まる。
三年の恋が、三年分、きれいに騙されていた。
真面目に差し出した気持ちの返礼は、嘘だけ。
苦しくないはずがない。
それでも水原茜は、口元の笑みを崩さない。
「お客様に気に入っていただけるのが、私にとっていちばんの光栄です」
その反応が気に入らなかったのか、涼宮佳奈は笑顔のまま、さらに言葉を重ねた。
「もちろん好き。それに、私たちの縁はそれだけじゃないの」
「気づきません? 私たち、顔が似てる」
その瞬間、森田浩介の顔色が変わった。
水原茜は一度だけ森田浩介を流し見て、視線を涼宮佳奈へ戻す。目元をやわらかく細めて、さらりと言った。
「似てないです。私のほうが、ずっと綺麗」
一同、凍りつく。
ここにいるのは森田浩介と涼宮佳奈の友人ばかり。水原茜の存在も、もちろん知っている。
彼らの中の水原茜は、おとなしく従う「代用品」だった。
まさか、こんな言葉が飛び出すなんて。
空気が、ぴん、と痛いほど張った。
「いい加減にしろ。オーダーなら水原茜のところにサイズ記録がある。採寸はいらない。デザインはオンラインで詰めろ」
森田浩介は吐き捨てるように言う。
「今日は佳奈の歓迎会だ。各自、楽しめ」
――出ていけ。
そう言っているのと同じだった。
けれど、放っておかない男がいる。
「さすが森田さん。佳奈お嬢様にどんだけ密着してるかで、サイズ変わってないって分かるんだもんなぁ」
岩崎宇京が、わざとらしく声を張り上げる。
「おっ、そろそろ『森田さん佳奈ちゃん』を期待していい? ほらほら、乾杯しようぜ! 早く来いよ、森田さん佳奈ちゃん!」
そして、水原茜へにやり。
「水原さんも一杯どう?」
「いいですよ」
水原茜は赤ワインを取り、森田浩介と涼宮佳奈へ向けて軽く掲げる。
「早生貴子」
また一瞬、静寂。
森田浩介の顔が、目に見えて陰った。
「わあ。水原さんって、自分の立場わかってる女だねぇ」
木原夕子が、ねっとり笑う。
「それとも、森田さん以外にも男いるの? 分かる~。あんたみたいな女って、古いの捨てて新しいの捕まえるじゃん」
「この男がダメなら次。どうせ真心なんかないから、男にも困らないんでしょ」
会場がしんと静まった。
悪意の視線が、一斉に水原茜へ突き刺さる。
とりわけ――岩崎宇京の目は、いやに生々しい。
見下しているくせに、欲しがっている。そういう目。
「遊べるなら遊ぶ、無理なら黙れ」
森田浩介は不機嫌に吐き捨てる。木原夕子を叱っているようで、視線は水原茜を刺していた。
「まだいるのか。帰れ」
水原茜は、涼やかに言い返す。
「まだ前金、いただいてません」
森田浩介は苛立ったまま送金した。
入金通知を確認した水原茜は、事務的に言う。
「森田さん。以前こちらで何着もオーダーいただきましたけど、サイズがいろいろでした」
「今回は、どのサイズで作れば?」
無垢な顔。仕事の顔。
涼宮佳奈が信じられないという目で森田浩介を見る。
「……私以外にも、誰かに服を?」
「それはそれは、たくさん」
水原茜は淡々と、仕事用スマホを取り出してトーク履歴を開く。
「数えましょうか。1、2、3、4……」
「水原茜、いい加減にしろ!」
森田浩介が低い声で遮る。
だが次の瞬間、気位の高い涼宮佳奈まで、泣き声混じりに怒鳴った。
「いい加減なのはあなたよ! 私を騙したのね! もう飲んで死ぬ!」
意地になったように、涼宮佳奈はグラスを次々空けていく。
森田浩介は水原茜を睨みつけた。
「満足か? 今すぐ出ていけ!」
そう言いながら、涼宮佳奈を止めに行く。
「飲むな!」
抱きしめるようにして、低く怒鳴った。
「飲んだらどうなるかわかってるだろ! 胃が弱いくせに、ふざけるな!」
周りが「甘すぎ」「糖分過多」と、面白がって囃し立てる。
胃が弱い――?
水原茜の胸が、きり、と鋭く疼んだ。けれど、すぐに引いていく。
もう、痛みに慣れてしまったみたいに。
彼女は冷たい目で茶番を眺め、口元に嘲りの弧を描く。
飲みたいと言う女と、止める男。
涼宮佳奈がふらりと崩れ、森田浩介の胸に落ちた。森田浩介は抱き締める。
「自分を傷つけて俺を罰するつもりか? 馬鹿か。あれは全部顧客だ。説明を聞け!」
涼宮佳奈は涙を溜めた目で、甘えるようにしゃくり上げる。
「私が馬鹿なら……あなたは嬉しい?」
「……言ってみろ!」
森田浩介は涼宮佳奈を抱き上げ、そのまま歩き出した。
水原茜の横を通るとき、一瞬だけ目が合う。
森田浩介は何か言いかけて、口を開いた。
けれど次の瞬間、水原茜の氷のような視線と正面からぶつかった。
心臓が、ひくりと跳ねる。言葉が喉の奥で凍りつき、結局なにも出てこなかった。
